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イスラーム国による日本人人質事件に関する「自己責任論」と「首相責任論」の狭間

六辻彰二国際政治学者

1月20日、イスラーム国による日本人の人質事件が発覚しました。2人の日本人の解放に2億ドルという法外な条件を課してきたイスラーム国は、これによって世界各国の関心を引きつけました。恐らく彼らの最大の目的は、戦闘員や共感者、協力者のリクルートのための宣伝にあるとみられますが、この目的はある程度成功したといえます

この文章を書いている時点で、既に期限の72時間は過ぎましたが、今のところ次のアクションは発生していません。日本政府はイスラーム国と接触し、引き伸ばしを要請しているとも伝えられています。一方、世界一の産油国で、メッカとメディナという二聖地を擁する「イスラーム圏の盟主」サウジアラビアのアブドゥラ国王の死去が23日に発表されました。これにより、イスラーム圏、アラブ圏の関心がそちらにしばらく集中するだろうことも、想像に難くありません。その状況はイスラーム国にとってスポットが当たりにくいことを意味するため、引き伸ばしを可能にする条件といえます。

いずれにせよ、状況はいまだ定かでなく、注視するしかないのですが、その一方で、今回の事件をめぐり、国内では「自己責任論」がネット上で広がり、その一方では、それほどの広がりでないまでも、「首相責任論」も浮上しています。

しかし、どちらも結果的にはテロリストを利する点で一致していると思います。

自己責任論の錯誤

このうち、「自己責任論」は2004年のイラクでの3人の人質事件以来、こういった事案のたびに、定期的に出てくるものです。今回のケースでいえば、自己責任論を叫ぶ人たちの最大公約数的な論理は、「危険を承知して自分の意志で行ったのだから、それが拘束されたからといって、政府が方針を変更するのはおかしいし、身代金を払うこともない」だと思います。

個人が自らの行為に責任を負うのは当然です。また、人質を取られるたびに方針を変更すれば、国家そのものがテロリストに乗っ取られます。したがって、既に打ち出している政策の変更はするべきではないでしょう。さらに、今回の場合、2億ドルという金額が、いかにも高すぎることも確かです。

ただし、本来、責任を追及すべき対象が、人質をとった側にあることはいうまでもありません。国内で犯罪が発生した際、「被害者にも落ち度がある」というのはよく聞く言い方ですが、それは原因の一つを指摘しているだけで、それと責任を置き換えた言い分です。その営為は「当事者みんなに責任がある」という結論に行き着きやすく、責任の所在をかえって曖昧にします。これはトラブルや問題そのものを忌避する、ムラ的発想といえるかもしれません。いずれにせよ、今回の場合、2人の日本人がシリアに赴いたことは、今回の出来事が発生した「原因」の一つですが、「だから何をされても文句をいえないはずだ」というのは、テロリストの責任を減じ、結果的にはこれを擁護することになります

国家の果たすべき責任

これに加えて、国家には本来、国民を保護する責任があります。雪山遭難などで捜索隊が出た場合、(少なくとも日本では)事後に個人や家族に費用弁済が請求されますが、その弁済請求の良し悪しはともかく、少なくとも一旦公共機関によって、その安全が確保される範囲内で対応されることに、異論はほとんどないとおもいます。同様に、国民の生命が危険にさらされているとき、国家がそれを黙殺することもまた許されないでしょう。

とはいえ、国家の責任が無制限でないことも確かです。今回の場合、どこまで国家がカバーすべきでしょうか。

「身代金を払えば次の誘拐を招く」という論理は固いものがあります。特に近年、テロ組織にとって誘拐は一種のビジネスになっていますが、イスラーム国の場合、国連の報告書によると、2014年の一年間で53億円の身代金を得ています。占領した土地での油田や、一部の湾岸諸国からの送金だけでなく、これらの身代金が彼らの資金源になっていることは確かです。この観点から、特に米英が身代金の支払いに否定的なことは、不思議ではありません。今回の事件でも、米国は身代金を支払わないよう、日本政府に求めてきています

その一方で、あくまでテロリストとの交渉を拒絶する米英の国民が、イスラーム国によって誘拐された場合、やはり誘拐された他の国民より多く殺害されてきたこともまた否定できません。それが報復感情を惹起し、相互の憎悪に拍車をかける一因にもなっています。人質をとる方に問題があるにせよ、交渉さえ否定してしまえば、あとは「全て力で解決する」思考に行き着きやすくなります。力ぬきで秩序は形成できませんが、力のみで創られる秩序はテロリストの論理と紙一重となります。

その観点からみれば、テロリストが要求する「2人で2億ドル」は現実に難しいとしても、減額を求めたうえで身代金を支払うことが、日本あるいは世界全体にとってより危険かどうかは一概にいえません23日の段階で安倍首相は、「身代金は払わない」と言明しました。「身代金の支払い拒絶」があくまで対外的なパフォーマンスでなかった場合、これは米英の希望に沿うものであっても、これら両国と異なり、部隊を派遣して人質を奪還することができない日本にとって、選択肢を狭めるものといえます。

その一方で、身代金を一旦おくとしても、相手の自尊心や名誉に訴えるといった説得や、身代金に代わる代替案の提案といった交渉を行うこと自体は、現状の日本が選べる数少ない選択肢です。その意味で、イスラーム国とパイプがあるといわれるヨルダン政府やトルコ政府の治安機関、宗教指導者らを通じてコンタクトをとる、そしてSNSなどを通じてメッセージを発してコンタクトを呼びかけるという今回の手法そのものは、少なくともその限りにおいては、妥当といえるでしょう。

首相責任論の危険性

次に、首相責任論について考えます。ネット上では、「拘束されている後藤氏の家族に身代金の要求があったことは政府にも伝わっていたはずなのに、エジプトでの支援表明で敢えて『ISIS対策として』と言明してイスラーム国を刺激し、今回の事態を招いた」として、2億ドルの支援を留保すべきという署名活動が行われています。1月24日現在、1万7000人以上が署名しています。

この主張に対しては、「2億ドルを留保すれば人質が解放される保証があるか」、「そもそもイスラーム国側は2億ドルの支援の留保を要求していないのに、テロリストに大盤振る舞いすることにならないか」といった疑問が沸きます。なかには元防衛官僚の柳澤協二氏のように「安倍首相が辞任することが人命救助につながる」と主張する向きもありますが、それでイスラーム国が納得するかが不明であるばかりか、テロリストに脅されれば最高責任者の首すら差し出すという、無責任な主張と言わざるを得ません。

首相責任論を主張する多くのひとには、「事件の本来の責任がイスラーム国にある」ことを軽視する点で、自己責任論者の多くと共通するようにみえます。また、特に首相責任論をいう人には、「よその戦闘に関わるべきでない」、「関わらなければ安全」という前提があるように思えます。「触らぬ神に祟りなし」というように、そこには一定程度の真理が含まれるといえるでしょう。

しかし、イスラーム国の台頭は既存の国際システムにとっての危機をもたらしているだけでなく、輸入原油の8割以上をこの地域に依存する日本にとって、中東情勢は無縁であり得ません。また、テロリストは相手を選んでくれません。欧米諸国ではイスラーム国から帰国した協力者、賛同者によるテロ活動が頻発しています。それらにいつ、在外邦人が巻き込まれるかも分かりません。

もちろん、「関わり方」、つまりほぼ常に欧米諸国と足並みを揃えることの是非は、この件に限らず、考える必要があります。また、外国からイスラーム国に参加しようとする若者を生み出す社会的不公正という土壌を改善する必要があることも、強調する必要があります。

しかし、世界全体に脅威が拡散するなかで、「イスラーム圏と欧米諸国の対立」という紋切り型の理解にしたがって、ひたすら「関わらなければ安全」と考えることは、自らの置かれている立場と眼前の脅威から目をそむけるものといわざるを得ません。

米国寄りの独裁体制を支援することの是非

個人的には、安倍政権を党派的に支持するものではありません。また、従来の日本の外交政策や国際協力のあり方も、見直すべき点があると思います。中東のみならず世界に対して、全く独立した立場で臨むことは困難でしょうが、中長期的には少しでもそれに近づけるようにすべきと、個人的には思います。

さらに、イスラーム法学者の中田考氏は、今回の安倍首相の打ち出した援助方針に米国寄りのトーンが強く、援助対象国が米国やイスラエルの影響の強い国ばかりで、さらに援助提供の際に「イスラーム国対策として」と強調したことが不用意であったと指摘しましたが、これらのポイントに関して賛同することに吝かでありません。

ただし、少なくとも現状において、日本が中立的な立場で中東にアプローチすることは、実際には困難です。日本のアプローチは非軍事的手法とならざるを得ませんが、現代の国際協力や援助では、紛争地帯でいかにプロジェクトを実施するかが微妙な問題になってきます。「援助関係者は丸腰で中立的な立場でいた方が安全」と考える立場もありますが、現代のテロ組織はそういったことへの配慮はほとんどありません。実際、援助関係者への襲撃は、シリアだけでなく世界全体で増加傾向にあります

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そのため、安倍首相の外交方針や理念に賛同するか否かにかかわらず、軍事活動に制約のある日本にとって、全く独自の行動をとることが実際に難しいことを踏まえれば、基本的な立ち位置に沿って欧米諸国やそれと近い立場の政府との関係に基づいて、必要に応じてそれらの部隊の警護のもとで援助を提供しなければ、プロジェクトそのものの実現性が乏しくなります。逆に、志や理念は重要ですが、それらがいくら公正なものであったとしても、実効性をともなわなければ、国際協力や援助は成立しません。

この観点からすると、今回の主な支援対象であるエジプトやヨルダンが米国寄りの「独裁体制」のもとにあったとしても、そして日本が米国のジュニア・パートナーであることを改めて満天下に示すことになったとしても、少なくともイスラーム国の台頭への対策として、これら各国の政府と一定の協力をすることは、難民を実効性あるかたちで保護することに当面の優先順位を置くのであれば、やむを得ないといわざるを得ません

日本の危機管理にとっての課題

文章の末尾を書いている時点で、未だに動きは伝えられておらず、二人の無事を願うばかりです。

その一方で、今回の事件は、既に大きな課題を日本に示しています。全責任を安倍首相にかぶせる主張や援助留保という選択には賛同できませんが、先述の署名運動や中田氏の主張が、今後の日本における危機管理体制の構築という観点から、重要なポイントを指摘していることは確かでしょう。今回の事件が安倍首相の安全保障政策をより強固にする公算は大きいといえますが、それに先立って国民保護にとって必要なことは、以下のポイントの検証といえます。

  • 後藤氏の家族や中田氏、ジャーナリストの常岡浩介氏から、後藤氏や湯川氏が人質になっていること、さらに身代金の要求があったことが、外務省や公安関係者に伝わっていたといわれます。これに関して政権中枢は把握していたのか、否か。
  • 把握していなかったとすれば、それはなぜか(その場合、恐らく情報伝達の経路のどこかの担当者によって、情報の取捨選択の過程でふりおとされた公算が大きいですが、そうだとすると情報管理の在り方自体を見直す必要があります)。
  • 把握していたとすれば、二人の解放に向けた動きを進めていたのか、否か。していたとすれば、どのように。また、していなかったのであれば、なぜ(その場合、恐らく外務省関係者は首相の中東歴訪に向けた準備にいそがしかったのでしょうが、そうだとすると外務省がいうところの「邦人保護」とは何なのかが問われることになります)。
  • 首相は「あらゆる手段を講じて」と強調していたが、1月22日の時点で常岡氏は、自身と中田氏にイスラーム国へのパイプがあるのに当局から協力要請がないと述べた。なぜ、協力要請をしなかったか(両氏には失礼ながら、恐らく公安当局が両氏を「好ましからざる人物たち」とみなしていること、さらに欧米諸国と異なり、そもそも民間人に協力を求めること自体、「官」意識の強い日本政府の体面にかかわるもので、拒絶反応があることが大きいのでしょうが、そうだとすると日本の国際協力などにおける長年の懸案であり、安倍政権が強調する「官民連携」について問われることになります)。

機微に触れる問題だけに、詳細な情報の公開は期待しにくいのですが、これらに関する検証がなければ、今後とも同様の事態が発生し得る危険性を排除できません。それは国民の安全確保を脅かしかねない一方、イスラーム国などのテロ組織を利することにも繋がります。いずれにせよ、今回の事件は日本のあり方そのものを問い直すきっかけになったことは確かといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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