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難民問題が浮き彫りにする諸矛盾:グローバルな負のインパクトの連鎖反応

六辻彰二国際政治学者
難民(写真:ロイター/アフロ)

シリアやハンガリーなどから難民がヨーロッパに大挙して流入したのをきっかけに、難民問題に関心が集まっています。難民問題は古くて新しい問題ですが、世界全体の軋みを象徴するように、悪化の一途をたどっています。その一方で、難民問題からは、各国の国際政治、国際協力への姿勢や立場をもうかがうことができます。

まず大前提として、世界にはどのくらい難民がいるのでしょうか。図1は、世界全体の難民数の推移を示しています。ここから見て取れるように、1990年代半ば頃から1,500万人前後で推移しています。そして、やはり図1からは、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)によって庇護(ひご)されている難民を含めると、中東・北アフリカからの難民が圧倒的に多いことが、そしてアフリカ、南アジアとそれに続くことが分かります。

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国別でみると、図2で示すように、シリアだけでなく、ソマリア、スーダン、南スーダンなどからの難民が急激に増えていることが分かります。こうしてみると、ハンガリーなど経済的に困窮した東欧諸国から西欧への難民の流入も関心を集めていますが、現代の難民の最大の発生要因は、内戦など武力紛争であることが分かります。

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ところで、報道ではヨーロッパ諸国の受け入れが主に取り上げられていますが、少なくとも紛争に起因する難民の場合、その多くは紛争発生国の近隣諸国で受け入れられています。図3は、それぞれの地域別での庇護申請数を示しており、ここから難民の大部分は中東・北アフリカをはじめとする出身国の近隣で保護を求めていることが分かります。

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さらに国別でみると、図4で示すように、特に最近では、シリア近辺で政情が比較的安定しているトルコ、レバノン、ヨルダンなどに、多くの難民が流入しています。

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ただし、注意すべきは、定住地から逃れてきた人々が、「難民」だけでないということです。シリア難民やハンガリー難民、さらに先般のミャンマーから逃れてきたロヒンギャ難民のように、国境を越えて避難する難民は、世界の関心を集めることもありますが、国境を越えられず、同じ国の中で避難する人々は「避難民」と呼ばれます。例えば、UNHCRの報告によると、2014年段階でシリアには763万2,500人の避難民がいます。避難民は戦闘などにより近い地域から離れられないでいる人々ですが、メディア関係者なども近づきにくい土地であるため、より関心を持たれにくい状況にあります。

「難民」とは誰か

ところで、紛争などを逃れ、国外に避難する人々が、全て「難民になれる」わけではありません。「難民」とは一つの法的な立場ですが、それを得るためには、幾つかの条件があります。

難民の保護は、1951年に発効した難民条約、および1967年の難民の地位に関する議定書で定められています。これらは難民問題の国際法的な基盤であり、いずれも143ヵ国が批准していますが、このなかで難民とは「人種・宗教・国籍もしくは特定の社会集団に属すること、あるいは政治的意見などにより迫害を受ける者」と定義されています。この条件を踏まえて、本人からの要請に基づき、その人が「難民であるかどうか」を審査し、「難民として受け入れるかどうか」を決定する権限は、受け入れ国政府にあります

受け入れ国政府によって「難民」と認められた人々には、難民条約に基づき、大きく2種類の保護が約束されます。

まず、「消極的保護」と呼ばれるものがあります。これは「出身国に強制的に送還されない」というもので、「ノン・ルフルマン原則」と呼ばれます。身の危険を覚えて出身国から逃れてきた人々にとって、強制送還されないことは、生命や安全を確保するための最低限の条件といえます。

次に、「積極的保護」と呼ばれるものです。これは「労働条件や社会保障など、参政権を除く部分で、受け入れ国の国民と同等に扱われる」というものです。つまり、難民だから不当に安い賃金で働くことを余儀なくされるといったことは、法的に認められていないのです。これにより、難民には受け入れ国のなかで経済的に自活していく道も、ないわけではありません。

難民条約の限界

ところが、難民条約は難民問題の法的基盤でありながら、現代の状況には必ずしも充分に対応できるものではありません。

難民条約は、第二次世界大戦から間もなく締約されました。そこでイメージされていた「難民」とは主に、ナチスによる迫害を恐れ、米国やパレスチナに逃れたユダヤ人だったため、難民条約における「難民」の定義は、何らかの理由による「迫害」を大前提にしたものになっています。

ところが、現代の難民の多くは、冒頭に述べたように、シリア難民のように「内戦など武力紛争から逃れてきた人々」や、ハンガリー難民のように「経済的な困窮から逃れてきた人々」であるため、この定義に合いません。そのため、難民条約の批准国は、この条約の観点から「だけで」みるならば、これらの難民の多くを受け入れなければならない義務を負わないことになります

これに加えて、難民の移動の仕方も、かつてと大きく変わっています。映画「シンドラーのリスト」や在リトアニア領事館で外交官として勤務していた杉原千畝の逸話にあるように、ナチスに迫害されたユダヤ人たちは、「パスポートを持って、相手国のビザを取得したうえで」受け入れ国へと逃れていきました。それは受け入れる側が、顔と名前を特定できる「個人」を受け入れていたことを意味します。

しかし、このような古典的な難民は、現代ではむしろ少数派です。現代では、シリア難民に象徴されるように、その多くが「集団」で移動し、しかもビザどころかパスポートを持っていない難民も珍しくありません。個人の特定が困難である場合、難民と認定するに足る証拠(例えば、帰国すれば迫害されること)を、受け入れ国政府が確認することも、ほぼ不可能になります。

これら2つの理由から、難民条約はその批准国に、現代において数多く発生している事実上の難民の保護を命じるものになっていません。言い換えると、半世紀以上前に発効した難民条約は、現代でも難民問題の法的基盤でありながら、実態に合わない部分が大きいのです。

2種類の難民

難民条約の規定に従うと、その批准国は、たとえ紛争から命からがら逃れてきた人々であっても、それを保護しなければならない法的義務を負わず、その人たちを国境で門前払いしたとしても、条約違反にはなりません。ただし、それでは人道的観点からあまりに無情だという声があっても不思議ではありません。この声を代弁するかのように、難民条約で救済の対象にならない事実上の難民の保護に努めてきたのが、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)です。

1970年代、インドシナ紛争を逃れ、小舟で海をさまよい、その一部は日本にもたどり着いた「ボートピープル」は、難民条約の不備を露わにする一つの大きな転機となりました。その後、1990年代には旧ユーゴスラビアやアフリカの各地で内戦が多発し、例えば大虐殺で有名なルワンダ内戦(1990-94)では、周辺国に300万人以上の難民が流出しました。

こういった環境のもと、「難民条約では必ずしも保護の対象にならない事実上の難民を保護する」ために、UNHCRは「一時的保護」と呼ばれる取り組みに力を入れるようになりました。「一時的保護」とは、その名の通り、「紛争などから逃れ、パスポートやビザを持たずに集団でやってきた人々」を、彼らが逃れた先の国の政府に、「一時的に保護してもらう」ことです。つまり、難民条約の規定には合わないものの、人道的な配慮で、暫定的に受け入れてほしいとUNHCRが各国に協力を求めるようになったのです。

一時的保護の対象になる難民は「斡旋難民」と呼ばれ、難民条約で保護の対象となる「条約難民」とは区別されますが、いずれにせよ多くの難民を保護することは、様々な負担を受け入れ国に課すものです。難民キャンプの設置だけでなく、受け入れが長期化するにつれて受け入れ国の国民との摩擦が生まれることも珍しくありません。例えば、1970年のヨルダンではパレスチナ難民の、1998年のザイール(コンゴ民主共和国)ではルワンダ難民の、それぞれの受け入れをきっかけに内戦が発生しました。

そのため、「一時的保護」は「自発的帰還」を前提にしています。つまり、出身国の状況が落ち着いたら難民は「自発的に」帰還するので、あくまで生命や安全を守るために、暫定的に保護してほしいというのが、UNHCRからの呼びかけなのです。UNHCRには、各国に命令する権限はなく、あくまで難民受け入れの可否を決定する難民条約の批准国に「要請」することしかできません。そのなかで、事実上の難民を保護する取り組みとして、一時的保護は進められてきたのです。

「一時的保護」の広がりと限界

条約難民と認められた人々には、先述の「2種類の保護」が保障されますが、斡旋難民はその限りではありません。あくまで人道的な配慮から、UNHCRの要請に基づき、受け入れ国が「自発的に」行っているものです。しかし、難民条約の硬直性をカバーする一時的保護は、UNHCRの働きかけもあって、1990年代末には各国で行われるようになりました。

ただし、繰り返しになりますが、一時的保護は難民条約に基づくものではないので、各国には周旋難民を保護しなければならない法的義務はありません。また、「自発的帰還」の原則はあっても、仮に紛争が終結しても民間人同士による殺害のトラウマや、インフラの破壊、地雷の埋設などの問題は容易に解決しないため、紛争を逃れてきた人々の帰国は滞りがちです。そのため、「一時的」であるはずの保護が「半恒久的」になることも珍しくありません。UNHCRの報告によると、2014年に帰国した難民は世界全体で12万6,823人にとどまります。難民の数と比較して、その少なさは際立っています。

これらの背景のもと、難民条約では禁止されている強制送還も、斡旋難民の場合には必ずしもないことではありません。先述のルワンダの場合、難民に紛れてゲリラが隣国ザイールに逃れ、彼らは隠し持っていた武器で難民キャンプを乗っ取り、本国政府に越境攻撃を繰り返すようになりました。「ゲリラを支援している」という批判を受けかねない状況のなかで、ザイール政府は200万人以上のルワンダ難民に国外退去を命じたのです。同様に、数多くのルワンダ難民を受け入れていたタンザニア政府も、これまでに何度かルワンダ難民に退去を命じており、2013年9月にも数千人が「不法居住者」として退去させられました。しかし、これらに関して、UNHCRはせいぜい人道的な観点からの遺憾の意を表明することしかできません。

ナチス時代への反省から、戦後は「地球市民主義」に基づく国際協力を進めてきたドイツをはじめ、難民保護に積極的なヨーロッパ各国でも、1990年代半ば頃から、難民受け入れに消極的な動きがみられるようになりました。これは、EUで移民の受け入れが制限されるようになるのとほぼ同時に、難民申請が急増したことが一つの要因でした。つまり、単純労働力をもはや受け入れないという姿勢をEUが示すなか、「偽装難民」も急増したのです【マイロン・ウェイナー,1999, 『移民と難民の国際政治学』(内藤嘉昭訳), 明石書店】。

その結果、例えば英国では独自に、安全な国を一覧にした「ホワイトリスト」が作成されています。これは、そのリストに含まれている国からきた人々は難民と認定しないだけでなく、リストのなかにある国を経由してきた人々は、そこで難民申請をするべきという理由で送り返すためのものです。独自にそのようなリストを作成する権利が英国にあるかには、異論もあります。しかし、いずれにしても、一時的保護が法的義務でない一方で、事実上の難民を救う法的枠組みが整備されず、さらに紛争などで追われる人々が増え続けているなか、各国の裁量の余地が改めて浮き彫りになっていることは確かです。

グローバルな負のインパクトの連鎖

冒頭に述べたように、民間人を巻き込む紛争が多発し、経済変動が激しくなるなかで、安住の地を求めて移動する難民の増加は、国際関係の軋みを象徴します。人権尊重を一つの対外的な自己認識にさえしているヨーロッパ各国は、先進国のなかでも総じて難民保護に積極的といえるでしょう。これに加えて、難民の多く発生する地域との地理的な近さや、不法移民を含めたヒトの移動を斡旋する業者の「縄張り」も手伝って、ヨーロッパに難民が押し寄せる状況が表面化したといえます。

そのなかで、しかしヨーロッパ各国の間でも、無制限に難民を受け入れることへの拒絶反応は強まっています。先述のように、ドイツは長年、率先して難民を受け入れてきましたが、それでも自らの負担が大きくなるなかで、EU内の公平な分担を強調するようになっています。人口比などに応じて難民をEU加盟国内で受け入れる作業が進むことで、図4で示したように、ドイツの受け入れ数はこの数年で三分の一ほどに減少しました。ただし、それによって、東欧をはじめ経済的に必ずしも豊かと言えないEUの新規加盟国では、難民受け入れの負担が急増。折からの反移民感情も手伝って、外国人排斥の気運を高める一因にもなっています。

一方、ドイツとともにEUを牽引してきたフランスは、やはり多くの難民を受け入れてきましたが、一方でその開発援助が旧植民地に集中するなど、その国際協力には「国益重視」が比較的色濃くあります。さらに、極右政党の元祖とも言える「国民戦線」を生んだことに象徴されるように、フランスはEU加盟国のなかでも移民問題がとりわけ国内政治問題に転化しやすい国の一つです。

これらの背景のもと、フランスの開発援助には、難民や不法移民を国内に流入させないためのものも、珍しくありません。つまり、開発援助で開発途上国を支援する一つの目的には、フランス(あるいはヨーロッパ)に流入する難民や移民を減らすことがあるのです。同様の主旨から、フランスは軍事活動を行うこともあります。9月9日、フランス政府は、これまで控えていたシリアでのIS空爆に参加する意思を表明しました。これまでフランスは、アサド政権を利することになりかねないため、シリアでのIS空爆に消極的な姿勢を崩してきませんでしたが、数多くのシリア難民がヨーロッパに押し寄せる状況は、この方針を転換させる大きな要因になったと言えるでしょう。

フランスに限らず、多くの難民が自国に向かってやってくる状況が、それまで関与を控えていた他国での戦闘への介入を促した事例は、過去にも例のない話ではありません。1999年のNATOによるコソボ空爆の引き金は、セルビア人によってこの地を追われたアルバニア系難民がイタリアやオーストリアに押し寄せたことでした。

以上を要するに、各国は人道的な観点から、あるいは「人権・人道に配慮する国」としての看板に傷をつけないために難民を保護せざるを得ない一方で、できるだけ自らの負担を軽くしようとしているといえるでしょう。

日本にとっての難民問題

最後に、日本にとって難民問題がもつ意味について触れておきます。

先述のように、難民問題はグローバルな国際秩序の負の側面を象徴しており、各国間での協力が欠かせない問題といえます。ただし、どの国も自国の負担はできるだけ小さくしようとします。そのなかで、「公平な負担」が俎上に上ることは不思議ではありません。

しかし、この問題に関する日本政府の立場は、総じて消極的と言わざるを得ません。難民の多くが紛争発生国の周辺で受け入れられているにせよ、そしてできるだけ自らの負担を軽くしようとしているにせよ、図4で示したように、昨年段階で米国、フランス、ドイツは20万人以上の難民を受け入れていますが、昨年段階で日本が受け入れていた難民は約1万4,000人に止まります

近年では、日本は他の国で保護された難民を、その国との合意に基づいて受け入れる「第三国定住」を進めており、外務省のHPによると「平成22年度から、年に1回のペースで、1回につき約30人の受入れを3年連続して行うことにより、3年間で合計約90人をパイロットケースとして受け入れます」。第三国定住が進められるようになったことは前進と評価できるにせよ、総体としてはいまだ低いレベルにとどまります。

日本の場合、難民審査は極めて厳格で、例えば2013年には3,260人が難民申請をしたのに対して、受け入れられたのは6人だけでした。これに関して、例えば米国務省は、子どもの性的虐待や刑務所における人権侵害などとともに、難民申請における弁護士の関与に関する公的支援の不足などを指摘しています(日本弁護士会が独自に支援制度を設けている)。また、先進国のなかで日本と韓国の難民審査が突出して厳しいことは、米国以外のメディアでも折々伝えられています。これに鑑みれば、UNHCRや欧米諸国から、難民の受け入れに消極的な日本が「負担の分担」を求められてきたことは不思議ではありません。

先述のように、難民の受け入れに関する決定権は、難民条約の批准国にあります。また、斡旋難民に関しては、受け入れの法的義務もありません。したがって、日本が違法なことをしているとは言えません。法務省や入国管理局の関係者は、「難民条約に基づいて厳正な審査をしている」と強調するでしょう。

さらに、2014年度のUNHCRへの拠出金のうち、日本のそれは全体の6パーセントにのぼり、これは国単位でいえば米(39パーセント)についで、英国とともに第2位です(EUが8パーセント、民間からの寄付の合計がやはり6パーセント)。国際機関といえども、資金がなくては活動もままなりません。その意味で、日本が難民問題に貢献していないとも言えません。

ただし、難民条約が現代の難民問題に必ずしも適応できていないことも、既に述べた通りです。また、少なくとも受け入れ人数から見れば、どうひいき目にみても、日本が率先して難民問題に関わっていないことも確かです。UNHCRに資金協力をしながらも、自国でほとんど難民を引き受けていない状況は、外部から「寄付はするが祭に顔を出さない金持ち」といった風情に目されても、全く不思議ではありません。

日本政府は折に触れ、日本が平和国家として国際協力に積極的であると世界で公言しています。しかし、欧米諸国が自らの負担を減らそうとしながらも、それでも数十万人単位で難民を受け入れていることに鑑みれば、日本政府の「国際平和に積極的」という言葉があまりに空疎に響くように感じるのは、私だけでしょうか。

もっとも、これはひとり政府に還元できる問題ではありません。日本文明そのものがインド文明や中国文明などの成果を受容して発達した歴史を踏まえると、日本には様々な外来の要素を受け入れる素地があるはずですが、移民問題だけでなく、日本人同士でも、福島から避難してきた人々に対する嫌がらせが各地で発生した(している)ことからも、その排他性は根深いものがあると言わざるを得ません。メディアで支配的な「ヨーロッパに難民が押し寄せて大変」という対岸の火事のような見方は、基本的に自らの問題と認識していないことを示します。その意味で、グローバルな変動の一つの象徴である難民問題は、日本の閉鎖性をも浮き彫りにしているといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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