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女性活躍推進に必要なのは「完全無欠のロールモデル」なのか?

中原淳立教大学 経営学部 教授
(写真:アフロ)

女性のリーダーが生まれないのは、職場に、彼女たちの「ロールモデル」になるような人がいないからですよ。

だから、女性からリーダーが生まれないのです。

女性活躍推進のためには、とにかく、組織には、ロールモデルが重要なんです。

かなり前のことになりますが、ある機会で、ある識者の上記のような趣旨のような発言を耳にしました。

「女性リーダーをいかに育てるか?」「女性管理職をいかに生み出すか?」の業界!?(そんな業界あるんでしょうか?)は、僕は、あまりこれまで馴染みがなく、シロウトとして、ご意見を大変興味深く拝聴させて頂きました。

女性とリーダー

女性と管理職

女性とキャリア伸張

まぁ、何と表現してもよいのですが、「国内」の既存の女性活躍推進の言説、インタビュー記事などを調べあげていくと、必ず出てくるワードのひとつが、今日のテーマである、この5文字

「ロールモデル」

です。

曰く

「女性が活躍できないのは、身近にロールモデルになるような存在がいないからだ」

「女性が活躍するためには、身近にみんなのお手本となる人が必要だ」

たいていの論は、上記のような命題を繰り返します。

おおよそ、日本の女性の活躍に関する議論のほとんどが、これに言及しているのではないかと思います。

それが「言い過ぎでもない」と思えるくらい、この「ロールモデル」という言葉は広く巷間に流布しています。

嗚呼、おなかいっぱい。

しかし、僕は、「ほしひゅーまのねぇちゃん」のように、この言説空間を「木の陰」から「傍目」からみて、

女性活躍推進に関する言説空間が

「ロールモデルのオンパレード」状態になっていることこそ

疑わなければならないし

改善されなければならない

と思います。

「硬直した言説空間」からは、「生産的な議論」が生まれません。

少なくとも、僕には、現在の言説空間のあり方は、ロールモデル論を一度も疑うことすらしない、女性活躍推進という業界で食べている言説生産者の生み出す言説によって、かなり硬直させられているように見えます。

あーあ、言っちゃった(笑)

必要なのは「ゼロベースからの思考」です。

ドシロウトで恐縮ですが、シロウトの目から見ますと、

そもそも「ロールモデル」とは何か?

から問い直されなければならないと思ったりするのです。

そして、いわば無批判に「ロールモデルが必要だ」という主張を繰り返し続ける「日本の言説空間の特殊性」を、ひとり勝手に感じてしまうのです。

今日は、朝っぱらから、ゆるゆると、少しそんな話をしましょう。

(ちなみに、女性活躍推進というワードからして、どん引きワードですね。この言葉の背後には、女性が、社会や組織のために「活躍させられる」というニュアンスが漂っています・・・なんで、業界は、こういうワードを使っちゃうのかな、と思ってしまいます・・・女性活躍推進というワードを見て、白ける人も多いだろうなぁ・・・)

といいますのは、視野をさらに広くもち、国内のみならず、国外にまで文献検索の幅を広めたとき、「女性の活躍」に関するグローバルな議論・文献のなかで、「ロールモデル」という言葉が、日本ほどでてくる国はないのではないかと思います。

もちろん海外でも「言及ゼロ」「論文ゼロ」ではないですよ。

でも、日本ほど、この言葉に対する関心は強くないように思えるのは僕だけでしょうか。

まず、海外でロールモデルが登場するときには、ロールモデルは「みんながあこがれる単一の個人」をさすことは、日本よりは多くはないであるように思います。

むしろロールモデル論でいうと、最近は「自分の理想像に近く、真似をしたくなるような他者がもっている資質」に焦点があてられます(Gibson 2003 / 2004)。

要するに、ロールモデルとして

「スーパーウーマンである、あのひと」

が求められるのではなく、

「あの人の、あんなところがいいな」

「あっちの人の、そんなところがいいな」

という「他者の行動や資質」に注目があたるということです。

そうした「部分」的に注目される「他者の資質や行動」をいかに能動的に組み合わせ、自ら真似をしたり、学習したりするかが重要になります。

さらには、ロールモデルには「正のロールモデル」「負のロールモデル」も存在します。

要するに、

「あの人の、あんなところがいいな」

「あっちの人の、そんなところがいいな」

という「正のロールモデル」だけではなく、

「あいつの、あーいうところは、真似したくないな」

「あのひとの、あんなところは、勘弁して欲しいな」

という「負のロールモデル」も存在するということですね。

このあたりも、かなり冷静です。

日本のように「誰もがあこがれるスーパーウーマン」を想定したりはしません。

つまり、

「誰もがあこがれるスーパーウーマン」の存在さえあれば、人々はそれにたなびいて、キャリアを伸ばすはずだ

という考え方をしません。

むしろロールモデルとは、

キャリアを伸ばしたい個人が、「あの人の、あんなところがいいな」とか「あいつの、あーいうところは、真似したくないな」というかたちで、試行錯誤しつつ、自分の将来を、自ら「つくりあげていく」ための能動的な学習プロセス

であるという考え方が、注目されている気がします。 

そして、それはキャリアステージによって異なります。

20代の駆け出しの頃に、自分が真似したいと思う他者の資質や、反面教師にしたい他者の資質は、40代のそれとは異なります。

要するに、キャリアステージ、加齢に応じて、自分に真似したいと思える「他者の資質」を把握し、それらを組み合わせて、自分の将来像をつくってね、ということになります。

どこまでいっても、能動的に自分で動いてイメージをつくり、学ぶことが求められているのです。

さらにいうと、’’’海外の場合、事態は、さらに、さらに実践的・実利的'''です。

「ロールモデル」より頻出する言葉は、「メンター」や「スポンサー」という言葉であるように思います。

「あこがれ」とかいう「ゆるふわワード」に耽溺するよりも、むしろ、より実務的かつ実利的に、いかにキャリアを伸ばしてくれる個人を探すか、という風に論が張られるのです。

曰く、

女性には「メンター」となるような人が不足する傾向がある

(=女性が困ったときやわからないときに、彼女に対して、助言・指導の機能を果たしてくれる人が得がたい)

女性にはポジションを高めてくれるような「スポンサー」が得がたい傾向がある

(=昇進によい影響力を行使し、引き立ててくれる「機能」を果たしてくれる人が、女性には得がたい)

海外の場合、「ロールモデル」という言葉の前に、まずは、こんなことが語られることの方が多いように感じます。

そして、ここで注目したいのは、海外で主に主張されているのは、女性が自らの能力・キャリアを伸ばしていくうえで必要になる

「機能の不足」

についてです。

組織の中に、そうした「機能」が不足していることを主張している。

どちらかというと、比較的「ドライ」なんですね。

「よき仕事」をしていくうえで、必要な「機能の不足」をロジカルに主張します。

対して、日本の言説空間の場合は、「ロールモデル」という言葉が人口に膾炙しています。

そして、「ロールモデル」とは「機能」を表現する言葉ではありません。

むしろ、ロールモデルとは「ウェット」なんです(は?何がウェットかはよーわからんが、書いてみた)。

ロールモデルとは

「あんな人になりたいなと思える、憧れの存在」

であり、

「あんな行動や立ち振る舞いができるようになりたいと思えるような、あこがれのあの人」

です。

ほら、ねっちょりしてるでしょ?(笑)

そして、さらに「女性の活躍のコンテキスト」においては、ロールモデルの意味はさらに「拡張」していきます。

管見ながらさまざまな識者のご発言を渉猟させていただきますと、どうやら、女性の活躍の言説空間では、

「ロールモデル」とは、「仕事の世界」でしなやかに活躍しつつも、それでいて「家庭生活」は犠牲にせず、しっかりと個をもち「プライベート」まで充実している人材

のことをさしているような気がします。

ま、3つとまではいかんでも、せめて2つ。

仕事と家庭をしっかり両立する存在のことをさしているのではないかと思うのです。

要するに、女性活躍の言説空間においては、

ロールモデルとは「全人格」を表現する言葉に近い

のです。

「全人格」というのが言い過ぎでしたら、「仕事」も「家庭」も「個」もすべて盛って、いやはや充実している、「トッピング全部入りラーメン」のようになっちゃってる存在かな・・・。

いや、いるならいいんだけど、本当にそんな人いるの?

ていうか、盛りすぎじゃない(笑)

しかし、これこそが、「メンター」や「スポンサー」といった「機能の不足」を問う、海外の言説空間との違いであるように感じますが、いかがでしょうか。

ここで、今、もし仮に「ロールモデル」が女性が今よりも活躍するための「個別の機能」なのではなく、女性が憧れ目指すべき「全人格」をさしている言葉だとしましょう。

それでは、なぜ、これが「按配」がよろしくなく、もう一度、このままでよいのかを考え直さなければならないと僕が思うのかを最後に述べさせて頂きます。

それは、

「完全無欠の全人格的存在」は、通常の会社・組織にはそう「いない」から

であり、

「完全無欠の全人格的存在」は、模倣するには「ハードルが高すぎる」から

です。

人材開発研究の観点から言わせて頂きますと、「観察学習をおこなうべき存在がいないこと」と「経験学習する対象のハードルが高いこと」は「致命的」です。

だから、本当に、組織の状態を変えたいのであれば、これを「問い直さなくてはならない」と思うのです。

まず第一のポイント「完全無欠の全人格的存在はいない」について。

僕が男性だからなのでしょうか。

僕は、自分の上位に「完全無欠の全人格的存在」を感じたことは、すみません、ほとんどありません。

このことは、僕が自分の上位の方々を「軽く扱っている」ということを意味しません。

そうじゃないんです。リアルはそうじゃない、と言いたいのです。

むしろリアリティは、「どんな人でも、あーマネしたいと思えるよいところもあるし、反面教師にせなアカンなと思える悪いところあるんじゃないか」というのが、男40歳・ここまで生きてきた僕の実感です。

わたしたちは仕事をしながら、

あの人の・・・なところは、絶対にまねしよう

でも、あの人な・・・なところは、反面教師にせなあかんな

この人の・・・・はすげーな。こんな風に、自分もやってみたいな。

でも、この人は・・・なところがイケてないな。自分も気をつけなければな。

といった感じで、様々な人と出会い、そこで出会った人々の「よいところ」を、それぞれに「学んでいる」のではないでしょうか。

わたしたちは「完全無欠の全人格的存在」だけから学んでいるわけではないし、それを観察学習しているわけでもないのです。

わたしたちが、日常おこなっている他者を通じた学習は、むしろ「いいところどりの学習」、すなわち「ブリコラージュ型学習」なのではないかと思ったりするのですが、いかがでしょうか。

もし、これが是とするならば、

今、おこなうべきは「ロールモデルを探すこと」ではありません。

むしろ、日々、日常、様々な同姓・異性と出会い、その人の良さを取り込み、悪しきを反面学習する機会を増やすこと。

そうした振り返りを折りに触れて機会をもつことです。

第二の「完全無欠の全人格的存在はハードルは高い」について

これはわかりやすいですね。 

仕事もバリバリできて、家庭もしっかりやりきって、個も充実していて、週末ごとにフェイスブックに、その従事つっぷりをアピールできる「スーパーピーポー」というのは、そもそも学習する対象としては「ハードルが高い」のです。

くどいようですが、

そうした人々「だけ」を探し、そうした人「だけ」から学ぶことをよしとするよりは、わたしたちは、どんな人からでも「ブリコラージュ型学習」をできる余地がある。

そして、「助言してくれる人」「引き立ててくれる人」という具合に、自分に必要な個別の機能を、ドライに求めた方がよいと思います。

今日は女性の活躍のコンテキストにおける「ロールモデル」という言葉について思うところを書かせて頂きました。

みなさまの周りには、「ロールモデル」いらっしゃいますか?

そして

あなたに必要なのは「ロールモデル」ですか?

そして人生はつづく

立教大学 経営学部 教授

立教大学 経営学部 教授。経営学習研究所 代表理事、最高検察庁参与、NPO法人カタリバ理事など。博士(人間科学)。企業・組織における人材開発・組織開発を研究。単著に「職場学習論」「経営学習論」(東京大学出版会)、「駆け出しマネジャーの成長論」(中公新書ラクレ)「フィードバック入門」(PHP研究所)、「働く大人のための学びの教科書」(かんき出版)などがある。立教大学経営学部においては、リーダーシップ研究所・副所長、ビジネスリーダーシッププログラム(BLP)の主査(統括責任者)をつとめる。

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