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ナショナリズムと民主主義:世界史からみた2014年(上)

六辻彰二国際政治学者

ナショナリズムと民主主義から2014年を振り返る

第一次世界大戦の発生から100年にあたる今年2014年は、世界レベルでみたとき、激動の一年でした。そのなかには、世界史的な地殻変動をうかがわせるものも少なくありません。

なかでもウクライナ危機は、軍事力を背景に、既存の国境線に変更を迫るものでした。「ロシアの覇権主義」を唱える意見は根強くありますが、第二次世界大戦後のヨーロッパで最も緊張が高まった一連の動きが、クリミアやドネツクなどにおける、ウクライナ政府への広範な不満によって促されたこともまた、無視できません。国際法上、かなり疑問が大きいとはいえ、クリミア半島の住民投票で多くの人々がウクライナからの独立とロシア編入を支持したことは、そして(原油価格急落に見舞われながらも)プーチン大統領がいまだロシア国内で広範な支持を集めていることは、その象徴です。

その一方で、今年は英国からの分離独立を問うスコットランドの住民投票香港での「雨傘革命」、さらに国内ではこれらに注目度で及びませんでしたが、5月のEU議会選挙で極右政党が台頭したことなどが、世界的な関心を集めました。ウクライナと比較して、これらは軍事的な衝突にまで至らなかったわけですが、「その土地に暮らす(全てでないにせよ)人々が、『自分たち以外の者』、すなわち『他者』による支配や影響を拒絶し、『自分たちで自分たちの運命を選び取る』ことを求める」動きだった点で、ほぼ共通するといえるでしょう。

つまり、これらの出来事は、特に後者の一連の出来事は、「国民としての一体性、国民-国家の連続性、国家としての独立性」を強調するナショナリズムと、「個人の権利上の平等、人々の意志に基づく統治」を旨とする民主主義が一種の化学反応を起こし、爆発的な影響力を発揮した点で、ほぼ同様といえます。ナショナリズムと民主主義という極めて近代的な観念は、後で述べるように、もともと「兄弟」「姉妹」とまでいわなくとも「従兄弟」「従姉妹」くらいの関係にあり、これまでの歴史でも急速に接近して相乗効果を発揮したことがありました。しかし、現代はこの相乗効果がより発生しやすい状況にあり、上記の一連の出来事はその発露とみることができるのです。

国家の独立性

ナショナリズムと民主主義は、いずれも近代西欧で生まれた観念です。

このうち、ナショナリズムは主に、ローマ・カトリック教会による影響力や精神的支配に対する、各国の抵抗を素地としました。その中心にあったのは、中世以来のヨーロッパの大国の一つで、後に最も典型的な国民国家の一つになった、フランスでした。ローマ教皇ボニファティウス8世とフランス国王フィリップ4世が教会の免税特権と「教皇の世界支配」をめぐって争った結果、後者が前者を襲撃し、さらに続く教皇クレメンス5世の座所が南仏アヴィニョンに定められた「アヴィニョン捕囚」(1309-77)は、中世末期に生まれた、外部の権威に対して国家の独立性を求める動きの象徴でした。この観点から、世俗の国家がもつ至高の権力としての「国家主権」の考えが、16世紀フランスの法学者ジャン・ボダンによって打ち出されたことは、偶然ではないといえます。

また、ボダンと同じく15-16世紀に、小国に分裂し、ローマ教会の影響力だけでなく、フランス、スペイン、神聖ローマ帝国といった大国の脅威に直面していたイタリア半島で、ニッコロ・マキアヴェリが『君主論』のなかで「イタリアを取り戻すこと」を強調したことも、同様の文脈から理解できます。

ただし、中世末期から近代初頭の時期にかけて生まれた「国家主権」の観念は、その後「王権神授説」と結びつき、絶対王政を支える理念となりました。つまり、この時期に国家権力が「神から授けられた」とする宗教的な論理により、絶対の権力をローマ教皇から各国の国王に移すことが正当化されたのです。その意味で、「国家主権」の観念は、統治エリート間の権力闘争の産物として生まれ、少なくとも初期は宗教的言辞と無縁でないものだったといえます。そのため、初期の国家は少なくとも世俗的な国民主権の概念を欠いたものでした。実際、この当時、人々は「国民」ではなく、戦争の勝敗によって領土とともにやり取りされる、「臣民」(subject: 「従う者」)と呼ばれていました。

民主主義の「復活」

この一部エリート層と一体化した国家の観念を、幅広い「国民」との一体性をもったものにした契機は、市民革命にありました。

古代のギリシャやローマで生まれた共和制は、しかし中世ヨーロッパにおいて、一部の都市国家を除き、ほとんどが消滅しました。「個人の立場上の平等」を謳う民主主義は、キリスト教が思想的に絶対的な優位性をもち、ローマ・カトリック教会や聖職者を中心に高度に階層化された社会をむしろ破壊しかねないエネルギーを秘めたものだったため、逆に脅威ですらあったのです。近代に入り、宗教改革を経てローマ・カトリック教会の権威が全盛期を過ぎた後も、絶対王政のもと民主主義は「多数者の暴政」を意味するマイナスのシンボルであり続けました。18世紀、当時のヨーロッパでも稀なほど、国王が強い権力を備えた絶対王政のもとにあったフランスで、共和制を正面から賛美し、民主主義を近代に甦らせたジャン・ジャック・ルソーに対して、「謀反人」として逮捕状を発行されたことは、これを象徴します。

ルソーの死後、1789年に発生したフランス革命は、民主主義の理念を実現させたものといえるでしょう。それと同時に、フランス革命はナショナリズムの完成を促しました。それは、国家の主権者が一部エリートでなく「国民」であるという観念だけでなく、この国家と一体化した国民が外敵から国家の独立を守るべきという観念をも確立したからに他なりません。断頭台に送られた王妃マリー・アントワネットの実家である神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の軍勢がパリ近郊に迫った時、王党派が多く、戦意に乏しかったフランス軍に代わって、これを退けたのはフランス全土から集まった義勇兵でした。ここにおいて、ナショナリズムと民主主義の原理は結びついたといえます。

ナショナリズムと民主主義の理念が歴史的にオーバーラップしたことは、原理的にはさほど無理がありません。民主主義は「自分たちで自分たちを統治する」原理ですが、誰を指して「自分たち」と呼ぶかという場合、国民という単位にすることが実際的です。つまり、国家という枠組みを運用する仕組みとして、民主主義は発達しました。ここからは、「『自分たち』以外の者は有権者になり得ず、公職にも就けない」とする考え方が導き出されます。公務員を自国民に限ると定めたのは、革命後のナポレオン時代のフランスでした。元来は異なる理念でありながら、実際上の必要性から、ナショナリズムと民主主義は結びつきやすくなったといえるでしょう。

大衆社会におけるナショナリズムと民主主義

両者の結びつきがより強固なものになったのは、フランス革命からおよそ100年後の19世紀末から20世紀初頭のことでした。ここには、経済構造の変化が大きく影響していました。そして、少なくとも結果的に、ナショナリズムと民主主義がより一層強固に結びつくための触媒となったのは、社会主義でした

当時、ヨーロッパ各国では産業革命が本格化し、資本主義経済が普及するなか、都市での貧困が問題化し始めていました。貧困は単に低所得であることだけでなく、人間性の否定にも繋がるものでした。世界恐慌後の1936年にジョン・メイナード・ケインズが大著『雇用、利子および貨幣の一般理論』で「資本主義経済において失業は恒常的に存在する」と喝破するまで、アダム・スミスの「見えざる手」を信奉する自由主義者たちによる、「労働力の需要と供給は労働市場において自然に均衡がとれる=就労機会は必ずある」という想定が一般的でした。そのなかで貧困層は、「まじめに働こうとしない者=社会不適合者」の烙印を押されていたのです。また、初期資本主義経済のもとでは、雇用主による搾取も常態化していました。この背景のもと、労働者階級が自らの権利回復のために労働組合が結成されるようになり、「貧者のイデオロギー」として社会主義が普及したことは、不思議でありません。

各国でストライキが発生するなか、社会主義の広がりを恐れたエリート層は、労働者の不満を慰撫するため、その生活改善の改革を実施するようになりました。帝国主義の権化のようなドイツ帝国宰相オットー・ビスマルクが、社会主義者を弾圧した一方で、1883年に世界で初めて疾病保険など社会保障制度の導入に着手したことは、その象徴です。これと連動して、19世紀後半の各国では労働者階級の社会的影響力の高まりとともに、1848年のスイスを皮切りに男子普通選挙が、1893年のニュージーランドを皮切りに成人普通選挙が、それぞれ普及し始めたのです。

しかし、それまで選挙権をもっていた有産階級と異なり、新しい有権者は低所得層がほとんどでした。彼らが政治的影響力を増したことによって、政府が国民の要望に配慮し、サービス提供に努めざるを得なくなったことは、いわば必然でした。しかも、この時期に大規模化の一途をたどり始めた都市は、農村共同体と異なり、社会が流動的になりやすく、人々は「居場所」を意識的に求めやすくなります。つまり、大衆社会の到来により、人々の意識のなかで「国家」がそれまでになく大きくなる環境が生まれたといえます。こうして、ナショナリズムと民主主義が結びつきやすくなる土壌が整えられていったのです。

ナショナリズムと民主主義の結合がもたらす攻撃性

しかし、ナショナリズムと民主主義の結びつきは、時に攻撃的な様相を帯びることになりました。

19世紀、ヨーロッパでは国内に必要な農産物や天然資源の供給地として、そしてほぼ独占的に工業製品を輸出する市場として、植民地を確保することが一般的でした。いわば資本主義経済と植民地主義は並行して発達したのです。一方、当時は情報伝達手段が乏しく、また兵器の破壊力の低さもあって現代より犠牲者の数も少なく、さらに正規軍同士の衝突が中心であったために民間人や一般社会への影響も限定的でした。そのため、戦争や植民地支配が忌むべきものという感覚が薄く、これを背景に、普通選挙が実施される以前から、労働者階級が好戦的、排他的な主張に基づき、政府に海外進出を求めることも、稀ではありませんでした

井野瀬久美恵氏によると、19世紀末の英国なかでもロンドンでは、労働者階級が集うミュージック・ホールで戦闘的愛国主義を意味するジンゴイズム(Jingoism)を歌ったジンゴ・ソングと呼ばれる唄が数多く歌われ、大衆の帝国意識が高揚したといいます(『子どもたちの大英帝国』, 1992, 中央公論社)。18世紀以来、南下を目指すロシア帝国が度々オスマン帝国と衝突し、前者の勢力拡大を恐れた英国はクリミア戦争(1853-56)でフランスなどとともに後者を支援して参戦しましたが、露土戦争(1877-78)では軍事的な介入を行いませんでした。その1878年、ロンドンのミュージック・ホールでは、次のようなジンゴ・ソングが大流行していたといいます。「…俺たちには、船もある、兵士もいる、金もある。少し前に熊公とやりあったこともある。俺たちゃ、ほんとの英国人。ロシア野郎にコンスタンチノープルを渡してなるものか」(前掲, pp.42-44.)。

以前からあったこの傾向は、普通選挙の導入後も、基本的に衰えることはありませんでした。特に経済状況や国民生活が悪化した場合、特定の「自分たち以外の者」に責任があると捉え、「自分たちで自分たちの運命を選ぶ」ために、民主主義はより排他的・攻撃的なナショナリズムと結びつきがちでした。その典型は、当時世界で最も民主的といわれたワイマール憲法のもとで実施された1933年選挙により、ナチスが第一党になったことです。

第一次世界大戦後、ドイツは1,320億マルクという巨額の賠償金の支払いに苦しみ、その遅滞を理由に1923年にはフランスとベルギーがルール工業地帯を占領。翌1924年には100兆マルク紙幣が発行されるほどのインフレに陥りました。そこに世界恐慌が追い打ちをかけるなか、旧体制の打破、再軍備、ゲルマン民族の優越性を掲げるナチスが人心をつかんだのです。ユダヤ人虐殺を含む、その後の顛末を考えれば、結果的に当時のドイツ人は、民主主義をもって過剰なナショナリズムを選ぶと同時に、民主主義を葬ったといえるでしょう。(続く)

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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