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アフリカ・ブームの国際政治経済学 2.「新たな争奪戦」(1)

六辻彰二国際政治学者

米国-「新たな争奪戦」の一方の主役

2000年までの振幅

2000年代のアフリカには主要国がこぞって進出を試みる様相は、19世紀に西欧列強が植民地争奪のために、先を争ってアフリカに進出した「争奪戦」を思い起こさせることから、「新たな争奪戦(New Scramble)」とも呼ばれる。そのなかで、「アフリカ・ブームの国際政治経済学 1.アフリカ・ブームの現状と背景(1)」の図1-12、1-13で示した対アフリカ貿易額から見て取れるように、中国とともに大きな存在感をもつに至っているのが米国である(中国については「アフリカ・ブームの国際政治経済学 3.中国の衝撃」で取り上げる)。

現代の米国のアフリカに対する関心は、主に貧困、対テロ戦争、資源の三つからなる

冷戦時代、米国のアフリカに対する関心は、概ねソ連との覇権争いに重点が置かれ、貿易など経済的関心は希薄であった。そのため、1989年の冷戦終結後、米国がアフリカへの関心を低下させたことは不思議でない。図2-1は、主な西側先進国によるアフリカ向け援助額の推移を示している。ここから1990年代の後半にかけて、米国を含む各国がアフリカ向け援助額を減額させたことが見て取れる。この現象は当時、「援助疲れ」と呼ばれた。

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しかし、1990年代の末以降、米国はアフリカへの関心を再燃させた。その契機は、1990年代半ば以降、西側先進国による開発協力の重点が、それまでの経済成長から貧困削減(poverty reduction)にシフトしたことである。

「アフリカ・ブームの国際政治経済学 4.成長と貧困が併存する大陸」で詳しく述べることになるが、1980年代からアフリカ諸国は西側先進国の圧力により、新自由主義的な経済改革を余儀なくされた。しかし、急速な規制緩和と「小さな政府」は貧困層に最も深刻な打撃を与えることとなったため、最も脆弱な立場の人々が直接アクセスできる、教育や保健といった基礎的社会サービスの充実が重視されるに至ったのある。これによって、1990年代の末以降、多くの西側先進国の開発協力における関心が「成長」から「貧困」にシフトし、これによって世界の最貧地帯としてのアフリカへの関心が高まるなか、米国もその例外ではなかった(小川裕子、2011、『国際開発協力の政治過程-国際規範の制度化とアメリカ対外援助政策の変容』、東信堂) 。

米国のアフリカ向け開発協力はNGOなどを通じた人道支援が多いが、これと並行して2000年にはクリントン政権のもとでAGOA(アフリカ成長機会法)が成立した。AGOAは締約したアフリカ諸国からの輸入品への関税を免除する内容で、その対象品目は当初4,650品目であった。AGOAは貿易の活性化を通じて相手国の経済成長を支援することを目的とするものであり、これは主に「貧困削減」への関心に基づいて誕生したといえる。

貧困と対テロ戦争

以上の背景のもと、2000年代に入って米国のアフリカへの関心は急激に高まったが、そこには「貧困削減」のトレンドだけでなく、対テロ戦争と資源価格の高騰が大きく作用した。

このうち、まず対テロ戦争について触れると、「アフリカ・ブームの国際政治経済学 1.アフリカ・ブームの現状と背景(2)」で述べたように、2001年以降の米国は中東諸国への依存度を引き下げる必要に直面しただけでなく、アフリカの貧困にさらに関心を向けざるを得なくなったといえる。「貧困がテロの温床となる」という認識の広がりにより、世界の最貧地帯であるアフリカがグローバル・テロ組織の巣窟になりかねないという懸念を呼んだのである。地理的に中東と近く、さらに貧困ゆえに警察機能が弱いことは、これに拍車をかけた。実際、母国サウジアラビアを逃れたビン・ラディンは、一時スーダンに潜伏していた。

言い換えると、西側先進国なかでも米国が対テロ戦争を契機に、自らの安全保障の観点からアフリカの貧困問題への関心を強めたのである。2002年にカナダのカナナスキスで開催されたG8サミット(主要国首脳会議)は、2001年米国同時多発テロ事件の後で最初に開催されたサミットであったが、この場でアフリカ向けに50億ドルを拠出する「アフリカ行動計画」が採択されたことは、これを象徴する。図2-1からは、2001年以降に米国がアフリカ向け援助額を急激に増加させたことが分かる。

米国は民生部門だけでなく軍事援助も強化している。2007年2月、米国はアフリカ方面を担当する統合司令部としてAFRICOM(米国アフリカ軍)の設置を発表した。AFRICOMはそれ以前、東西アフリカとインド洋沿岸部の3ヵ所に担当区が分断されていた司令部を一本化したものであり、エジプトを除くアフリカ大陸全域をカバーする。米軍の駐留はアフリカ各国によって拒絶されたため、司令部そのものはドイツに置かれているが、この編成は対テロ戦争においてアフリカを重視する米国の認識を物語る。2014年3月現在、AFRICOMは38ヵ国と軍事協定を結んでおり、各国の軍隊に対する対テロ戦の訓練や兵站部門での協力を行っている。

AGOAの機能

安全保障上の関心の一方で、世界的な資源価格の高騰は、米国のアフリカに対する経済的関心を加速させる契機となった。米国のアフリカとの経済関係は、2000年に成立したAGOAを基盤としており、米国はAGOA対象国と毎年閣僚級のフォーラムを開催している。2013年までに、AGOA対象国はアフリカ54ヵ国のうち40ヵ国にまで増加し、輸入関税免除の対象は6,850品目にまで拡大した。また、AGOA対象国からの輸入額はアフリカ全体からの輸入額の約78パーセント(2011年)を占める。

ただし、WTOの統計によると、2011年の米国の対アフリカ輸入のうち81.2パーセントは化石燃料で、同年米国が輸入した化石燃料全体の16.6パーセントを占める(WTO, 2012, International Trade Statistics Yearbook 2012)。これはアメリカのアフリカに対する経済的関心をそのまま反映した結果であるが、特定の産油国からの輸入が大半を占める状況が、「貿易を通じたアフリカの経済成長の支援」というAGOAの理念に照らすと、ギャップが大きいことは否めない。

これを踏まえて、2011年6月に開催されたAGOAフォーラムで米国は、AGOA 諸国の貿易を強化するための「アフリカ競争力・貿易拡大イニシアティブ(ACTE)」を発表した。ACTEではアフリカ諸国の輸出競争力強化、付加価値の高い製品の生産を支援するためなどに、4 年間で総額 1 億2,000 万ドルを米国が拠出することが明記された。また、2012年8月には、アフリカ産の繊維・アパレル製品の輸入に関する優遇措置を延長する内容の法案が議会によって可決され、オバマ大統領の署名で発効している。

しかし、アフリカからは、露骨に資源に偏った米国のアプローチへの警戒もみられる。2013年8月のAGOAフォーラムにおけるオープニングスピーチのなかで、AU委員会のF.H.アスィル(Fatima Haram Acyl)貿易産業委員長は、米国企業の投資によって35万人以上の雇用が生まれたことに謝意と賞賛を示す一方、AGOAを通じた輸出の大半がいまだ化石燃料であり、雇用を多く生み出す製造業分野での取引が少ないことも併せて指摘し、その改善を求めている

米国のアプローチに対する警戒は、AGOAがもつ外交チャンネルの機能にも向けられている。AGOA対象国の資格は、相手国における市場経済の導入、法の支配、貧困撲滅に向けた取り組み、労働者の権利保護などの状況に照らして、米国政府が判断する。そのため、例えば「テロ支援国家」に指定されるスーダンや、人権状況に問題があると批判されるジンバブエなどは、そのメンバーでない。いわば、AGOAは米国の対外政策を投影する場でもあるが、これに対して先述のアスィル委員長のスピーチでは、「いくつかの資格のある国」がAGOA対象国に認定されていないと指摘している。外交的な用語とレトリックではあるが、ここからはAGOAを政治的手段にすることへのアフリカからの警戒を見て取れるのである。

ヨーロッパ諸国-「古豪復活」はなるのか

隠然たる影響力

1960年前後に集中したアフリカ諸国の独立以降も、この地ではヨーロッパ諸国なかでもアフリカのほとんどを植民地化した英仏両国の影響力が際立って大きかった。公用語が英語あるいはフランス語の国がほとんどであるだけでなく、選挙や議会といった政治制度、果ては車道の左(英国)右(フランス)や電化製品のコンセントの形状に至るまで、かつての植民地宗主国の影響は社会の隅々にまで広がっている。

英仏両国はそれぞれ、主に旧植民地であるアフリカ各国首脳を交えてほぼ毎年、英連邦会議、フランス・アフリカ諸国首脳会議を開催してきた。これらの会議は両国の政治的影響力をアフリカに浸透させるプラットフォームといえる。1990年のフランス・アフリカ諸国首脳会議で当時のミッテラン大統領が、「人権保護や民主化に積極的でない国は、今後フランスから援助を期待できない」旨の宣言を行ったことは、その象徴である。また、国内の白人地主の土地を補償なしに接収し始めたロバート・ムガベ大統領率いるジンバブエは、2003年に英連邦会議から除名されている。

ヨーロッパ諸国のアフリカに対する政治的影響力は、主に経済関係によって支えられていた。英語圏アフリカで最も目立つ銀行は英国のバークレイズ銀行(Barclays)だが、これに象徴されるようにアフリカ各国では独立以来、旧宗主国系企業が大きなシェアをもつことが珍しくない。投資、貿易といったビジネスだけでなく、援助でも旧宗主国との密接な関係は顕著である。図2-2は、アフリカ各国の援助受け取り額を示している。ここからは、英国とフランスの援助が、いくつかの例外はあるものの、それぞれ英語圏、フランス語圏に集中する様相が見て取れる。これは、歴史的に深い関係を背景とする。

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そして、この状況はヨーロッパ諸国、なかでもフランスとアフリカ諸国の不透明な関係と表裏一体である。帝国主義時代、フランスは英国と比較して、自国文化にアフリカ人を同化させることをミッションと捉える傾向が強く、植民地への徹底した支配で知られた。この歴史的背景のもと、独立後も旧フランス植民地やフランス語圏諸国のパリ留学組を中心とする政府要人と、フランスの政府、企業などの間には、網の目のようなネットワークが形成されており、これが公式のルートを経ない情報伝達や意思決定を生んだのである。

1994年のルワンダ大虐殺の際、最大の貿易相手国であったフランスは「人道的介入」を掲げて軍事介入した。しかし、フランス軍が設けた「人道ゾーン」で主に保護されたのは、ゲリラ組織の中心を占めるツチ系住民ではなく、政府の中心を占めていたフツ系住民であった。さらに、この人道ゾーンで医療行為にあたったのはフランスに本部をもつNGO「国境なき医師団」であったが、これも少なくとも結果的には、フツ主体の政府、およびこれと友好関係を保つフランスの利益に適う側面があったことを否定できない(重光哲明、2001、「フランス緊急医療NGOにみる人道的介入」勝俣 誠編『グローバル化と人間の安全保障』、日本経済評論社、85-124頁)。

フランスは現在も旧宗主国のなかで唯一、アフリカに軍隊を駐留させている。合計約1万2,000人の部隊の主な目的は「フランス人の保護」であり、これは治安が必ずしもよくないアフリカ諸国で操業するリスクに鑑みて、約24万人ともいわれる在アフリカ・フランス人の安全を図るものである。ここに、まさに官民あげてアフリカとの関係を維持しようとするフランスの意志を見て取ることができる。2013年1月のマリ介入、同年12月の中央アフリカ介入など、相手国政府からの要望に基づいて軍事介入を行うことは、地域一帯の不安定化を抑制し、安定した経済環境を維持するという意味で現地の利益でもあるが、同時にフランス自身の利益にも直結しているのである。

地域レベルでの経済関係

ただし、2000年代以降、米国や中国が全面的なアプローチを展開するなか、ヨーロッパ諸国はその後塵を拝してきた。アフリカに対する圧倒的な経済関係が、この地に対する政治的影響力、ひいては自らの国際的な発言力に繋がっていたことに鑑みれば、この状況がヨーロッパ諸国の危機感を醸成したことは想像に難くない。このなかで、ヨーロッパ諸国はEUという共通市場を活かし、「新たな争奪戦」での挽回を図っている

もともと、ヨーロッパ諸国は現在のEUの前身であるEC(ヨーロッパ共同体)の時代から、アフリカと地域レベルでの経済関係を構築してきた。1975年、ECはACP(アフリカ、カリブ、太平洋)46カ国との間にロメ協定を結び、EC側が輸入する農産物に先進国産品に対するより低い関税率を適用する一般特恵関税を設けた。これはアフリカ側からみてヨーロッパ圏への輸出を促しやすい措置であった一方、ECあるいはEUからみて一方的な負担でもあった。また、一般特恵関税は貧困国に対する支援という意味合いが強いが、南アフリカに代表されるように、アフリカにもかつてと比較できないほどの経済成長を実現している国もある。

そのため、2000年にはロメ協定に代わる取り決めとしてコトヌ協定が調印され、このなかで一般特恵関税は恒久的なものでなく、暫定的な措置であることが確認された。そのうえでEUは、西部アフリカ15ヵ国からなるECOWAS(西アフリカ諸国経済共同体)や南部アフリカ15ヵ国からなるSADC(南部アフリカ開発共同体)などの地域機構とEPA(経済連携協定)成立のための交渉を進めている。

EUはEPA締結にあたって、南アなど中所得国を一般特恵関税の適用から除外する方針である。すなわち、ヨーロッパはかつてのようにアフリカを一方的に支援する対象としてではなく、ビジネスパートナーとして位置づける姿勢を、より鮮明にしつつあるといえる。この背景には、ヨーロッパ自身が金融危機後に疲弊する一方でアフリカが経済成長を実現し、両者の格差が縮まった状況だけでなく、機会を改めて詳しく述べるように、中国だけでなくインドやブラジルが対等な関係を強調してアフリカにアプローチするなか、ヨーロッパも姿勢の変化を余儀なくされたことがあげられる。

いずれにせよ、ヨーロッパ製品が大量に流入することへのアフリカ側の警戒もあり、2014年1月現在、下位地域レベルの地域機構とEUの間でEPAが締結された事例はまだない。しかし、それでもEUという単位でみれば、2012年のアフリカ向け輸出額は約1,585億ドル、同輸入額は約1,561億ドルにのぼり、米国や中国のそれより二桁多い(IMF, 2013, Direction of Trade Statistics Yearbook 2013)。また、図2-3で示すように、地域レベルでみた場合、アフリカの化石燃料の3分の1はヨーロッパへ輸出されている。今後、EUとアフリカ下位地域レベルでのEPAが成立すれば、両者の経済協力はさらに加速するものとみられる。

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その一方で、ヨーロッパ諸国はアフリカとの間で、地域レベルでの政治的な連携も強化しようとしている。2000年4月、EUはEU・アフリカ首脳会議を初めて開催し、2007年には民主主義、人権保護、工業化を含む持続的成長、地域間の統合、(貧困削減を目的に2000年に国連総会で採択された)ミレニアム開発目標の達成など、双方で共有すべき価値観や原則を定めた「アフリカ・EU戦略パートナーシップ」が採択された従来、旧宗主国と旧植民地の排他的な関係が多かったヨーロッパ-アフリカ関係に、地域間関係という新機軸を導入することで、ヨーロッパといういわば旧勢力は、「新たな争奪戦」における巻き返しを図っているのである。

アフリカ・ブームの国際政治経済学 2.「新たな争奪戦」(2)に続く

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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