待てない親と、一人でできない子ども!?
ちょっと前のことになるが、保育園で、考えさせられる出来事があった。
なんてことはない、とりとめない出来事だ。
保育園の先生が、「X君(僕の息子のこと)は、今日、靴下を自分ではけましたよ」と教えてくれたのである。
お読み頂いている諸兄は「たかが靴下」と思うかもしれないけれど、僕は、びっくりしてしまって、思わず、「うそー」と声に出してしまった。
なぜなら、「靴下よりも難易度の低いであろう、靴すら、Xは、自分ではくことはできない」と、僕は思いこんでいたからである。
「保育園では、靴下はけるんですか? まさか、靴とかも、自分ではいてますか?」
保育園の先生に、おそるおそる聞いてみる。
「はい。手助けはたまに必要ですが、自分でやりますね。時間はかかりますけれども。」
二度目の衝撃。
「食事とかはどうですか? 家では、途中で飽きて、自分で食べないのですけれど。保育園では、自分で食べますか?」
「途中でやめることはありませんね。時間はかかりますけれども。」
三度目の衝撃。
・
・
・
つまり、こういうことである。
息子は「親の僕が、自分でできないと思っていたことは大方できる」のである。
能力は既に備わっているのに、親があれよ、これよと「手助け」をしてしまうがために、「やらない」だけなのである。
親が「待てない」から、「やれない」だけなのである。
息子は決して「靴下が脱げない」のではない。
すなわち「できない」のではない。
僕が「手助け」をし、
僕が「待てない」から、
やらないし、やれないだけなのである。
もう少し抽象的にいえば、こうだろう。
「靴下が脱げないという無能力さ」は、息子と僕との関係において「社会的に構築されている」
だって、僕といないときには、それができるのだから。
▼
軽くショックだった。
その理由は、いくつかある。
ひとつには、自分の子どもの発達に関しては、親の自分はある程度、客観的に見ることができている、という自負があったこと。
しかし、僕は、自分の子どもを見ているようで見ていなかったのかもしれない、と思った。
見ているようで、見てはいない。まったく客観的ではない。
二つめは、自分が、いかに「待てない」のかを思い知らされたこと。
仕事で忙しく、息子が何かをぐずぐずしている様子を、僕は、たぶん「待てていない」。
すぐに手をだし、口をだしてしまう。
「客観的でもなんでもなく、待てない自分」と息子
きっと僕がうけたショックの理由は、こんなところだろう。
▼
果たして、どうして、こうなってしまうのか。
社会的な理由も、おそらくはある。
我が家は共働き家庭だ。僕もカミサンも、激しく忙しい。
共働きの家庭でもきちんとやれている家庭はたくさんあるので、一般化はまったくできない。
が、少なくとも我が家では、時間がなくて、かなり修羅場になることもある。
ついつい、朝、時間がなくなってしまったときなどに、
「えーい、何をチンタラしておるのじゃ、靴を貸せ、オレがはかしてやるわい、早く保育園いくぞー、こっちが会議に遅れるー」
という風になってしまう。
あと、もうひとつ。
息子の様子を見ていて、明らかに「親に甘えてるよな」と思っていても、ついつい、「一日の大半を保育園で過ごしているのだから、家にいるときくらいは、親に甘えさせてあげたいな」と考えてしまうこともある。
かくして、僕は、息子の行動を先読みしつつ、彼が本来やらなくてはならぬことを、やってしまっていたのかもしれない。
そういう様子を息子は知っていて、「親はどうせやってくれるから、自分ではやらない」という選択肢をとっていたのかもしれない。
本人にきいても、「?」という顔をするだけなので、本当のところはわからないけれど(笑)
▼
任せること。
委ねること。
そして、手をださずに、待つこと。
嗚呼、本当に難しい。
待って、待って、待ちこがれて。
ついつい手をだしたくなる、その衝動を抑えて、待つこと。
まだか、まだか、と催促したくなる気持ちを押さえて、じっと待つこと。
小言のひとつも言いたくなることを、唇をかんで待つこと。
待って、待って、待ちこがれて。
子育ては、僕に「待つこと」の重要性と難しさを
教えてくれているような気がする。
そして人生はつづく