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最近、職場で「OJT」が機能しないのはなぜなのか?

中原淳立教大学 経営学部 教授
(写真:アフロ)

僕の専門は「人材開発」です。そのような研究分野で仕事をしていますと、「人材育成に関するさまざまな嘆き節」を耳にする事があります。

たとえば、もっとも耳にする嘆き節といえば、これです。

「昔はきちんとOJTが機能していたのに、最近、それが機能しなくなってきたよねー」

この台詞、皆さんも、きっと、これまで、様々な場所で、耳にしたことがあるのではないでしょうか。

経験的には、上記の「OJT機能不全の嘆き節」は、主に、人材育成の担当者の方、ラインのマネジャーの方から発せられることが多いような気がします。

しかし、それが「なぜか」は、あまり語られることがありません。

今日は、この問題について、先行研究を踏まえながら、考えてみましょう。

ちなみに、ここでいうOJTとは「上司・先輩と新人・若手のあいだの垂直的な発達支援関係」と定義します。

結論を一言でいうと、日本の企業におけるOJTとは、

「OJTとは、直接関係がないようなさまざまな諸条件が重なって、たまたま、うまくいっていただけで、そこには、意図的な設計はなかったのではないかな」

ということです。

つまり、かつての職場には、OJTがうまく機能する条件がたまたまそろっていた。

そういっちゃ、身もふたもないのですが、たぶんそうだと思います。

何も意図的にOJTを設計しなくても、OJTが職場でうまく機能しちゃうような諸条件は何か、というと下記のとおりです。

1)職場が村落共同体を継承していたこと

2)終身雇用が存在しており、長期間の雇用が可能だったこと

3)職能制度賃金の報償システムによって右肩上がりの収入が確保されており、モティベーションを確保することが容易だったこと

4)しかも、継承するべき技術が、世の中の環境変化に対して比較的、頑健で、変化のないものだったこと

5)何よりも、OJTという概念が曖昧で、ともすれば、職場で起こる教育的活動に、容易にOJTというラベリングがなされがちであったこと

これらの諸条件が、「意図せざる整合性(加登 2008)」を発揮し、結果として、「OJTが機能していたと、みんなが、認知できる状態を生み出していた」ということです。

重要なことは、会社がOJTを意図的に設計したというのではなく、むしろ、「結果としてなぜかうまく回っていた、と見えていた」ということですね。

要するにこういうことです。

まず、日本企業のOJTということになりますと、なんといっても、高度経済成長期の製造業です。

当時、地方にある工場では、村落共同体の人員構成員が、そのまま工場の職場構成員になるような事態がまま見受けられました。

要するに、上司も村の人なら、部下も村の若い衆。職場がそのまま村落共同体を意味していたところが少なくなかったのです。

すると、どういうことがおこるか。

つまり、「村」の共同体の構成原理が職場にそのまま引き継がれることになります。

会社側が、「OJTを設計する明確な意図」をもたなくても、その共同体の仕組みや原理を職場に引き継ぐことができた、ということですね。

共同体には古参者がいて、そこに中堅の人や、新参者がいます。そして、新参者が共同体に参入してくるときには、彼がいつの日か共同体の中心的メンバーになりうるように、適切な仕事が配分されますし、適切なメンタリングが実行されます。

既に機能している共同体には、新人を育成する様々な「仕掛け」が、すでに、暗黙のうちにビルトインされています。会社は何にもしなくても。

新参者の引き起こすエラーが局所的なエラーに限局され、全体の活動がブレークダウンしないような仕事の割り振り、そして、彼に対するサポートの仕組みが、暗黙のうちにビルトインされているのです。

そして、そこに参加することをとおして、つまりは、共同体が用意した「熟達化のための道筋」を、当たり前のようにたどることで、新参者は古参者に向けての熟達化を果たします。

会社は、この「共同体の原理」を、なかば、そのまま「ごっそり輸入すること(ペチること)」で、これを利用して、熟達化を促すことができました。

しかし、単に村落共同体の仕組みを継承するだけでは、新参者が熟達者になることを促すことは不可能です。

ここには、2つの条件が揃うことが重要です。それが、1)長期間の熟達期間を確保することと2)新参者のモティベーションを確保することです。

まずは1)「長期間の熟達期間を確保すること」に関しては、つまりこういうことですね、

まず、誤解を恐れずはっきりいいますが、わたしの認識に関する限り、

「OJTというのは、99%は仕事そのもの」

です。

それが証拠に、「あとはOJTで!」と現場の人がいわれたときには、それは「あとは適当に仕事をさせときゃいいのね」と真っ先に思うはずです。

ただし、それが「教育的機能を発揮する一瞬(たぶん1%くらい)」というのがあります。それは、新参者が仕事をする中で、試行錯誤したり、危なっかしい瞬間があったとき、あるいは失敗をしたとき、その「一瞬」です。そういうときこそ、「教えがもっとも効果を発揮する一瞬」ですね。

これをPedagogical moment(教育的瞬間)といったりします。中にはTeachable moment(教授可能な瞬間)という場合もあるようです。

学びとは、つねに、「in situ:イン・シチュ=状況のなかでという意味です」、つまりは状況に埋め込まれて生起するものです。要するに、その瞬間に、上位者は、「どれどれ、あー、やらかしちゃったのね、あんたのやらかした、これはこういうことなんだよ」と指導をしたりすることができるのですね。

この仕組み、非常にドラマティックに見えますけど、実は、教育の視点からいうと、これはものすごく効率の悪い仕組みです。効率が悪いとは言い過ぎかもしれません。むしろ、熟達までにひじょうに長い時間がかかるということです。

ある一定の職務遂行能力を学習者が獲得するためには、Pedagogical Momentが連鎖して生起することが必要です。Pedagogical momentはそんなにしょっちゅうあるわけではないですから、畢竟、熟達化まで非常に長い時間がかかるということですね。その意味で、効率が悪い。

なぜなら、教育(他者の学習を組織化すること)が成立するためには、Pedagogical momentがくることを長い間、享受者も学習者も「待つ」必要があるからです。

「待つ」だけではありません。Pedagogical momentに教授者と学習者がともに居合わせるだけではなく、教授者がその瞬間を見抜き、さらに適切な支援を与え、学習者はそれを喜んで引き受けなければならないのです。そういう諸条件が成立してはじめてpedagogical momentが意味をなします。

つまり、それとは逆の事態も、容易におこりうるということですね。

仕事をしていく中で、このことを新参者に伝えたい、と願う一瞬があったとしても、その一瞬に新参者と教授者が、その場に居合わせなければ意味がありません。

また、この瞬間に、教授者が伝えたいと思うことであっても、学習者に学習の構えが成立していなければ、それは成立しません。そういうときには、Pedagogical momentは、全く生きません。

ということは、Pedagogical momentを、ある一定数以上、学習者が経験するまで、学習者は長期に継続して雇用されていなければならないはずです。そして、これを支えたのが、「終身雇用」という仕組みではなかったか、ということです。

終身雇用によって「長期間の熟達期間を確保すること」ができていた、これがOJTを奏功させる条件のひとつです。

それでは、次に、2)学習者のモティベーションは何によって確保されたでしょうか。

上位者のもとでの長い間の下積み期間を耐えるためには、それを可能にするモティベーション維持の仕組みが必要です。

当時の日本企業では、職能資格制度による報酬システムが機能していました。この仕組みは、結果として、安定的に右肩上がりの給与を保証することができましたし、いつかは、誰もが中堅や古参者のような立場になれることを夢見させるのに、非常に有効でした。

つまり、「今は、こうだけど、いつかは、あーなれる」という「見通しの明るさ」、そして、日々給与が上昇していくという外発的動機づけによって、人は、厳しい下積み事態を耐えられたのではないか、と推測できます。

最後に、何よりも重要なことが二つあります。先ほど4)と5)であげたことです。

第一に、OJTで相続される内容というのは、基本的には前の世代が所持しているスキルや知識です。前の世代が有しているものを伝達することで、業務が達成できる、ということが前提になります。

前の世代は所持していないけれど、でも、今の世代にとって必要な知識やスキルは、OJTでは伝達することは難しいということです。これは当たり前のことですが、結構、見落とされています。

また、

OJTをしているのに、コミュニケーション能力のある社員が育たない

OJTをしているのに、リーダーシップをきれる社員が育たない

こういうことをたまに耳にします。しかし、そもそも上が有していない知識や能力は、OJTでは決して伝えられません。

OJTの中心となった高度経済成長時代の製造業に関しては、そもそも伝達される知識が、時代の変化にあまり左右されない頑健で、変化があまりないものであった、というのが重要なところです。

第二に、OJTという概念が、そもそも「曖昧」なものだったことが、ひじょうに重要です。

なぜ、意図的に設計されていないOJTという制度が、なぜか「機能しているか」のように「見えた」のか。多くの人々が、それを「認知」したと錯覚してしまうのか。それは、OJTという言葉の定義の曖昧さに起因します。

職場で様々な人々が仕事をしていれば、そこには当然、スキル差や知識差が存在します。仕事をしていれば、教育的瞬間がおとずれることもあるでしょう。

制度や仕組みとしては意図的には設計されていないのにもかかわらず、あたかも、OJTが機能しているかのように錯覚してしまいがちなのは、OJTという概念が曖昧で、とらえどころのないものであったからだと推察されます。

つまり、職場で誰かが何かを教える瞬間は、いつでもと言わずとも頻繁に目にするでしょう。その瞬間に、「これって、OJTだよね」「やっぱり、うちの会社ってOJTあったよね」とラベリングが可能であったということが、最大の要因かもしれません。なぜなら、OJTの定義が曖昧であったから。

じゃあ、ここで、皆さんに問題です。

OJTってなんですか? 100字以内で答えてください。

はい、どうでしたか? 皆さんの中のOJTの定義はどのようなものでしょうか?

実は、この答え、千差万別なのですよ。

皆さん、職場でもやってみてください。

実は、このことに気づいたのはヒアリングの最中です。2000年代からこれまで、僕はたぶん1000名を超える現場のマネジャーや若手にインタビューを繰り返してきたと思います。そのヒアリングを通していつも思うことは、OJTの定義は、人によって異なっているということです。

ある人は「仕事をさせること」をOJTとよびます。

ある人は「仕事を教えること」をOJTとよびます。

つまり、OJTの定義は曖昧であることが起因して、何となく「教育的なこと」が職場でおこると、それは、OJTというカテゴリーでラベリングされてしまう可能性があるということです。

OJTであろうと、なかろうと、それが意図的であろうと、非意図的であろうと、、職場で起こる「教育的なもの」は、すべてOJTでキャッチオールということです。

かくして、様々な諸条件が「意図せざる整合性」をもち、結果として、「昔は、きちんとOJTが意図的に設計されていて、それが機能していた」という認知を皆がもつようになりました。

しかし、それは長くは続かない。

1)産業構造の転換により工場労働者が村落共同体を継承しなくなったこと

2)終身雇用の崩壊

3)職能資格制度の見直し

4)高度情報化社会の進展によって前の世代が持っている知識の価値が必ずしもいつも高いわけではなくなったこと

によって、その事態に暗雲が立ち込めます。

「昔はきちんとOJTが意図的に設計されていたのに、最近、それが機能しなくなってきたよねー」という言説が誕生することになったのだと、僕は思います。

かつて、OJTは日本企業の「お家芸」と言われてきました。僕自身も、ある時代、日本企業の「強さ」を支えていた、その教育的回遊のパワフルさ、非常に感服しています。

しかし、だからこそ、もう一度、根本に立ち戻って考えなおす必要があるように、僕は、思います。

くどいようですが、もう一度問います。

あなたの会社で、最近、OJTが機能しないのはなぜですか?

そして人生はつづく

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立教大学 経営学部 教授

立教大学 経営学部 教授。経営学習研究所 代表理事、最高検察庁参与、NPO法人カタリバ理事など。博士(人間科学)。企業・組織における人材開発・組織開発を研究。単著に「職場学習論」「経営学習論」(東京大学出版会)、「駆け出しマネジャーの成長論」(中公新書ラクレ)「フィードバック入門」(PHP研究所)、「働く大人のための学びの教科書」(かんき出版)などがある。立教大学経営学部においては、リーダーシップ研究所・副所長、ビジネスリーダーシッププログラム(BLP)の主査(統括責任者)をつとめる。

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