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男子マラソン銀メダリストの抗議:エチオピア政府による弾圧とは

六辻彰二国際政治学者
リオ五輪男子マラソンでゴールインするリレサ選手(2016年8月21日)(写真:ロイター/アフロ)

リオデジャネイロ五輪の最終日、古代オリンピックのもととなった競技の一つで、近代五輪では毎回最後に行われるマラソンで、それは起こりました。8月21日、男子マラソンで銀メダルを獲得したエチオピアのフェイサ・リレサ選手が、ゴールインの際に頭上で腕を交差させました。これは出身国エチオピアの政府が国民の政治活動を弾圧していることへの抗議の意思を示したもので、リレサ選手自身はそれによって自らの生命も危険かもしれないと語っています。

エチオピアでは、主に同国北部のオロモ州と北西部のアムハラ州で、昨年11月頃から政府に対する抗議デモと、これに対する鎮圧が繰り返されてきました。これらの抗議デモはお互いに結びついてはいないようですが、いずれにせよ国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、今年6月までにオロモ州だけで少なくとも400人が治安部隊によって殺害されています

オリンピックは「平和の祭典」と称されますが、それは「そうであるべき」という目標であって、実際には政治と無関係ではあり得ません(詳細については池井優.1992.『オリンピックの政治学』.丸善)。特に自分の国で政治活動ができない、あるいは国際的に関心がもたれにくい問題の場合、国際的に活躍するアスリートがオリンピックの場で自らの国を告発することは、これまでにもありました。今回のリレサ選手の行為も、その一つといえるでしょう。

選挙を経た実質的な一党制

アフリカ北東部にあるエチオピアは、紀元1世紀にはアクスム王国と呼ばれる王国が成立し、アラビア半島などとの交易で栄えた土地でした。13世紀にはソロモン王朝が成立し、これがのちにエチオピア帝国として発展。エチオピア帝国は、ヨーロッパ列強によってアフリカ全土が植民地支配された19世紀から20世紀半ばにかけても、独立を保ったことでしられます。

現在のエチオピアは、議院内閣制のもと、憲法に基づいて定期的に選挙が行われています。実質的な権限は首相に集まっており、大統領はいわば形式的・儀典的な役職です。この体制は、内戦によって1991年に社会主義政権が崩壊した後に成立しました。

ただし、憲法に基づいて選挙が行われているからといって、必ずしも民主的とは限りません。2015年のエチオピア議会選挙では、547議席中500議席を与党「エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)」が獲得しています。もちろん、これが自由かつ公正な選挙の結果であれば、それは有権者の意志と呼べるでしょう。

しかし、エチオピアでの選挙プロセスは、疑問の余地が大きいものです。国際人権団体アムネスティ・インターナショナルによると、2015年選挙では選挙監視委員会が半数以上の野党系候補の登録を拒否。実際に立候補できた野党系候補は400人中139人だけだったといわれます。また、投票日には野党関係者500人以上が逮捕されました。政府によると、これらは「反テロ令」に基づく、合法的なものと位置付けられています。

その他、選挙の前後には、野党関係者が不審な死を遂げるケースが相次ぎ、アムネスティ・インターナショナルはこれを「司法を経ない処刑」と呼んでいます。表現・報道の自由は当然のように制限されており、インターネットプロバイダーは国営の一社だけです。

「民族対立」の多元性

EPRDFと野党の対立は、「反民主主義と民主主義」という次元だけで語ることはできません。そこには、複雑な民族対立の構図があります。

EPRDFは、もともと内戦時代に社会主義政権と敵対した4つのゲリラ組織の連合体でした。内戦終結後、それぞれが政党に衣替えし、それらの連合体としてEPRDFは存続したのです。EPRDFを構成する4つの政党はそれぞれ民族を支持基盤としており、それらにはオロモ、アムハラ、ティグライ、南部に暮らす少数民族の連合体が含まれます。

かつてEPRDFと敵対した社会主義政権は、エチオピア帝国を革命で打倒した勢力が中心でした。しかし、皇帝と社会主義政権指導者は、アムハラ人という点で一致していました。そのため、他の民族からみれば、皇帝の支配が社会主義政権の支配に代わっても、首都アディスアベバの中央集権的な体制には何も変化がなかったのです。さらに、社会主義政権のもとでは国有地での強制労働などが横行したため、アムハラ人からも離反者を呼ぶことになりました。こうして、多くの民族の連合体としてのEPRDFが生まれたのです。

内戦末期に4つのゲリラ組織を糾合してEPRDFを結成し、これを2012年まで率いたメレス・ゼナウィ首相はティグライ出身でした。それもあって、4政党の一つ「ティグライ人民解放戦線(TPLF)」が主導権を握りがちでした。自らが圧倒的なカリスマ性をもっていたメレス首相のもとでは、4つの政党間でのバランスが配慮されていましたが、それでも内戦終結の翌1992年には、オロモの一派がEPRDFから離脱。オロモはエチオピアで最も人口が多く、全人口の約34パーセントを占めます(アムハラは約27パーセント、ティグライは6.1パーセント)。離脱した一派は、EPRDFがティグライ主導で進むことに反発し、「オロモとしての独立」を目指して下野したのです。

ただし、オロモの全てが独立を目指すわけでなく、エチオピアの一部として生きることを望み、EPRDFを支持する人もあります。その一方で、オロモ分離派による政治活動が活発になると、EPRDFはこれを非合法化。相次いで政治犯として収容され、追い詰められるなか、オロモ分離派はEPRDF支持のオロモに対する攻撃をも行うようになりました。

ティグライ支配の強化と銀メダリストの抗議

このように民族間の関係が複雑化するなか、EPRDF内部の力関係は、2012年にメレスが病死した後、徐々に変化していきました。TPLFを中心とするティグライがEPRDFのなかで影響力を増すようになったのです。

公的な援助であれ、民間の投資であれ、海外から資金が流入した開発途上国では、透明性の低さも手伝って、また自らに有利な計らいを求める外部の人間が多いこともあって、汚職が蔓延しやすくなります。それが政府に強い権限がある国家資本主義的な体制であれば、なおさらです。

近年のエチオピアでは、政府主導のもと、海外から投資が相次いでおり、2015年の経済成長率は10.3パーセントにのぼります(IMF)。しかし、これは政権中枢の人間に不透明なお金が渡りやすい状況をも加速させました。その結果、形式的には4政党の連合体であっても、実質的にはティグライ主導の体制がより強化されることになったといえます。先述のように、ティグライは人口では少数派ですが、政府要職を握ることで、多数派を押さえてきました。少数派が多数派を合法的に支配している点で、エチオピア政府は、イスラームのシーア派の一派アラウィー派で政権を固め、多数派のスンニ派を支配してきたシリアのアサド政権などと共通します。

このような体制のもと、ティグライ以外の民族からは、政府への抗議活動が徐々に目立つようになってきたのです。冒頭で言ったように、昨年末から政府への抗議デモが頻発しているのは、オロモとアムハラが多い地域です。そして、男子マラソン銀メダリストのリレサ選手は、オロモ出身です。つまり、リレサ選手は、民主的でない体制だけでなく、ティグライが圧倒的に大きな影響力をもつ状況に対しても、抗議したといえます。

これに鑑みれば、リレサ選手の行為は確かに政治的なものであったでしょうが、他方で自分の国で抗議の声をあげる機会があるにもかかわらず、あえて国際スポーツの場で愛国的な行為をする政治活動とは、識別して考える必要があります。少なくとも、リレサ選手の「自分の生命もあぶない」ということが、大げさでないことだけは確かと言えるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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