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ロヒンギャ問題とは何か:民主化後のミャンマーで変わったこと、変わらないこと

六辻彰二国際政治学者
ロヒンギャ迫害に抗議するデモ(インド・ニューデリー、2016.12.19)(写真:ロイター/アフロ)

2月3日、国連人権理事会はミャンマー軍が「暴動」や「テロ」を理由にロヒンギャの人々(子どもを含む)を組織的に殺害しているうえ、集団レイプや強制移住などが横行する様子を「破滅的な残虐行為」と非難しました。これを受けて、ミャンマー政府の事実上のトップであるアウン・サン・スー・チー氏は2月16日、ミャンマー軍の行動を停止させると発表しました

ロヒンギャは、そのほとんどがムスリムで、人口は130万人以上とみられます。仏教徒が圧倒的多数を占めるミャンマーで、ロヒンギャはかねてから差別や迫害の対象となってきましたが、近年では、先述のように、ミャンマー軍による人道問題が深刻化。その結果、約15万人のロヒンギャが国際機関などからの支援を受けており、ミャンマー軍の活動は「民族浄化」や「虐殺」とも報じられています。

これと並行して、ボートに乗って逃れたロヒンギャがベンガル湾を漂流する事態も多発。それにともない、人身取引が横行しているだけでなく、多くのロヒンギャが周辺諸国から難民として受け入れられず、たらい回しにされる状況も生まれています。

2015年選挙で政権交代が実現し、ミャンマーは民主的な国としての一歩を踏み出しました。それと前後して、日本を含む各国からは投資が相次いでおり、ミャンマーは「東南アジア最後のフロンティア」とも呼ばれます。そのなかで深刻化するロヒンギャ問題は、ミャンマーを取り巻く闇を浮き彫りにしているといえます。

ロヒンギャとは誰か

ロヒンギャとは、バングラデシュとの国境ラカイン州の北西部に主に居住するムスリムの総称です。その語源は、この地にあった仏教王朝のアラカン王国(1430〜1785)の王都ロハンに由来するといわれ、当時から仏教徒に混じってムスリムが暮らしていたことは確認されていますが、彼らが自らの呼称として「ロヒンギャ」を名乗り始めたのは、ビルマが独立して間もない1950年とみられています。逆に言うと、それ以前、この地で暮らすムスリムは、公式には「名なし」だったといえます。

この地のムスリムが、いわば「最近」になって自らの呼称を定めたのは、ビルマ(1988年にクーデタで権力を奪取した軍事政権は「ミャンマー」に国名を変更した)という国家が成立したことと無関係ではありません

「一つの国家が一つの国民で構成される」という観念は、近代西欧で生まれました。それ以前の世界では、ローマ帝国や中国の歴代王朝がそうであったように、異なる宗派や民族が一つの政治的権威のもとに統べられることが一般的で、イスラーム圏や東南アジアも、その例外ではありませんでした。「帝国」の語には抑圧的なイメージがありますが、異なる属性の者を排除する傾向は、むしろ「一つの国民」イメージを強要する近代国家の方が強いのです。実際、ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害は、キリスト教が絶対的な影響力を持っていた中世より、「国民の一体性」を前提とする近代になって、激しくなりました。

そのため、近代以降のどの国でも、ほとんどの人々は社会的に「一人前」と扱われるために、「主流」の文化に吸収・同化されていきました(フランスで各地の少数言語が加速度的に消滅していったのは、それまでヴェルサイユやパリの周辺で主に話されていた「フランス語」が、革命後に各地の小学校で強制されて以降)。しかし、なかには「国民」としての立場と自らの文化の両立を目指す人々もありました。ロヒンギャは、その一つの例といえます。

植民地支配から解放され、ビルマが国家として独立したことで、それまでいなかった「ビルマ国民」を作り出す必要が発生しました。そのなかで、人口のほぼ7割を占め、その多くが仏教徒でビルマ語を話すビルマ人が、暗黙のうちに「ビルマ国民」のイメージとなったことは、不思議でありません。

一方、ラカイン州には、アラカン王国時代だけでなく、19世紀からの英領植民地時代や太平洋戦争前後の時期に、やはり英国植民地だったベンガル(現バングラデシュ)から、多くのムスリムが流入していました。そのため、彼ら自身が強調するほど、「ロヒンギャ」のルーツは定かでありません。しかし、そうであるがゆえに、多数派の仏教徒ビルマ人から「外国人」と扱われてしまえば、教育や居住など様々な面で「国民」としての権利は保護されなくなります

こうしてみたとき、近代国家の誕生は、それまで「名なし」で差し支えなかったこの地のムスリムに、ビルマ人が圧倒的多数の社会で「一人前」と扱わせ、自分たちを「(外国人ではなく)ビルマ国民のうちの一部の集団」と認めさせる必要に直面させたといえるでしょう。これが「ロヒンギャ」誕生の転機となったのです。

人道危機の連鎖反応

独立後のビルマでは、ロヒンギャ出身議員が誕生するなど、両者の共存の道が開けたかにみえました。しかし、1962年に軍が政権を握り、「ビルマ式社会主義」を推し進めるなか、ビルマ人優遇策が強化され、それと並行して少数民族への圧迫も強まっていったのです。

このなかには、沿岸部で暮らすロヒンギャだけでなく、タイや中国との国境沿いの山岳地帯に暮らす、キリスト教徒中心のカチンやカレンなども含まれます。分離独立を求めるカチンやカレンの強硬派は、麻薬取引で軍資金を調達し、ミャンマー軍との戦闘を激化させました

ビルマ人とそれ以外の少数民族の間には、歴史的な不信感があります。それは植民地時代に英国が、この地の大多数を占める仏教徒ビルマ人を支配するために、インド系をはじめとするムスリムを商人層として、キリスト教に改宗させた山岳系を兵士や警官として、それぞれ利用したことによります。この関係は、独立後に逆転。人口で圧倒するビルマ人が少数民族を支配する構図に入れ替わったのです。植民地時代に生み出された遺恨が、その後の民族間の対立に発展した事例は、大虐殺で知られるルワンダをはじめとするアフリカと同様、スリランカなどアジアでもみられ、ミャンマーもその一例といえます。

ともあれ、ロヒンギャなど少数民族への弾圧は、1988年に再びクーデタで権力を握った軍事政権のもとで、一気に加速。軍事政権は「ビルマ化」政策を推し進め、特に山岳地帯の少数民族を排除しながら、ビルマ人の移住を奨励しました。弾圧の矛先はロヒンギャにも向かい、1990年代初頭には25万人以上のロヒンギャがバングラデシュに脱出。現在でもバングラデシュでは、公設の難民キャンプだけで、約3万人のロヒンギャがいるとみられます

しかし、これによってバングラデシュとミャンマーの双方の出入国管理が厳格化され、陸路での逃亡が困難になるなか、多くのロヒンギャはボートに乗ってベンガル湾へと漕ぎ出し始めました。ところが、人が何かを求める際に、そこに利益を見出す者が現れるのは人の世の常で、国外に避難しようとするロヒンギャたちは、相次いで悪質な難民斡旋業者に引っかかることになったのです。

この手の業者はシリアやソマリアの周辺でも多く確認されていますが、ロヒンギャの場合、人身取引業者はタイやマレーシアなどを拠点に活動しています。そのなかには、避難先のロヒンギャ男性と結婚することを条件にマレーシアに売られてきた少女も多く、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は2015年の報告書で、マレーシアだけで120人の子どもの花嫁がいると報告していますが、そのうち何人が人身取引の犠牲者かは不明です

「 ロヒンギャなど『いない』」

深刻化する人道危機に、当初周辺国は無関心を装い、漂着したロヒンギャを本国に送還するなどの措置を取っていました。

「母国で迫害を受け、国外への逃亡を余儀なくされた人々」の保護を定めた難民条約を批准している東南アジアの国は、カンボジアとフィリピンだけ。バングラデシュやインドも非加盟です。つまり、これらの国に難民を保護しなければならない法的義務はないのです。

さらに、東南アジア諸国は国際的な発言力を確保するために相互の結束を重視しており、そのためにも「内政不干渉」が優先されがちです。その結果、東南アジア諸国の間には「お互いに口を出さない」傾向が強くあります

しかし、難民が増えるにつれ、徐々にミャンマーへの風当たりは強くなりました。UNHCRによると、2015年6月年現在で、過去5年間にミャンマーを逃れた難民は約90万人にのぼり、これは世界第9位。これは内戦が激しいイエメン(42万人)やリビア(37万人)の2倍以上で、ロシアと欧米の対立が顕著なウクライナ(107万人)に迫る規模です。

ミャンマーからの難民のなかには、カチンなどの山岳系も含まれますが、ロヒンギャ問題が国際的な関心を集めるにつれ、そしてその増加によって自らの負担が増えるにつれ、周辺国はミャンマー政府に事態の改善を求め始めました。2016年12月、マレーシア政府がASEAN(東南アジア諸国連合)首脳会合でロヒンギャ問題を取り上げ、ミャンマーの加盟国としての要件にまで言及したことは、その象徴です。

ところが、これらの批判をミャンマー政府は真っ向から反論。「『虐殺』の証拠はない」と強調したうえ、「ロヒンギャなどいない」という立場を崩していません。ミャンマー政府は「ロヒンギャ」を民族として、あるいは自国民として認めておらず、「ベンガル人」、「バングラデシュなどからの不法移民」と位置付けているのです。つまり、「『違法に定住している外国人』を追い出しているのだから問題ない」という主張です。そのため、ASEANの場で「ロヒンギャ」の語が用いられることさえ拒絶しています。

ミャンマー政府の論理に従えば、「『母国』で迫害を受けたわけでない」ロヒンギャは、難民としての認定すら受けられないことになります。それは周辺国がロヒンギャの入国を拒絶することを、少なくとも法的に、より容易にしています。「合法的であること」と「正当であること」は常に一致すると限りませんが、これはその典型例といえるでしょう。

アウン・サン・スー・チーはなぜ無力か

ミャンマーでは2011年に複数政党制に基づく選挙が実施され、2015年選挙ではアウン・サン・スー・チー氏率いるNLD(国民民主連盟)が約6割の議席を獲得。外国人の配偶者がいる者は大統領になれないという憲法条項によって、英国人の夫をもつスー・チー氏は公職につけていないものの、基本的には民主的な政権が樹立されたといえます。

しかし、スー・チー氏が実質的な責任者になってからも、ミャンマーではロヒンギャをはじめとする少数民族への迫害がなくなりません。むしろ、スー・チー氏には、少数民族に対する軍の行動を制止するより、それを擁護することの方が目立ちます。その結果、2016年12月に国連は、「事態は沈静化している」と強調するスー・チー氏に、自ら現地視察を行うことを要求。さらに、南アフリカのツツ大主教やバングラデシュのグラミン銀行設立者ムハマド・ユヌス氏など、歴代のノーベル平和賞受賞者13名が連名でスー・チー氏に「不満」を伝える公開書簡を送っています

軍事政権を批判し、民主化を主導したことが評価され、スー・チー氏は1990年にノーベル平和賞を受賞しました。その功績だけでなく、京都大学に留学経験もある知日派として、日本では彼女を一種のヒロインとして持ち上げる傾向が目につきます。そうであるがゆえに、ロヒンギャをはじめとする少数民族問題に関する、彼女の冷淡とさえいえる態度に、違和感をもつひともいるかもしれません。

とはいえ、この点において彼女を擁護する気は全くありませんが、その権力構造に鑑みれば、スー・チー氏の対応は、少なくとも不思議ではありません。そこには、大きく二つのポイントがあります。

第1に、軍隊の影響力の大きさです。現在の憲法は、2011年の体制転換の直前に、軍事政権が自らの力を温存させることを念頭に作ったものです。その結果、議席の四分の一は軍人に割り当てられるなど、軍の意向が通りやすい状態にあります。政治の実権を手放した軍からすると、これまでの経緯から決して友好的といえないNLD政権に対して、自らの存在感を保つ必要があります。

さらに、ミャンマーでは5,141万人の人口に対して、兵士の数は約40万人にのぼります。人口に対して約0.8パーセントというその比率は、やはり軍の影響力が大きい米国(0.4パーセント)や中国(0.1パーセント)と比較しても高く、軍に雇用される人間の数が多いことは、その発言力の大きさを象徴します。

一言でいえば、シビリアンコントロールが「絵に描いた餅」になりやすいミャンマーで、軍を無理に抑えることは、スー・チー氏にとって、かなり大きな国内政治上のリスクがあるのです。

第2に、国内世論です。民主化によってミャンマーでは言論の自由が保障されましたが、それにともない、以前よりも少数民族の排斥を叫ぶ声、つまりヘイトスピーチも出やすくなりました

先述のように、植民地時代からの因縁から、個人差があるにせよ、ビルマ人の間には少数民族への反感があります。そして、民主的な政府ほど、内容の善し悪しにかかわらず、有権者の要望から無縁ではいられません。ミャンマー政府は2016年5月にヘイトスピーチを規制する法律を成立させ、ロヒンギャ排斥運動の中心にいる仏教僧の活動家らに警告を発していますが、これを積極的に取り締まる様子はみられません。

ビルマ人の間で表面化する少数民族への反感が、自らもビルマ人で、ビルマ人を主たる支持基盤にするスー・チー氏に大きく影響することは、想像に難くありません。この点においても、スー・チー氏にロヒンギャ問題をはじめとする少数民族問題に消極的な態度が目立つことは、不思議でないのです。

アウン・サン・スー・チーはネルソン・マンデラになれるか

ただし、国内政治上の理由から、スー・チー氏が少数民族の弾圧に「寛容な」姿勢を保ち続けることが、海外からの批判を招くだけでなく、ミャンマーの不安定要因になることは確かです。

現代では、トランプ現象に象徴されるように、「民主主義の原理」と「多様性の共存」の衝突が目につきますが、ミャンマーの事例はそのギャップが大きいものの一例といえるでしょう。

しかし、「民主主義の原理」と「多様性の共存」は、困難であっても、リーダー次第では不可能でなくなります。南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領は、その好例といえます。

マンデラ氏はかつて、白人による人種差別体制(アパルトヘイト)を打倒する運動の先頭に立ち、20年間の投獄生活を経て、1994年に初の黒人大統領に就任。新生南アフリカ政府は、基本的には大多数を占める黒人の支持に基づき、その利益の拡大に努めながらも、それまで黒人を虐げていた白人の財産や権利を保護し、人種間の融和を黒人にも説き続けました

現代でも南アフリカには格差をはじめとする問題が山積しており、決して理想郷が実現したわけではありません。しかし、アパルトヘイト崩壊後の南アフリカでは、少なくとも民主主義の理念が「多数派の暴政」をともなう偏狭な人種主義に傾くことはありませんでした。そこには、民主主義と多様性を両立させることの価値を粘り強く国民に語りかけ続けた理想家としての、そして社会の安定のための現実的な判断を下した政治家としての、マンデラ氏の功績があったといえます。

南アフリカと異なりミャンマーでは、体制転換を経ても支配する側(ビルマ人)とされる側(少数民族)の関係はひっくり返っておらず、民主化が前者の後者に対する抑圧を強めた側面があります。また、軍をはじめとする旧体制派の影響力も、アパルトヘイト崩壊後の南アフリカより大きいといえます。このような「条件の悪さ」を勘案すれば、民主化を求め、後に一国を率いる立場に立ったノーベル平和賞受賞者という点で共通するとはいえ、マンデラ氏と比較されるのは、スー・チー氏にとってフェアでないかもしれません。

しかし、ただ「有権者の要求」を実行するだけなら、少なくとも有能な政治家と呼べないことも確かです。「国民の代表」という観念は、政府が自らの支持者の声のみを聞くことや、選挙が個別の利益の切り売りに終始することを、避けるためにあります。スー・チー氏は今、活動家としてではなく政治家として、大きな試練に直面しているといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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