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アフリカ・ジブチにおける中国の軍事拠点の建設がもつ意味―「普通の大国」がもたらす二つの効果

六辻彰二国際政治学者
アデン湾での海賊対策のためマルタに寄港した中国艦船(2013)(写真:ロイター/アフロ)

12月4日、北東アフリカ、ジブチの外相は、中国海軍が拠点を設けることを発表しまし

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た。中国がアフリカ地域で軍事拠点を設けるのは初めてのことです。これに関して、中国政府は「海賊対策」を強調しています。

今回の決定は、中国の「海外膨張」の一端とみなされやすいのですが、コトはそれほど単純ではなく、同国の対アフリカ・アプローチのシフトを象徴するものといえます。

ソマリア海賊とジブチ

今回、中国が軍事拠点を設けるジブチは、もとはフランスの植民地だった土地で、独立後もフランス軍が駐留してきました(フランスはアフリカにおける自国の権益保護のため、旧宗主国のなかで唯一アフリカに部隊を駐留させている)。2001年からは対テロ戦争と海賊対策のため、米軍も軍事拠点キャンプ・ルモニエ(約4,500名)を設けています

北東アフリカのこの一帯は、中東ほどスポットが当たらないものの、その不安定さでは引けをとりません。近隣にはかつてオサマ・ビン・ラディンが潜伏し、今でも米国が「テロ支援国家」に指定しているスーダン、そのスーダンから2011年に独立しながらも、その後2013年に内戦に突入した南スーダン、1990年代に全面的な内戦に陥り、国家として破綻したソマリア、そのソマリアに拠点をもつアルカイダ系のイスラーム過激派アル・シャバーブを支援しているといわれるエリトリアなど、地域全体の不安定要素となる国がひしめいているのです。「テロの本場」中東のすぐそばという立地条件も、これに拍車をかけています。

なかでも、地域外の各国が直接的な脅威と捉えているのが、ソマリア沖やアデン湾の海賊です。

「軍閥」と呼ばれる武装集団が各地を実質的に支配し、あたかも日本の戦国時代のような様相を呈してきたソマリアでは、失業や貧困が万延し、他方で有り余るほどの武器が国際市場を通じて(「需要があるところに供給が発生する」という市場の原理に基づいて)流入してきました。海賊の横行は、アル・シャバーブなどによる資金調達であると同時に、貧困と武器が万延する状況における「生計を立てる手段」でもあるのです。

いずれにせよ、ソマリア沖やアデン湾でタンカーなどを襲撃する海賊の活動が活発化する状況は、日本にとっても他人事ではありません。この海域は地中海からスエズ運河、紅海を経て、インド洋に至る海上ルート上にあり、国際海運の要衝にあたります。そのため、日本のタンカーも多くがここを通過します。

この状況のもと、2008年からソマリア沖やアデン湾では、国際海事機関(IMO)の決議を受けて、米海軍を中心とする第150合同任務部隊が海上警備活動を共同で行っています。この多国籍部隊はNATO加盟国の他、オーストラリア、ニュージーランド、パキスタンなどの艦船や、2009年から日本の自衛隊も参加しています。また、事実上、米国の第5艦隊によって指揮される第150合同任務部隊とは別枠で、ロシアや中国も2008年頃からこの一帯に艦船を派遣し、自国や友好国の船舶を中心に警護活動を行ってきました

このような状況のもと、ジブチは各国の艦船の停泊地としてスポットがあたるようになったのです。ジブチは必ずしも民主的とは言えませんが、北東アフリカで(エチオピアとともに)例外的に総じて安定し、大きな港を持ち、さらに(植民地主義の歴史からこれに拒絶反応が強いアフリカ諸国のなかで)外国軍隊の駐留に比較的慣れていることが大きな要因です。自衛隊も、2011年からP3C哨戒機の離発着などを行う基地を設けており、約180人が派遣されています。それは裏を返すと、砂漠地帯で資源にも乏しいジブチにとって、基地や外国の艦船が重要な収入源になっていることも示します

中国による基地建設の余波

各国がいわゆるシーレーンの安全確保のためにコストを負担しているなかで、中国が海賊対策に協力すること事態は、その限りにおいては他の国にとっても利益となります。これまで、(自国の艦船が主な対象であるとしても)中国海軍がソマリア沖で警備活動を行うことに、米国政府は「海賊対策の一翼を担うもの」と歓迎する意向を示してきました

しかし、人民解放軍の海外展開という観点から、今回の決定に対する警戒感も米国内には広がっています。中国の軍事拠点が建設される予定の同国北部オボックが米軍のキャンプ・ルモニエと近いことは、米国の懸念に拍車をかけています。

改革・開放を推し進めたトウ小平は、中国の台頭が必ず周辺からの警戒を招くことを予見して「平和的発展」の路線を敷きました。しかし、中国が巨大化するにつれて、東シナ海や南シナ海などで、日本を含む周辺国との摩擦が増えたことは、周知のとおりです。それにともない、中国が軍事力を増強させてきたこともまた確かです。中国国内で格差の拡大や生活不安、さらに経済成長への懸念が広がるなか、共産党体制はナショナリズムを鼓舞しており、これが「大国としての」軍拡を支えているといえるでしょう。

ジブチでの軍事拠点の建設に関して、習近平国家主席は「我々の国際的な身の丈にふさわしい強固な国防力と軍隊を築くことは、国家安全保障と開発の利益に適合する」と述べたと新華社通信は伝えていますが、その一方で、復旦大学の沈丁立(Shen Dingli)教授がニューヨーク・タイムズのインタビューに対して答えたように、「我々の航行の自由を守る必要があり」、「海賊でもISでも、そして米国でも、誰であっても我々の行く手を阻む者があるなら、これを切り拓く」と強気の発言は政府外でも珍しくありません

中国政府は2013年からユーラシア大陸を横断する交通網の整備により、供給過剰になっている中国製品の販路拡大を目指す一帯一路構想を掲げています。ソマリア沖やアデン湾を含むアラビア半島の一帯はこの構想圏に含まれており、この観点からも中国がこの地域の安定に関心をもつことは不思議ではありません。

アフリカにおける中国

ただし、ジブチを含むアフリカは、アジアと比較より一層、中国がデリケートな扱いを心がけざるを得なかった土地です。それは、アフリカ各国の多くが中国の国際的な立場を支えてきたことによります。

中国によるアフリカ進出は、1950年代半ばにさかのぼります。スターリン没後の中ソ論争で、東側の盟主・ソ連との関係が悪化した中国は、他方で西側の超大国・米国とも対峙しなければなりませんでした。このなかで中国は、「世界最大の開発途上国」と自らを位置づけ、独立間もない開発途上国を味方につけることで、国際的な孤立を回避しようとしたのです。

なかでも1960年前後に独立し、反植民地運動の熱気が冷めきっていなかったアフリカ諸国は、その主な対象となりました。中国は1956年のエジプトを皮切りに、相次いでアフリカ向けの援助を実施。そのなかには、ナミビアやジンバブエ(ローデシア)の植民地解放闘争に対する軍事援助なども含まれ、ヨーロッパ諸国や南アフリカなどの白人政権に対する反帝国主義を掲げる中国は、少なからずアフリカで支持を受けることになったのです。中国は1972年に台湾(中華民国)から「中国」の国連代表権を勝ち取りましたが、この際に毛沢東は「アフリカの友人のおかげ」と言ったといわれます。

しかし、中国自身が改革・開放を推し進めた1980年代以降、その対アフリカ・アプローチには、経済的な関わりが増えていきました。爆発的に増加する中国製品の市場として、そしてエネルギーや食糧の調達先として、アフリカの持つ重要性がクローズアップされるようになったのです。1989年の天安門事件で西側先進国から経済制裁を受けた際、再び国際的孤立に直面した中国が頼ったのは、やはりアフリカ諸国からの外交的支援でした

当時、西側先進国はIMFや世界銀行を通じて(ちょうど最近のギリシャと同じように)アフリカに対して規制緩和や「小さな政府」を強要しながら融資を行っていました。西側先進国からの「外圧」や「内政干渉」にやはり直面していたアフリカは、貧困国が多いものの、国連など「一国一票」のルールが適用される場では、その数を頼みに中国を支援することが珍しくありませんでした。こうしてみたとき、中国とアフリカの関係は、最近よく目にする「中国が援助でアフリカを買収している」といったトーンだけで語られるものではないといえます

西側とアフリカに対する態度の違い

ただし、こういった「互恵関係」は、むしろ最近になって怪しくなってきました。2003年に発生したスーダンのダルフール紛争で、5年間で40万人以上のアフリカ系の住民を無差別に殺害するアラブ系民兵組織を支援したとして、国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が発効された同国のアル・バシール大統領を擁護し、国連安保理での制裁決議に拒否権を発動した一方で、同国での油田開発やインフラ整備のための投資・援助を続け、石油を購入し続けたことは、「アフリカにおける中国」が、少なくとも西側先進国で批判の矛先となる決定的な転機となりました。

これを契機に、中国はアフリカ向けの援助をむしろ本格化させてきました。例えば、2012年の第5回中国‐アフリカ協力フォーラム(FOCAC)で、中国政府は200億ドルの融資を約束しています(中国の対アフリカ関係と援助内容の変化に関する詳細はこちら)。さらに、ジブチ政府による中国の軍事施設建設の発表と同じ12月4日に開催された第6回FOCACでは、3年間で600億ドル(7兆3,600億円)を投資することが明言されました。

ダルフールの問題などに関して、中国政府は「内政不干渉」の原則を盾に、むしろ西側の「内政干渉」を批判するなど、先進国に対しては強硬な姿勢を崩しませんが、アフリカに対しては話が別です。つまり、1950年代からの関係だけでなく、「大国」としてよりその発言力を増すためには国際的な支持が欠かせず、そのためには嫌でも応でもアフリカ内の世論に反応せざるを得ないのです。

これに加えて、2000年代半ば以降、中国企業によるアフリカ系労働者の搾取や自然保護区での資源開発といった問題が噴出しています。それにともない、各国の市民レベルでも、かつては無条件に歓迎していた中国企業や中国人商人に批判的な目を向ける人も増えており、アフリカ各国政府はこの国内世論を無視できません。その結果、例えばボツワナでは、中国人商人に最低4人のボツワナ人を雇うことなどが法律で義務付けられており、その新規移住も規制の対象になっています

こういったアフリカ内の変化は、中国政府をして「アフリカへの貢献」をより強調させることを促してきたといえるでしょう。

アフリカでの安全保障分野での関与

ところで、中国による「アフリカへの貢献」は、民生分野だけでなく、安全保障分野でも進められてきました。

冷戦期から、中国は「世界の警察官」を自称する米国が海外で軍事活動を行うことを「帝国主義的」と非難してきました。また、国内の経済改革にエネルギーを傾けていたこともあり、国連の平和維持活動(PKO)にもほとんど参加していませんでした。

しかし、1991年に西サハラでの国連PKOに初めて要員を送ったのを皮切りに、少しずつその規模は拡大。特にダルフール紛争後はこれが急激に加速し、2008年には合計1,981名がアフリカでの国連ミッションに参加し、約300名を派遣していた米国を凌ぐに至りました【David H. Shinn (2008) ‘Military and Security Relations: China, Africa, and the Rest of the World,’ in Robert I. Rotberg ed., China into Africa: Trade, Aid, and Influence, Baltimore: Brookings Institute Press, pp.155-196】。現在では、安保理常任理事国のなかで最大規模の兵員をアフリカでの国連PKOに送っています。これもやはり、アフリカ内部での反中世論の広がりを背景とした「貢献」といえるでしょう。

ただし、国連という枠組みのなかでの活動はともあれ、安全保障分野での二国間協力について、中国は長く慎重な立場を崩してきませんでした。それは自らの経済発展という前提に抵触するだけでなく、アフリカにおける自らの立ち位置にも関わる話です。批判があるにせよ、中国が少なからずアフリカ諸国で支持される(2013年のピュー・リサーチ・センターの調査によると、世界平均で「中国に好感をもつ」割合は50パーセントで、「米国に好感をもつ」の63パーセントから水をあけられたものの、アフリカでの中国のそれは72パーセントに及び、米国の77パーセントと大差なかった)背景としては、中国が欧米諸国と自らを対置させてきたことがあげられます。

先述のように、植民地時代からほぼ一貫して、特に1980年代以降、アフリカ諸国は欧米諸国からの「外圧」にさらされてきました。1980年代以降の新自由主義的な経済改革の要求は、その象徴です。しかも、その改革で成果が出たならまだしも、1990年代末に至るまで、アフリカは成長から見放されていました。さらに、冷戦終結後に欧米諸国が人権保護や民主化を援助の条件にしたことで、貧困地帯のアフリカは、他地域にも増して、その圧力をまともに受けることになりました。これらに鑑みれば、アフリカに根深い欧米不信があったとしても不思議ではありません(ただし、その裏返しで、欧米諸国に対する一種のあこがれを多くの人がもっていることも確かです)。

この観点からすると、「欧米諸国と違う」ことを強調することが、アフリカにおける中国の存在感の一因になったといえます。アフリカにおいて中国が、相手国への内政に関与することとともに軍事的な関与を控えてきたことは、その象徴でした。

中国の対アフリカ・アプローチの変化とその二つの側面

ところが、アフリカ進出を本格化させるにつれ、中国はこれら「欧米諸国との違い」を強調し続けることが難しくなってきたといえます。

その端緒は、2013年12月に勃発した南スーダン内戦で、中国政府が当事者に停戦を呼びかけたことです。これは南スーダンの油田開発に中国企業が多数関わっていることを考えれば当然ですが、他方でダルフール紛争などどこ吹く風といった風情で経済活動にいそしんでいたことに鑑みれば、従来の「主権尊重」から方針が微妙にシフトしたことを示していました。つまり、アフリカ内部での活動が本格化するにつれ、アフリカの安定と中国自身の利益がリンクし始めるなか、完全に西側先進国と歩調を合わせることはないとしても、中国も「主権尊重」「内政不干渉」だけではやっていけなくなったといえます。

そして、今回の軍事拠点の建設です。それに先立つアフリカ地域における中国の軍事展開としては、2011年12月に報じられた、インド洋の島嶼国であるセーシェルでの拠点建設があげられます。この際、セーシェルからの申し出に対して、中国側はむしろ「基地建設」の否定にやっきになりました。それは従来からの方針に反するだけでなく、インド洋一帯を「内海」と捉えるインドが強い懸念を示したためです。その結果、「基地」ではなく「補給所」というグレーな位置づけで決着しており、「セーシェルに中国海軍の基地はない」というのがインド政府の公式見解になっています。

しかし、ジブチのそれは、明らかに「基地」と位置付けられています。これもやはり、アフリカにおける安定の確保が中国自身の利益にとって欠かせなくなっていることを示しますが、いずれにせよこれでまた「欧米諸国との違い」は曖昧なものになっていくことになります

これに関して中国の知識人からは、「これまで米国がやってきたことを中国がやるだけ」という、いわば開き直った意見も聞かれます。この論調は、トウ小平の方針から離反し、経済だけでなく安全保障を含めた、いうなれば「普通の大国」になることを是とするものといえるでしょう。さらに、例えば新華社通信が10月に「ウガンダ軍司令官からアフリカでの中国による軍事的な関与に期待が示された」ことを伝えるなど、アフリカにおける安全保障分野での関与を増やすことを既成事実化する流れを見出すことができます。

もちろん、軍事予算が年々増加しているとはいえ、中国が米国と並ぶ軍事大国になる道のりはまだ遠いでしょう。しかし、危険地帯での活動における自国兵士の生命や安全に、米国ほど顧慮しなくてよい中国は、その規模にかかわらず、アフリカでの活動を行いやすい条件を備えているといえます。すなわち、ジブチでのそれを端緒とする中国の軍事展開は、アフリカでの地歩をより固める効果を内包するでしょう。

ただし、その一方で、軍事展開は「欧米諸国との違い」をますます曖昧にすることになり、ひいては中国がアフリカで支持を集めてきた条件を自ら掘り崩すことにもなり得ます。その意味では、中国政府にとっても大きなジレンマがあるといえます。いずれに転ぶかは、中国がアフリカでどの程度「熱心に」人民解放軍を運用するかによります。

これらに鑑みれば、既成事実化を図りながらも、ソマリア沖など死活的なエリア以外で、今後すぐに部隊展開を図れる体制を中国がとることを想定することは困難です。とはいえ、以上に述べたような文脈に照らせば、それがもたらす海賊対策の効果とは別に、長期的には中国による安全保障分野での進出の本格化が、今後のアフリカにおける外部勢力の力関係にも大きく影響することもまた確かといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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