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安全保障関連法案におけるマジックワードとしての「国際社会」

六辻彰二国際政治学者

安全保障関連法案のなかの「国際社会」

参議院での安全保障関連法案の審議が大詰めを迎えています。自公両党は「90日ルール」を用いず、参議院での可決を目指す方針に変わりはないようです。これに対して、野党は内閣不信任案の提出を含めた対応を検討中と伝えられています。

この法案には様々な論点があり、意見があります。そのなかで、「違憲か合憲か」という議論もさりながら、「自衛隊の活動範囲」もまた大きな論点といえます(安全保障関連法案の論点などについてはこちら)。

政府提出の11法案のうち、「重要影響事態法」では、これまでの「周辺事態法」から「我が国周辺の地域における」の条文が削除されました。これは、これまで「日本周辺」に限定されていた対処すべき脅威の地理的範囲が、事実上なくなることを意味します。

政府からは、「脅威がグローバル化しつつあるなか、日本の『周辺地域』に活動範囲を限定することは現実的でない」、「他国の領域に出ていくことはない」、「現に戦闘が行われている地域には行かない」、「後方支援のみで戦闘に行くわけでない」という主旨の答弁が繰り返し聞かれ、集団的自衛権行使の事例として「ホルムズ海峡での機雷撤去」があげられています。

つまり、今回の11法案は、中国や北朝鮮といった近隣の「脅威」への対処という文脈だけでなく、自衛隊の国際的な活動範囲の拡大を視野に入れたものといえます。その中核をなす「国際平和支援法」では、その第1条で「この法律は、国際社会の平和及び安全を脅かす事態であって、その脅威を除去するために国際社会が国際連合憲章の目的に従い共同して対処する活動を行い、かつ、我が国が国際社会の一員としてこれに主体的かつ積極的に寄与するもの(以下『国際平和共同対処事態』という)に際し、当該活動を行う諸外国の軍隊などに対する協力支援活動を行うことにより、国際社会の平和及び安全の確保に資することを目的とする」と述べられています。すなわち、「国際社会」のために応分の貢献をする、ということになるといえるでしょう。

鎖国時代でない現代において、国際的な安定が日本にとって欠かせないことは確かです。また、そのために「応分の負担」をする必要があることもまた、確かでしょう。ただし、ここでの問題は、「国際社会」とは、いったいどこなのかということです。

「国際社会」とは何か

一般的に、日本語の「国際社会」という用語には、「普遍的な国際社会がある」という暗黙の想定があるように思われます。

国際政治学でも、へドリー・ブルに代表されるいわゆる英国学派は、一定の共通利益と共通価値をもつ国家から構成されるものとして「国際社会」を捉え、その基本目標を維持する行動様式を「国際秩序」と呼びます【ブル(2000)『国際社会論-アナーキカル・ソサイエティ』(臼杵英一訳), 岩波書店】。つまり、例えば満員電車に人が密集して集まっていても、そこに「社会」があるとはいえないのと同じで、国家が単に集まっているだけでなく、そこに何らかの共通の価値観、共通の利益があると自覚的に捉えることで、はじめて「国際社会」というものがあるということになります。

ブルら英国学派は、国際関係が「無政府状態」(アナーキー)なものであり、そのなかで主権国家が相変わらず重要な位置を占めていることを認めたうえで、国際組織、NGOなど様々な主体が存在感をもつようになり、これらの管轄が相互に重なりあうなかで市民の忠誠心の対象も多元化する方向に「国際社会」が進むと見通しました。つまり、ここでは国家以外を含めて、幅広い主体が能動的に活動するなかで生み出される「国際秩序」が重視されているといえます。

実際、1990年代以降の国際関係を見渡せば、例えば対人地雷禁止条約(1999年発効)の締結が、もともと欧米諸国のNGOの活動が起点となり、これが西欧諸国やカナダなどの政府を動かし、多くの開発途上国を巻き込んで実現させたように、重層的な主体が「国際秩序」を生み出すシーンが増えてきました。ここから、ブルらの想定する「国際社会」が生まれつつあることを見出すこともできるでしょう。

「国際社会」への不信感

しかし、その一方で、「国際社会」が特定の国家によって自らの正当性を強調する錦旗として掲げられることも、珍しくありません。対人地雷禁止条約が発効したのと同じ1999年、西欧諸国と米国、カナダで構成されるNATO(北大西洋条約機構)は、東欧のセルビアの自治州だったコソヴォでの内戦に軍事介入しました。その際、「アルバニア人がセルビア人によって虐殺されている」という主張のもと、NATOは「国際社会」として、「人道的介入」と銘打った介入を行ったのです

この介入が国連によってではなくNATOによるものだったのは、安保理常任理事国の中ロが「主権侵害」「内政干渉」を強調して、反対したためでした。なかでもロシアはセルビアと民族的、歴史的に関係が深く、セルビア政府がNATOの介入を拒絶していたこともあり、NATOを構成する西側諸国と鋭く対立しました。また、やはり国内に民族問題を抱える中国は、「人道」「人権」を大義に「主権」が無視され、「国際社会」の軍事介入を認める前例を作ることに、やはり抵抗しました。

「多くの人が虐殺される事態を放置するべきではない」という考え方は、広く人間に共有されるでしょう。その観点からすれば、中ロの「主権尊重」は自らの不公正を覆い隠す方便という側面があったことは確かです。

ただし、中ロほど声高でないにせよ、ほとんどの開発途上国は「国際社会」による介入に否定的でした。例えばインド政府は、NATOによる軍事介入の正当性に関して、「全人類の半数の代表が空爆に反対しているのに、『国際社会』が賛成したといえるのか」と疑義を呈しました【長有紀枝(2012)『入門 人間の安全保障-恐怖と欠乏からの自由を求めて』、中央公論新社】。ここには、基本的に西側諸国しか支持しない軍事介入を、「国際社会」を名乗って正当性の根拠とすることへの不信感がにじんでいます。

「国際社会」の恣意性

これらの批判を受けて、その後「いかなる場合には軍事介入しても主権侵害にあたらないか」という研究が進められ、2006年の国連安保理で「保護する責任」に関する決議が行われました。要約すれば、「本来、国家には国民を保護する責任があり、その責任を果たせない国家はもはや国家の名に値せず、国家の持つ権利、つまり主権を全面的に認めなければならないとはいえない(したがって、アルバニア人の虐殺を止められなかったセルビアは、その時点で国家というステイタスを失っていた)。だから、そのような場合には、名ばかりの国家に代わって、『国際社会』がその人々を保護する責任を負う」という主旨になります。

これは、児童虐待に対する児童相談所や警察の介入が、なぜ正当といえるかということと、ほぼ同じ論理です。つまり、「親は本来的に子どもを健康で安全に育てる責任を負っており、その責任が果たされている限りにおいて親としての権利、親権が認められる。だから、虐待をするなど親としての責任を果たしていない名ばかりの親に、全面的に親権を認めなければならないとはいえない。したがって、必要と認められる場合には親権を無視して介入し、子どもを保護しても不当といえない」。この「保護する責任」の論理そのものは、中ロも否定できないため、安保理での採択に至ったと言えます。

ただし、問題は、「その国が本来果たすべき責任を果たしていない」、「だから介入するべき」、と誰が判断するかです。「主権尊重」を掲げ、他国、とりわけ開発途上国の内政にほとんど口を出さない中ロは、基本的にこういったテーマで発言しません。そのため、必然的にこれらは欧米諸国の判断に左右されるところが大きくなります。つまり、元の意味はともかく、international community は暗に西側を指す用語になっており、「国際社会」を強調することが欧米諸国の方針をコーティングするレトリックになりやすいことは確かです。

例えば、NATOは「人道」と「国際社会」を掲げてコソヴォに介入しました。しかし、人道的な危機があったとき、常に欧米諸国が反応したわけではありません。例えば、2003年から発生したスーダンのダルフール紛争に対して、国連は20万人以上の死者を出す「世界最悪の人道危機」と表現しました。これに対して、欧米諸国はスーダン政府への経済制裁などを実施しましたが、介入には至りませんでした。その背景には、スーダン政府と中国との密接な関係(中ロは安保理で対スーダン制裁に反対)、スーダンがイスラーム過激派の拠点の一つになっていること、さらに自らにとって直接的な脅威でないことがありました。

コソヴォの場合、欧米諸国が介入に熱意を示した背景には、イタリアやオーストリアなど近隣の西欧諸国にとって難民が流入する事態を避けたかったこと、ロシアに近いセルビアと対立するアルバニア人を支援することに心理的ハードルが低かったこと、CNNなどでの報道が欧米各国の世論を介入支持に導いたこと、などがありました。つまり、自らにとって介入するリスクが小さく、同時に介入しないことのリスクが大きいという合理的判断がそこにあったといえます。それは国際政治という世界で至極当然の話といってしまえばそこまでですが、いずれにせよ欧米諸国の「都合」で「保護する責任」が左右される状況があることは確かで、それは「国際社会」の恣意性を裏書きするものといえます。

「最悪の事態」への備え

「国際社会」の使用法そのものに恣意性が色濃くあるなか、先ほどもみたように、国際平和支援法案では「国際社会が国際連合憲章の目的に従い共同して対処する活動を行い、かつ、我が国が国際社会の一員としてこれに主体的かつ積極的に寄与する」ことが強調されています。ここでは、「国際連合憲章の目的に従い」とあるものの、必ずしもその決議を経ていることを絶対条件になっていません。つまり、この法案は、国連決議を経ない活動でも、「国際社会」とともに活動する可能性を示唆しています。これは、シリア内戦などでみられた、西側先進国と中ロの対立により、国連安保理が機能不全に陥りやすくなったことを踏まえて、「欧米諸国とともに活動する」ことを暗に示したものと言えるでしょう。

一方で、国際平和支援法案では、「外国の領域における対応措置については、当該対応措置が行われることについて当該外国(国際連合の総会又は安全保障理事会の決議に従って当該外国において施政を行う機関がある場合にあっては、当該機関)の同意がある場合に限り実施するものとする」(第2条第4項)とあり、コソヴォへの介入だけでなく、2003年のイラク戦争のように、相手国政府の同意なしでの活動に参加することは否定されています。さらに、「武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならない」(第2条第2項)ともあり、活動内容はいわゆる後方支援、兵站などに限定されます。これに従えば、イラク戦争のような戦争に、米軍とともに自衛隊が戦闘を主任務として出ていくことはあり得ません

ただし、当該国政府の同意と「国際社会」の要請があるなら、国連の決議なしでも活動できるなら、イラク戦争後に行われた自衛隊機による米軍のための武器の空輸といった活動は積極的に容認されます(イラク戦争後の空輸活動に関しては、名古屋高裁が違憲判決を下している)。つまり、「国際社会」を強調することによって、西側先進国なかでも米国の方針に合わせて行動することが、これまで以上に多くなったとしても不思議ではありません

尖閣諸島付近の海域で一方的に海底油田の採掘を進めるなど、中国の行動に目に余る部分が多いことは確かです。また、北朝鮮が弾道ミサイルの飛距離を伸ばしつつあるなか、脅威が拡大していることもまた確かです。これらに鑑みた時、独力での安全保障が困難であるならば、集団的自衛権の確保という課題が出てきても不思議ではありません。その意味で、「最悪の事態」に備える必要はあるでしょう。

しかし、違憲か合憲かという議論を一旦おくとしても、政府は日本周辺の脅威に対する「最悪の事態」を強調するほどには、「国際社会」とともに活動することによる「最悪の事態」を語ろうとしていないようにみえます。

安保理での制止を振り切った米国がイラクで泥沼にはまり込み、それに連なった英国やスペインが2004年のマドリードでのバス爆破テロや2005年のロンドン地下鉄連続爆破テロ事件を契機に米国と距離を置き始めたように、あまりに旗幟を鮮明にすることには当然リスクもともないます

先述のように、国際平和支援法案では戦闘行為への参加は否定されています。ただし、それが例え人道支援であっても、敵対する側とともに行動することが敵対行為とみなされることは、今年1月のシリアにおけるISによる日本人殺害事件からも明らかです。また、幸いにも日本国内では何も発生しませんでしたが、イラク戦争を支持したことで、日本は米国、英国、スペイン、ポーランドなどとともに、ビン・ラディンから標的に名指しされたこともあります。つまり、後方支援だから相手が大目にみてくれるということはないのです。

しかし、こうしたリスク、およびそのリスクへの対処についての説明は、政府からほとんどありません。仮に米国との同盟関係を強化するにせよ、また「後方支援」に徹するにせよ、「安全保障関連法案で日本の安全がむしろ増す」という答弁だけでは不十分と言わざるを得ません。

PKO派遣のリスク

一方、日本の個別の安全保障から離れて世界全体を見渡せば、各地で戦火があがり、緊張が高まっています。それらが間接的に日本にとっても脅威となることは確かですが、安全保障関連法案やそれに関する政府答弁には、「国際社会との協調」以外にも、「最悪の事態」への想定が曖昧な部分があります。

そのうちの一つに、国連PKOへの自衛隊派遣があげられます。1992年に始まった自衛隊のPKO派遣は、その前年1991年の湾岸戦争で日本が130億ドルを多国籍軍に拠出しながらも、国際的に、なかでも米国からほとんど評価されなかったなかで、国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指す外務省の主導で、「カネだけでなくヒトも出す」ために進められてきました

日本政府は往々にして「日本が国連PKOで実績をあげており、国際的にも評価されてきた」と強調します。しかし、外務省主導で進められてきた国連PKOへの自衛隊派遣が、他の国々より際立って高い実績をあげてきたとは必ずしもいえません内閣府のHPにはこれまで自衛隊が参加したミッションの一覧が掲載されていますが、例えば図1で示すように、昨年の段階で日本の派遣要員数は全世界のうち53位にとどまります。開発途上国が数多くの人員を派遣するようになるなか、日本の存在感は埋没しがちです。

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その大きな理由の一つとして、PKOは原則として停戦合意が成立した後に当事者からの要請に基づいて派遣されることになっていますが、必ずしも安全といえない地域に派遣されるのに、日本の場合は憲法上の理由で武器使用に厳しい制限があることがあげられます。これに関して、歴代政府は「部隊は非戦闘地域に派遣されている」というタテマエのもとで、自衛隊を国連PKOのミッションに派遣してきました

しかし、実際に安全な地域なら、そもそも当該国が国連にPKO派遣を要請することはありません。実際、2013年12月に南スーダンで内戦が激化した際、記者会見で菅官房長官は「自衛隊の駐屯地域は平静」と答弁していましたが、その数日後には退避を余儀なくされました。しかもその際、やはりPKOに参加していたルワンダ軍が警護にあたりました

今回の11法案のうち、PKO協力法では「駆けつけ警護」が解禁されていますが、これも集団的自衛権の容認が大前提になっています。これによると、従来は自衛隊が行っていなかった監視、駐留、巡回、検問、警護なども、今後は任務に入ってくることになります。これによって、国連PKOへの自衛隊派遣そのものは増えるかもしれません。ただし、注意すべきは、現地でのパトロールなどに従事することによって、要員が偶発的な衝突に直面するリスクは格段に増すことです。実際、これらの任務に従事する他国のPKO部隊が襲撃されたりすることは、稀ではありません。先述の南スーダンでも、自衛隊の撤収以前の段階で既にインド兵数名が殺害されていました。すなわち、戦闘を主任務としないとはいえ、PKOにもやはりリスクはあるわけですが、安全保障関連法案では、国際連携平和安全活動と名付けられた、国連によらない平和維持活動(PKO)への派遣も認められています。つまり、国連が実施しないミッションにまで参加機会を広げるということです。

内閣府による世論調査では、総じて国連PKOへの参加に肯定的な評価が多くみられます。しかし、自衛隊をPKOに参加させる以上、そこには「日本側にも犠牲者が出る可能性がある」ことが大前提にあるはずですが、質問票では当然のごとくそういったリスクに触れられておらず、回答者の多くもそれと意識していない可能性が大きくあります。また、総理も防衛大臣も、中国や北朝鮮の脅威を語るほどには、この件に関して雄弁とはいえません。説明責任というものは、都合の悪い部分までも明らかにすることによって、初めて果たされたといえるものですが、これまた充分とはいえません。

「国際社会」との齟齬

安全保障関連法案に関してもう一つあげられるポイントとしては、「国際的な平和と安全を確保する手段=軍事力」という図式があまりに鮮明なことがあります。もちろん、軍事力ぬきの安全はあり得ませんが、軍事力だけの安全もあり得ません。

冷戦時代、米ソはお互いに自らの安全のために核戦力を競い、抑止力を高めましたが、その一方では時期によって温度差があったにせよ、直接対決を回避する努力を怠りませんでした。キューバ危機(1962)で核戦争の淵に立った教訓から、米ソ首脳はホットラインを敷設し、偶発的な衝突を避ける回路を確保しました。さらに、ソ連のアフガン侵攻や米国議会の批准拒否など紆余曲折を経ながらも、SALT(戦略兵器制限交渉: 1969-79)やSTART(戦略兵器削減交渉: 1981-)など核戦力の軍備管理のための交渉が続けられました。これに加えて、1975年には東西ヨーロッパに米国、カナダを加えたCSCE(欧州安全保障協力会議)が設立され、疑心暗鬼を回避するために、部隊の移動の事前通知などを行う仕組みが整備されました(CSCEは1995年にOSCE、欧州安全保障協力機構に昇格)。つまり、冷戦期の米ソは、軍拡競争を繰り広げながらも、それを暴発させないためにお互いに抑制するだけの理性をもっていたといえます。これに鑑みれば、特に中国の軍拡に対する抑止力は必要でしょうが、他方で東アジアを火薬庫にしないための取り組みは、双方の当事者同士の間で、全体的に低調と言わざるを得ません。

これに加えて、これまで日本は国際的な平和と安全に関して、非軍事的な分野での貢献を専らとしてきましたが、それとても充分とは言えない状況にあるなかで、とにかく軍事分野での貢献を強調することは、ややアンバランスと言わざるを得ません。「貧困がテロの温床となる」という考え方が広がり、貧困をなくすことも長期的に国際的な平和と安全に欠かせませんが、図2で示すように、日本のODA(政府開発援助)は金額において先進国中第5位。GDPで日本より小さいドイツ、英国、フランスを下回ります。

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さらに、日本には援助を通じて平和と安全を確立することに、やや消極的なシーンも珍しくありません。イラク戦争後に就任したマーリキー首相が、自身の出身であるシーア派を優遇したことは、スンニ派の人々の不満を高め、彼らをしてISに接近させる契機になりました。マーリキー首相に対して、IS台頭以前から、最大の援助国である米国政府をはじめ、欧米諸国の多くは改善を求めていましたが、第二の援助国である日本政府はほとんど何も言いませんでした。「内政干渉」を嫌う日本政府の姿勢は、時に美徳となりますが、時には結果的に、まずい事態の進行を止めようとしないことにもなり得ます。少なくとも、「国際社会」との協力を強調する日本政府は、この点において「国際社会」と距離があります

そして最後に、国際的な戦火の広がりは数多くの難民を生んでいますが、日本政府はその受け入れに限りなく消極的です。難民の多くは陸路で移動するため、図3で示すように、その多くは紛争発生国、あるいは独裁的な政府によって国民が迫害されている国の近隣の国が受け入れていますが、先進国では米国、フランス、ドイツなどが20万人以上を受け入れています。これに対して、日本の受け入れ数は昨年末の段階で、合計14,405人と、これら各国の10分の1以下です。難民保護も国際的な平和と安全に関わる問題のはずで、実際に「国際社会」からは「バードン・シェアリング(負担の分担)」を求める声が絶えませんが、日本政府がこの面で協力を深める様子はあまり確認されません

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「国際社会」のマジックは有効か

今回の安全保障関連法案における国際平和支援法案は、中国や北朝鮮への広範な警戒感、危機感をテコに、欧米諸国なかでも米国との安全保障協力をグローバル・レベルで進め得る内容になっており、それを「国際社会」という語でコーティングしたものといえます。11法案をまとめて審議することは、様々な事柄を一度に変更するもので、今さらながら乱暴と言わざるを得ません。

日本の安全保障が重要なテーマであることは論を待たず、従来は憲法のもとで「最悪の事態」の想定すら行われなかったことに鑑みれば、「日本の民間人を乗せた米艦船の警護」といったケースが俎上にのぼったことは、まさに政府がいう「国民の生命や安全を守る」点で、重要な意味をもつといえます。

ただし、日本近隣のことに関しては非常に強調される「最悪の事態」が、「国際社会」を連呼して旗幟を鮮明にすることに関しては、ほとんど触れられていません。そのうえ、「国際社会」と協調するようでいて、「国際社会」からの要望に耳を貸さないシーンが目立つことからは、憲法解釈の変更の手順や国会の事前承認の欠如もあって、全体的に恣意的な運用の懸念が払しょくされるものではありません

時あたかも、東京五輪の開催に関する不祥事が相次いで発生しました。これら全てが政府の責任ではありませんが、五輪組織委員会を含めて全体に共通して言えるのは、決定事項を伝達し、その経緯や意図を説明すれば、説明責任を果たしたと思っている点です。平素のルーティンならそれでもいいかもしれませんが、大きな決定をする際には、ネガティブな面についても説明が求められるのは、当然と言えば当然です。後から追及される言質をとられないようにするのが政治の常道かもしれません。しかし、それでは米国をはじめとする欧米諸国の政府からの理解は得られるでしょうが、少なくとも国内向けの説明責任を果たしたことにはならないといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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