「背中」と「現場」と「ガンバリズム」に甘える国ニッポン!? : この国の「人づくり」の隠れた規範
僕の研究テーマは「人材開発」です。現在、10の書籍や論文を同時進行で書いていますが(!)、いつか書いてみたいと思っている本があります。
それが、
「背中」と「現場」と「ガンバリズム」に甘える国ニッポン:人材開発の未来を考える
です(笑)。
たぶん、このタイトルじゃ企画になりませんね(泣)ごめんね。
でも、言いたいことはそういうこと。
このモティーフは、昨年、ごくごく短期間ではありましたが、家族でアメリカに短期滞在したときに思いついたものでした。
そこでの生活を通して、いつもは考えることのない我が国のことを考えてみたことが、そのきっかけです。
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本で主張したいことは、シンプルです。
1.「ニッポンの組織」は、極めて「同質性の高いメンバー」が「長期」にわたって存在する集団であった。組織に入る頃には、学校教育またクラブ活動等において相対的に「高い教育」と「強固な社会化」が施されており、「基礎学力」と「学ぶ力」と「忍耐力」を獲得されていた。
このことは、アメリカのような多様性の高い組織で仕事をしておりますと、すぐに気がつくことです。同様に、学校教育のパワフルさについても、日本は初等中等教育に関しては、(いろいろな問題はあるにせよ)、秀逸だと思います。
'''2.そのような組織においては、敢えて「方法」や「やり方」を明示したりしなくても、「背中」を見て育て的なやり方で、物事が伝達され、学ばれると信じられる。そうした学びこそが「美談」として語られる「メンタリティ」が共有されている。これを「背中信仰」とよぶ。
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仕事の中で大切なことは背中を通して学ばれることが存在することは認めつつも、その事実が、「明示的」に方法ややり方を伝達しなくてもよい、という命題を正当化することはできません。
'''3.2の規範と時に共振し、かつ、それを強固なものにするイズムが2つある。それは「大切なことはすべて現場にある」とする「現場浪漫主義」と、「熱意をもって、物事にあたり頑張りさえすれば、自ずと物事は好転する」という「ガンバリズム」である。
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「仕事をするときに頑張ること」が大切であること、かつ、「大切なことは現場で学ばれること」は事実です。ですが、それらの事実を重ねてみても、「仕事で必要になるスキルや知識を学ぶ環境を整備しなくてもよい」ということにはただちになりません。
4.この3つ「背中信仰」「現場浪漫主義」「ガンバリズム」が共振したとき、「仕事で必要なスキルや知識は、現場に放り込んでおけば、勝手に背中を通して学ばれるはずであり、それができないのは個人が頑張らないからだ」という「ブラックな人材開発イデオロギー」が発動する。
5.「ブラックな人材開発イデオロギー」は、いわゆる「ブラックな組織」において、「自組織の人材開発の整備不全と怠慢」を「正当化」するロジックとして用いられる。つまり、「組織が、仕事で必要なスキルや知識を学ぶための制度や仕組みを全く整備しなかった」としても、それが「学ばれなかった」のは「個人の努力不足と責任」と原因帰属される。
仕事で必要な知識を獲得するときに、個人の努力や責任が問われるのは、当然です。ですが、それが仮に事実であったとしても、「どんなに個人が努力したとしても、「こんな劣悪な環境で何か学べるかヴォケ的な労働環境」は存在します。
もう15年にもわたって人材開発の研究をやっておりますと、「個々の人材開発の現場」を俯瞰して、この日本という国に共通するようなものが、朧気ながら見えてくるような気がします。
もちろん、すべての現場にあてはまることではない。
しかし、相対的に見て、そのような傾向があるということは言えるのではないかと思っています。
ビジネス、医療、看護などなど、領域は違うとはいっても、様々な領域における人材開発を阻害するものが、この国の根幹に根付いているような気がします。言っちゃ悪いけど(笑)。日本の多くの組織が「背中」と「現場」と「ガンバリズム」に甘えてきたんじゃないでしょうか。
しかし、それが、昨今で申し上げますと、あまり奏功しなくなりつつある。その存立基盤が失われている。あるいは、それが限界に達している。さらに、悪いことには、いわゆる「ブラックな組織」において、その所業を正当化するロジックとして用いられているような気がするのです。
皆さんはどう思われますか?
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今日は、自分が近いうちに書きたい本を話題にしながら、日本の組織の人材開発を裏側から規定する3つの規範について書きました。近いうちに、そのような規範を相対化する論文か文章を書きたいと思っています。
そして人生は続く
(本記事は、中原の個人ブログ「NAKAHARA-LAB.NET」に2015年1月16日掲載されていた記事を、加筆・修正したものです)