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中央アフリカ軍事介入の構図:フランスの対アフリカ政策に関する覚え書き

六辻彰二国際政治学者

12月6日、かねてからフランスが国連安全保障理事会に提出していた、内戦と人道危機が深刻化する中央アフリカ共和国へ軍事介入する決議が採択され、フランス軍1200名とともにアフリカ各国から3600名の兵員が派遣されることになりました。国連決議を受けて中央アフリカに展開したフランス軍は、散発的な戦闘に直面しながらも、概ねスムーズに首都バンギをはじめとする各地の治安を回復させ、反体制派の武装解除も始まりました。

フランスがアフリカで軍事活動を行うことは、稀ではありません。しかし、今年に入っての事例は1月のマリに続いて二度目で、以前と比べて頻度が高くなったことは確かです。フランスはなぜ、アフリカでの軍事活動を活発化させているのでしょうか。また、そこにはどんな意義や問題があるのでしょうか。

これらを考えるにおいて、まず中央アフリカの状況についてみておく必要があります。なぜ、中央アフリカには各国部隊が派遣されることになったのでしょうか。

中央アフリカの政情不安

世界銀行の統計によると、中央アフリカの一人当たりGDP(2005年平価)は約369ドル。サブサハラ・アフリカ平均の約992ドルを大きく下回ります。一方、2000年から2012年までのGDP成長率の平均値が、サブサハラ・アフリカで約4.7パーセントなのに対して、中央アフリカは約1.2パーセント。中央アフリカでは金やウランも採掘されていますが、アフリカのなかでも所得が低く、さらに目立った成長も実現していないのです。

この経済停滞は、中央アフリカの歴史を彩ってきた政治的混乱と並行して生まれてきました。1960年に独立して以来、中央アフリカでは4度のクーデタが成功し、軍事政権が樹立されては-例えその間に一時的に民主政に移行したとしても-さらに別の軍事政権が樹立されるという悪循環が続いてきました。その間には、1966年のクーデタで政権を握ったボカサ参謀総長が1976年に「中央アフリカ帝国」の樹立を宣言し、皇帝に即位するという奇怪な出来事すら発生しています。

同国の政治的な混乱は、冷戦終結後のアフリカ諸国を覆った、欧米諸国からの民主化圧力にさらされてからも続きました。1991年、当時のコリンバ大統領(1986年のクーデタで政権を握った)が憲法を改正し、複数政党制が憲法に明記されました。新憲法に基づいて1993年8月に行われた大統領選挙で、野党系のパタセ候補が当選したのですが、1996年4月には給与の遅配に不満を募らせた一部兵士による反政府・反大統領の抗議運動が勃発。同年11月には軍の一部が蜂起し、鎮圧に失敗したパタセ政権の要請に基づき、1998年4月には国連PKO(平和維持部隊)が派遣される事態となったのです(後述)。

治安が一時回復したことを受け、1999年9月に実施された大統領選挙では、パタセ大統領が再任。そのうえで2000年2月に国連部隊は撤退し、中央アフリカに平穏が戻ったかにみえました。

ところが、2001年11月には、再び軍事衝突が勃発。国際的な監視に基づいて実施されていたとはいえ、選挙で不正が横行するなど、中央アフリカでは他のアフリカ諸国と同様、選挙で権力を掌握したパタセ大統領が独裁化する傾向をみせていました。そして、やはり(必ずしも多くでなくとも)いくつかのアフリカ諸国でみられるように、政府に批判的な軍隊をけん制するために大統領が個人的な軍事組織を編成したことが、軍隊との関係をより悪化させる契機となりました。2001年の軍事衝突は、パタセ大統領に批判的なボジゼ元参謀総長が率いる部隊大統領親衛隊の間で発生したのです。

結局、2003年3月にボジゼ元参謀長は権力を掌握。翌年には憲法を改正し、さらに2005年には大統領選挙が実施され、ボジゼ新大統領が誕生したのです。その後、2011年の大統領選挙でボジゼ大統領は再選されました。しかし、ボジゼ大統領もやはり、恣意的な選挙運営や反政府勢力の強権的な取り締まりなど、歴代大統領がみせた兆候と無縁ではありませんでした。さらに、2000年代のアフリカが「最後のフロンティア」として域外国からの投資に沸き、急激に成長したのと比べて、冒頭で示したデータからうかがえるように、ボジゼ大統領の任期中の中央アフリカでは、経済停滞が顕著だったと言わざるを得ません。

経済成長や貧困削減に目立った成果が出ず、汚職が絶えないなか、ボジゼ退陣を求める武装勢力が結集し、2012年9月にセレカ(サンゴ語で「同盟」の意味)が設立されました。中央アフリカでは人口の約70パーセントがキリスト教徒といわれますが、セレカは少数派のムスリムがほとんどです。内戦後のリビアなどから武器や人員が流れ込み、兵力を増したセレカは、2012年12月に主な都市を占拠するに至ったのです。

今年1月、中部アフリカ10ヵ国が加盟するECCAS(中部アフリカ諸国経済共同体)の仲介のもと、ボジゼ大統領とセレカは、セレカのメンバーを軍に編入することなどを条件に停戦を合意。しかし、3月にはセレカが「停戦合意が守られていない」と主張して攻撃を再開。ボジゼ大統領は亡命し、3月25日にセレカのリーダー、ミシェル・ジョトディア氏が暫定大統領に就任したのです。

これをフランスや周辺国は批判。4月3日に隣国チャドで開催されたアフリカ諸国の会合では、ジョトディア氏を正式の大統領と認めず、18ヵ月以内の選挙実施を求めることが確認されました。ジョトディア氏はこの要求を受け入れ、選挙実施を協議するために、セレカ以外の勢力も含んだ暫定議会を設置。さらに、18ヵ月以内に実施される大統領選挙に自身は立候補しないことを明言したのです。これらはフランスおよび、フランスと連携した周辺フランス語圏諸国の外交圧力を受けた対応といえるでしょう。

ところが、もともとゲリラ組織の連合体であるセレカは、上層部の意向と関係なく、末端兵士がボジゼ派などとの間での戦闘を継続したばかりか、民間人への襲撃も頻発。8月には国連安保理が「中央アフリカは完全な無秩序状態に陥りつつある」と警告しています。ジョトディア政権は9月にセレカ解体を発表しましたが、メンバーのほとんどがこれを拒絶し、略奪や虐殺はさらにエスカレート。国連の一部などでは「大量虐殺(ジェノサイド)」の表現が用いられ始め、さらに約40万人が避難民になるなど、状況が極度に悪化するなか、今回の軍事介入が決定されたのです。

「人道的介入」の是非

少なくとも今回の中央アフリカの場合、それを「大量虐殺」と呼ぶかどうかはさておき、多くの人が死傷していることと、ジョトディア政権がセレカに対するコントロールを失ったことは確かです。民間人に対する蛮行を制止するために外部が関与することは、人道的な観点から必要でしょう。そして、当該国の「国家元首」であるジョトディア氏が一応同意し、さらに国連安保理での決議を経ている以上、フランスやアフリカ諸国が部隊を派遣することは全く合法的なものです。

とはいえ、「人道的」な目的のために、「合法的」な手続きにのっとって実施される介入であっても、問題がないとは限りません。

冷戦終結後の1990年代、旧ユーゴスラヴィアやルワンダなど世界各地で発生した民族紛争に対して、欧米諸国は「人道的介入」と称した軍事介入を行いました。「(個人が人権をもつように)各国はそれぞれ国家としての主権をもつがゆえに、立場上対等である」という主権概念と、ここから生まれる「いずれかの国が他国に優越することはないのだから、他国の内政についてどの国も関与してはいけない」という内政不干渉の理念は、近代国際政治の大原則です。しかし、国家主権と内政不干渉を強調することは、他国で発生している非人道的な行為に関しても、何もできないことになります。「人道的介入」は、「人権、人道の観点から、国家主権を場合によっては無視することもやむを得ない」という発想に基づきます。

しかし、問題は「場合によっては」という部分です。つまり、誰が、どうやって、この「場合によっては」を判断するかの明確な基準はありません。したがって、実際に介入する側、あるいは介入を主張する側の恣意によって、「介入の是非」が左右される部分があることは確かです。

それは、フランスとアフリカの関係からもみられます。フランス語圏のルワンダでは、1990年に発生した内戦の最終局面として、多数派のフツ系住民と少数派のツチ系住民がお互いに殺しあう事態が発生しました。このルワンダ大虐殺(1994)に対して、米英が関与に消極的だったこともあり、国連安全保障理事会はフランス軍の「人道的な関与」を認めるにとどめました。これを受けて、フランスは「トルコ石作戦」と銘打った介入を行い、フランス軍が「人道ゾーン」を設置して文民の保護を図りました。

しかし、実際に「人道ゾーン」が設置されたのは、むしろフツ系住民の多いエリアで、ツチ系住民の多くは、この介入によって安全を確保されることはありませんでした。さらに、フツ系の民兵が人道ゾーンを通じて近隣諸国へ逃亡することを容易にしたほか、フツ系民兵による蛮行は人道ゾーン内部でも発生したといわれます。このアンバランスな対応の大きな背景としては、フランス政府がそれまでフツ系政府との友好関係をもち、これがルワンダ国内でのフランス企業の操業と連動していたことがあげられます。つまり、ルワンダ内戦へのフランスの関与は、そのタイミングでどちらが被害を受けているかではなく、それまでの関係に基づき、フツに肩入れするものであったといえるでしょう。これは、介入する側のそれまでの関係性において、保護される者とそうでない者が分かれた一つの事例です。

一歩引いたアプローチへのシフト

1990年代、フランスはそれまでのアフリカにおける立ち位置の修正に迫られていました。ルワンダ内戦への不可解な関与はその一例ですが、のみならず中央アフリカもまた、「アフリカの憲兵」としてのフランスの役割を再考させる契機になりました。

中央アフリカでは1996年から国軍の一部、約100人が反乱を起こし、国営ラジオ局を占拠して大統領親衛隊と衝突しました。これは、アンドレ・コリンバ大統領(任1981-93)が打ち立てた、ヤコマ人など南部出身者を優遇する政権が、1993年大統領選挙における、北部出身のサラ人であるアンジュ=フェリクス・パタセ(任1993-2003)の勝利にともなって崩壊したことへの反発が一因となりました。つまり、南北間のエスニック対立が大きな背景となったのです。

ともあれ、パタセ大統領の辞任を要求する反乱に対して、フランスは1600名ともいわれた在留フランス人の保護を目的に、在留フランス軍を2300名まで増派しました。ところが、フランスはパリでの留学経験をもつアフリカ人エリート層と緊密な人的ネットワークを構築し、当該国政府と深い関係を築くスタイルを長年とってきたのですが、この場合はコリンバ派ともパタセ派とも友好関係があるため、中立での関与を余儀なくされたのです。その結果、フランスはコリンバ派からもパタセ派からも敵視されるに至り、結局フランスは単独での事態収拾をあきらめ、1997年2月に周辺のフランス語圏(ガボン、ブルキナファソ、マリ、チャド)の部隊で構成される、800名規模のアフリカ諸国間バンギ合意監視団(MISAB)を指導するポジションにつきました。さらに、MISABは翌1998年4月に解消され、これに代わってナイジェリア人を司令官とする国連中央アフリカ共和国ミッション(MINURCA)が派遣されました。「アフリカの紛争はアフリカで解決するべき」というのは、当時のコフィ・アナン事務総長の方針でもありましたが、中央アフリカで手を焼いたことが、フランスの対アフリカ政策を見直す一つの契機になったといえるでしょう

ルワンダや中央アフリカの経験を経て、1990年代の末以来、フランスは駐留フランス軍の縮小や簡素化を柱に、それまでの家父長的といっていいアプローチを改めるようになりました。中央アフリカで、単独での対応からフランス語圏を中心とするMISABの編成・支援に役割をシフトさせたことは、その典型です。また、その後はフランス語圏のみならず、英語圏諸国も含めて、アフリカ各国の軍隊に対する共同演習やPKO訓練なども行われるようになりました。

とはいえ、フランスがかつてのヨーロッパ植民地勢力のなかで、唯一アフリカに兵力を駐留させる国であることはかわりありません。深い経済的な結びつきを反映して、現在アフリカには約24万人のフランス人が居住しており、これを保護するためにフランス軍は(いわゆる外人部隊を含めて)約1万2000人の兵員をアフリカに駐留させています

再び積極的アプローチへ

このような背景のもと、今回の中央アフリカの場合も、2012年12月の段階でオランド大統領は「フランスがアフリカ各国の体制を支える時代は終わった」と述べるなど、フランス政府は直接的な関与に必ずしも積極的ではありませんでした。これが一転して介入に転じた背景には、いわば大義が揃ったことがあげられます。

必ずしも自由かつ公正なものであったとは言いにくいですが、一応選挙で選出されたボジゼ大統領が亡命を余儀なくされたことは、欧米諸国が冷戦終結後にアフリカ諸国に求め続けてきた、民主主義に反します。これらを踏まえて、フランス国内では、今回の介入が「かつての独裁者を支援するためのものとは違う」という意見も聞かれます。

第二に、あまりにも無軌道な殺戮が相次ぐことは、人道に反します。フランスの国連大使などが、再三ジェノサイド(大量殺戮)の疑いを強調することは、介入の大義を保全するという観点からも理解できます。

第三に、セレカがイスラーム中心で、しかもリビアなどから兵器や人員が流入していることは、反テロの観点から好ましくありません。1月のマリへの介入も、同様の文脈で捉えることができます。

第四に、そして最後に、現地からの要請です。昨年12月、セレカの攻勢を前にして、首都バンギにあるフランス大使館の前では、危機感を抱いた市民により、「軍事介入しないこと」への抗議デモすら発生したことや、介入後のフランス軍が行く先々で歓迎される様子を伝えるフランスのAFPの報道は、これを印象付けています。

ただし、これらの大義の陰に、フランス自身の利益があることもまた否定できません。中央アフリカからみて、フランスは最大の貿易相手。さらに、資源ブームのなかでフランス企業はアフリカ向け投資を増やしていますが、2007年にフランスのArevaは、首都バンギから北東900キロにあるバコウマ(Bakouma)でのウラン鉱山開発25億ドルを投資しています。これに代表されるように、ボジゼ前大統領はサルコジ前フランス大統領との友好関係に基づき、フランスからの投資を呼び込んでいましたが、その過程で不透明な人事や資金移動も指摘されています。いずれにせよ、バコウマにあるArevaのプラントは、昨年12月にチャドから侵入したテロ組織の攻撃を受けています。すなわち、ボジゼとフランスの友好関係の象徴であるArevaのプラントは、反体制派からみれば旧宗主国と汚職にまみれた大統領が結合した象徴であったといえるでしょう。

とはいえ、いかに歴史的、経済的に関係が深いとはいえ、フランス自身の経済状況が好調といえないなか、軍事介入は必ずしも有権者の評判がよくない選択です。さらに、ルワンダ内戦での不透明な関与を含め、フランスの対アフリカ政策に植民地主義的な側面があったことは、多くの国が知っています。そのなかで、仮に当該国でのプレゼンスやフランス企業の権益保護といった要因があるにせよ、それを直接的に打ち出すことは、いかに図々しくとも困難です。その意味で、大義が出そろったことは、適切な表現でないかもしれませんが、フランスにとって「渡りに船」だったといえるでしょう。

しかし、ここで注意すべきは、その動機づけに経済的な要素があったとしても、そのこと自体を非難することがナイーヴに過ぎるということです。一般に行為の「正しさ」は、動機づけと結果で測ることができます。両者が一致して「正しい」ことが最良であることと、両者が一致して「正しくない」ことが最悪なことはもちろんでしょう。しかし、問題は残る二つのタイプ、つまり動機づけが公明正大でも、結果になんら影響を及ぼさない対応と、動機づけに「不純な」ところがあっても、結果的によい影響をもたらす対応のうち、どちらを優先させるかということです。少なくとも中央アフリカの場合、今回の軍事介入によって救われた生命や守られた人道があるという観点に立てば、動機づけが立派でも何もしない対応より、現地の人々にとって意義があったといえるでしょう。

ただし、さらにまた注意すべきことは、「結果重視」のアプローチからすれば、フランスの対応は短期的に中央アフリカの治安回復や人命保護に役立ったにせよ、中長期的には同国の将来にとって好ましいかどうかは話が別だということです。経済的な結びつきを強め、政府間での人的ネットワークを構築する一方、自らと友好的な政権が国内からの脅威にさらされた場合には、軍事力でこれを保護する。そのプロセスに「民主主義」、「人道」、「反テロ」といった大義が加わるにせよ、フランスがドゴール時代からの家父長的な対アフリカ政策から、必ずしも抜けきっていないといえるでしょう。そしてこれが、ボジゼ政権のように、一応は選挙によって樹立されながらも、国内の文化的差異に配慮せず、一部の既得権益層に利益を還元し、反対派を武力で取り締まる政権の延命を促す一因になっているのです。フランスの国連大使は、「来年後半までの選挙実施」を強調しています。選挙をすること自体はともかく、この状況下ではどんな政権が誕生しようとも、旧宗主国への依存度においては変わりありません。そして、問題があったときに頼ってくる政府があることは、フランスにとって、一方では面倒事に首を突っ込まざるを得ないものの、逆にそれが当該国への影響力を強める契機にもなっているのです。その意味で、アフリカにとっての問題は、外部からの介入そのものではなく、介入を要請せざるを得ない状況にあるといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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