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米大統領選挙徹底分析(9):なぜ保守派キリスト教徒エバンジェリカルはトランプを支持し続けるのか

中岡望ジャーナリスト
スキャンダルにもかかわらずトランプ候補支持に変わりはない保守派の有権者(写真:ロイター/アフロ)

内容

1.なぜ女性蔑視発言でもトランプ候補の支持率が低下しないのか

2.進化論を巡って主流派プロテスタントと決別したエバンジェリカル

3.エバンジェリカルとはどんな人たちなのか

4.エバンジェリカルはなぜクリントンを嫌うのか

5.トランプ候補とエバンジェリカルの"野合"

1.なぜ女性蔑視発言でもトランプ候補の支持率が低下しないのか

今回の大統領選挙で筆者が不思議だと思ってきたことは2つある。ひとつは、3度も結婚し、公然と人種差別的、女性差別的な発言を繰り返し、倫理的、人格的に問題があるのではないかと疑われるドナルド・トランプ共和党大統領候補が敬虔なキリスト教徒であるエバンジェリカルの支持を得ていることだ。しかも、公然と「神に許しを乞うたことはない」と語る人物を、過剰ともいえるキリスト教的倫理を主張するエバンジェリカルが、どうして支持するのか、今も疑問を抱いている。予備選挙の最中、最初はエバンジェリカルの支持を得るのはテッド・クルーズ候補と考えられていた。同候補は、父親がエバンジェリカルの牧師であり、自分自身も様々な宗教活動を行っていた。だが、予備選挙で劣勢に立たされ、最終的にエバンジェリカルがトランプ候補支持の立場を明確にすると予備選挙から脱落した。

また、第2回目の大統領候補による公開討論の直前にトランプ候補の女性蔑視発言が暴露され、世論の厳しい批判を浴びたにもかかわらず、エバンジェリカルはトランプ候補支持の立場を変えることはなかった。エバンジェリカルの指導者ジェームズ・ドブソン氏は、トランプ候補の「女性蔑視発言はロッカールームでの冗談だ」という弁明に対して、そうした発言は“男らしい(macho)”ものだと肯定する発言さえしている。さらにドブソン氏は、トランプ候補をエバンジェリカルに改宗したばかりの“赤ちゃんのキリスト教徒(baby Christian)”だとし、「トランプは我々と同じように成長するキリスト教徒である」という声明さえ発表している。ちなみにトランプ候補のルード・ビデオの発言は「Grab them by pussy”(女性の陰部を掴む)」「you can do anything(有名になれば女性に対して何でもできる)」などである。トランプ陣営のスタッフは、こうしたエバンジェルカルの反応について「エバンジェルカルは、誰が胎児の生命を守るのか、宗教的自由を守るのか、経済をどう成長させるのか、保守的な最高裁判事を指名するのか、イランとの核交渉に反対するのかという政策に基づいて投票するものである」と、エバンジェリカルの変わらぬトランプ候補支持の理由を説明している。良識派や女性のエバンジェリカルの中にはトランプ候補に対して嫌悪感を示し、離反する動きを見せているが、大多数のエバンジェリカルはトランプ候補を支持し続けている。

もうひとつの疑問は、トランプ候補は大統領の資質に欠けると思われるうえ、様々な問題発言を繰り返しているのに世論調査の支持率を見る限り、ヒラリー・クリントン候補との差が予想ほどつかないことだ。10月16日に発表された『ワシントン・ポスト』紙の全国世論調査では、「もし今日、大統領選挙の投票が行われたら、どの候補に投票するか」という問いに対して、「クリントン候補に投票する」と答えた比率47%に対して「トランプ候補に投票する」という比率は43%であった。だが、26日に発表された『ロサンジェルス・タイムス』の調査では、クリントン候補支持44%に対してトランプ候補支持45%と、支持率が逆転している。本来ならこの時点でトランプ候補は実質的に脱落していてもおかしくはない状況である。だが、むしろトランプ候補の“健闘”が目立つ。その最大の理由は、トランプ候補の支持層である高卒以下の白人労働者とエバンジェリカルがトランプ候補に極めて強い忠誠心をしめしているからである。では、倫理、道徳を主張するエバンジェリカルがなぜトランプ候補を支持するのか、以下で検討することにする。

2.進化論を巡って主流派プロテスタントと決別したエバンジェリカル

アメリカはキリスト教の国である。ただ、かつてのようにキリスト教徒が人口の圧倒的シェアを占める状況ではなくなってきている。ピュー・リサーチによると、2007年から2014年の間にキリスト教徒の比率は78.4%から70.6%にまで低下している。キリスト教は2つの大きなグループに分けられる。プロテスタントとカトリックである。良く知られているようにアメリカはプロテスタントが建国した国である。そのプロテスタントも2つのグループに分けられる。主流派プロテスタントとエバンジェリカルである。主流派プロテスタントには、バプティスト派(Baptist)、メソディスト派(Methodist)、プレスビタリアン派(Presbyterian)という3つの大きな宗派が存在する。だが、近年、主流派プロテスタントの退潮が著しい。先の調査では、主流派プロテスタントの人口に占める比率は18.1%から14.7%に低下している。現在、大都市にある主流派プロテスタントの教会は信者が減り、閑散としている。プロテスタントで最大のグループになっているのは、エバンジェリカルと呼ばれる信者である。2007年の時点でエバンジェリカルはアメリカ最大の宗派であり、人口に占める比率は26.3%であった。2014年には25.4%と比率はやや低下したものの、実数は増え続けている。2007年6090万人だったが、2014年には6360万人に増えている。エバンジェリカルはアメリカ最大の宗派なのである。

宗教の動向で他に目立つ特徴は、2014年の時点でカトリック教徒の比率が20.89%と、エバンジェリカルに次ぐ存在になっていることだ。最近、アメリカ社会でのカトリック教徒の活躍は目立つ。例えば連邦最高裁判所の9名の判事のうちカトリック教徒は6名である。残りの3名はユダヤ教徒である。最高裁判事に1人もプロテスタントはいないのである。もうひとつの特徴は、多くのアフリカ系アメリカ人が属するのが黒人教会(black church)の影響力が着実に拡大していることだ。オバマ大統領はシカゴの黒人教会トリニティ・ユナイテッド教会に属していた。同教会のジェレマイア・ライト牧師はアメリカ社会を過激な言葉で攻撃することで知られている。オバマ大統領は同牧師の薫陶を受けていたが、大統領になってからライト牧師との関係が批判されることを恐れて同牧師から距離を置き始めた。3つ目の特徴はどの宗派にも属さない層が増えていることだ。先の調査では2007年には無宗派は16.1%に過ぎなかったが、2014年には22.8%にまで増えている。最後に“宗教の多様性”が急速に進んでいることだ。以前、筆者はコロラド州にある米軍基地を見学に行ったことがある。基地の中に、イスラム、仏教など様々な宗教の教会や礼拝所が別々に配置されていた。この傾向は今後さらに加速していくだろう。それは同時に、プロテスタントの国アメリカの変質を予兆しているのかもしれない。

エバンジェリカルはアメリカ最大の宗派なのである。エバンジェリカルは「福音派」と訳される。また、「キリスト教原理主義者」と言われる。「キリスト教原理主義者」という言い方は、1920年に宗教誌の編集者Curtis Lee Lawsが名付けたものである。エバンジェリカルの起源には諸説ある。北欧からの移民者が持ち込んだという指摘もあるが、最も有力な説は16世紀のスイスの宗教改革家ジャン・カルヴァンの流れを汲むというものだ。宗教学者のマーク・A・ノール(Mark A. Noll)は「アメリカにおける宗教的色彩は広く言ってカルヴァン主義の伝統に根ざしていた」と書き、「政府の在り方に対する生真面目な道徳的懸念、市民と国家の義務に関する脅迫現象的な説教、そして政治的立場の基となり飾りとなる聖書からの頻繁な引用はアメリカ政治の歴史に一貫して存在した」(『神と人種』岩波書店刊)と指摘する。同じドイツの宗教改革家マルティン・ルターは現実政治とのかかわりを拒否し、神に帰依し、瞑想することを主張したが、カルヴァンは信徒に積極的に社会や政治に関わるように求めた。アメリカでエバンジェリカルが政治に積極的に関与するのは、こうした教えがあるからだといえよう。

エバンジェリカルは『聖書』には神の言葉が書かれていると主張する。これに対して主流派プロテスタントは『聖書』は歴史的ドキュメントであると主張する。したがって『聖書』の教えに従って生きることが、正しい生き方なのである。『聖書』解釈が大きく異なっていることが、エバンジェリカルが主流派プロテスタントと袂を分かつ理由になった。具体的に言うと、両派は「進化論」の解釈を巡って対立した。『聖書』を歴史的な文献と受け取る主流派プロテスタントは、進化論は科学の進歩であると受け入れた。だが、『聖書』には神の言葉が書かれていると信じるエバンジェリカルは進化論を拒否する。彼らにとって『旧約聖書』の天地創造説は絶対的な事実なのである。進化論を否定するということは、日本人には信じがたいことだが、宗教とはそうしたものである。筆者の日本人の知人はキリスト教徒で、筆者が『東京新聞』に宗教と進化論に関する記事を寄稿した時、筆者に「自分は進化論を信じない」というメールを送ってきたことがある。

現在、アメリカの公立学校では政教分離の原則から進化論を教えることは禁止されている。人間は最初から現在の形で神によって創造されたと主張するエバンジェリカルは、新しい抜け道を見つけ出した。「神」という言葉を使わずに「インテリジェント・デザイン(Intelligent Design=ID)」という言葉を使って天地創造説を教えようとしているのである。何か超越的な知的存在(intelligent)が、宇宙をデザイン(設計)したと主張することで実質的に天地創造説を教えようとしている。しかも、IDを公立学校の宗教の時間ではなく、生物学の時間に教えるように主張しているのである。またブッシュ前大統領も「IDを脱稿で教えることを支持すると発言していた。一部の公立学校のPTAはIDを学校で教えることを決め、それに反対する人々が訴訟を起こした例もある。

進化論を巡る対立から主流派プロテスタントと袂を分かったエバンジェリカルは郊外に出ていく。都市の中心にある大教会とは違い、平屋建ての教会を作っていく。1950年代から富裕層は都市を脱出して、郊外に移住するようになる。そうした富裕層に対してエバンジェリカルの教会は「物質的、社会的な成功は歓迎されるべきである」と楽観的なメッセージを激しい競争社会で戦っている富裕層に発信した。富裕層を中心にエバンジェリカルは増え続けた。やがてエバンジェリカル教会の全国ネットワークができあがり、彼らは宗教的な倫理を主張する保守派が影響力を持つ共和党の強力な政治資金源になっていく。エバンジェリカルが積極的に政治に関わっていくキッカケとなったのは、最高裁が1973年に「ロー対ウエイド裁判」で女性の中絶権を認めたことだ。さらにカーター大統領が公立学校での礼拝を禁止したことも彼らの危機感を煽った。同性愛、ドラッグ、ポルノ解禁などリベラルな社会的雰囲気の中でエバンジェリカルは政治的発言を強めていく。

その最初の動きが「モラル・マジョリティ(Moral Majority)」運動、すなわち「道徳的多数派」運動である。1980年の大統領選挙で共和党のロナルド・レーガン候補が民主党の現職のカーター大統領を破って当選を果たしたのは、モラル・マジョリティの支援が大きかった。彼らは、レーガン候補に1000万ドルを超える政治献金をしている。エバンジェリカルの支援を受け、レーガン大統領は保守主義思想の浸透を図った。モラル・マジョリティは1980年代に消滅するが、それに続いて「クリスチャン・コーリション(キリスト教同盟:Christian Coalition)」「フォーカス・オン・ファミリー(Focus on Family)」「ファミリー・リサーチ・カウンシル(Family Research Council)」「フェイス・アンド・フリーダム・コーリション(信念と自由連合:Faith and Freedom Coalition)」といったエバンジェリカルの組織が相次いで誕生し、保守主義政党である共和党を支援していく。ジョージ・W・ブッシュ大統領は“ボーン・アゲイン・クリスチャン(born-again Christian:「生まれ変わったキリスト教徒」)”で、ホワイトハウスで聖書研究会を定期的に開いていた。“ボーン・アゲイン・クリスチャン”はエバンジェリカルと同義である。すなわち彼らは、人は苦難を乗り越えてこそ本当のキリスト教徒になれると考えたからである。ブッシュ大統領はアル中などを克服し、生まれ変わったキリスト教徒になったと述懐している。

3.エバンジェリカルとはどんな人たちなのか

どんな人がエバンジェリカルなのか。ピュー・リサーチ(「America’s Changing Religious Landscape」、2015年5月12日)の調査結果を見てみよう。年齢的に一番多いのが30歳から49歳で、全体の33%を占める。次に多いのが50歳から64歳(29%)、65歳以上(20%)である。18歳から29歳の若者世代は17%と比較的少ない。もう少し世代別の構成を細かく見てみると、「ミレニアム世代」は23%、「ジェネレーションX世代」は28%、「ベビーブーマー世代」は35%である。男女の比率では男性が45%、女性が55%と、女性のほうが多い。人種では白人が圧倒的に多く、76%を占めている。これがエバンジェリカルの最大の特徴でもある。エバンジェリカルは白人であると言っても間違いではない。白人以外では、ラテン系11%、黒人6%である。

所得水準を見ると、3万ドル以下が35%と一番多い。したがって、エバンジェリカルは低所得層の人々が多い。3万ドルから5万ドル未満が22%、10万ドルを超える所得層は14%と少ない。ちんみにアメリカのフルタイムで働く25歳以上の高卒の中位所得が3万0598ドル(2015年統計)である。大卒の中位所得は6万4074ドルである。学歴を見ると、高卒以下が43%、大学中退が35%(この二つを合計すると78%となる)、大卒が14%、大学院以上はわずか7%にすぎない。トランプ候補の最大の支持層は高卒以下のブルーカラーであるが、エバンジェリカルと重なり合う部分が多い。また結婚している比率は55%、一度も結婚したことがない比率が18%、離婚か別居は14%、両親と同居が5%である。こうした数字から、アメリカ社会におけるエバンジェリカルのイメージが浮かび上がってくる。

宗教的な信念に関していえば、「神の存在を“絶対に”信じている」が88%、「信じている」が10%、「よく分からない」が1%である。エバンジェリカルの98%が神の存在を信じているのである。毎日お祈りをするが79%、毎週が14%、少なくとも週一度は教会に行くが58%、月1~2度が30%である。善悪の“絶対的な基準”があると考えるのは50%、善悪の判断は状況によるが48%である。天国があると信じているのが88%、地獄があると信じているのが82%である。政党支持は共和党が56%、民主党が28%と、圧倒的に共和党支持者が多い。ただエバンジェリカルがすべて共和党支持というわけではない。たとえば民主党のジミー・カーター大統領はエバンジェリカルである。思想的には、保守主義者であるが55%、リベラルが13%、穏健派が27%となっている。小さな政府を主張する者は64%、大きな政府支持は30%である。政府は良いことをするよりも悪いことをすると答えたのが56%、政府は悪いことよりも良いことをするという回答は38%であった。保守主義者を代表するレーガン大統領は「政府は問題を解決するのではなく、政府の存在そのものが問題である」と主張したが、そうした考え方はエバンジェリカルにも引き継がれている。

4.エバンジェリカルはなぜクリントンを嫌うのか

ピュー・リサーチが2016年9月23日に「Many evangelicals favor Trump because he is not Clinton(多くのエバンジェリカルがトランプを支持するのは、彼がクリントンでないからだ)」と題する興味深いレポートを発表した。トランプ候補の支持者に対して「トランプを支持する主な理由は何か」と質問したところ、白人エバンジェリカルの35%が「彼はクリントンでないからだ」と答えている。次に多かったのは「政策に対するトランプの主張」(34%)、「政治的アウトサイダーであり、政治に変化をもたらすから」(26%)、「トランプの個性や、批判されても真実を発言し続ける姿勢(take-it-like-it)が好ましい」(19%)と続く。3番目の理由から判断すると、トランプ候補の“暴言”はエバンジェリカルの間ではむしろ高く評価されているのも理解できる。

日本人でも辛口の発言する人が評価される傾向があるが、アメリカでも同様なようだ。問題は、なぜエバンジェリカルはクリントン候補を毛嫌いするのであろうか。クリントン候補は頻繁に教会に足を運ぶ敬虔なキリスト教徒である。彼女はユナテッド・メソディスト教会に属している。またエバンジェリカルの指導者と個人的に親しい関係を持っている。上院議員の時、教会の日曜学校でも教えていた。ところが、多くのエバンジェリカルにとってクリントン候補は受け入れがたい存在なのである。なぜなら、クリントン候補は公然と女性の中絶権を擁護し、『聖書』の教えを無視するフェミニスト(女性解放運動家)であるからだ。ある時、クリントン候補は「家にいて、クッキーを焼き、お茶をいれることなんか想像もできない」と語ったことがある。だがエバンジェリカルの女性観は、女性は家庭にいて、家事をし、家族の面倒を見るべきだというものである。多くのエバンジェルカルは職業人として活躍するクリントン候補を好ましい存在とは見ていなかった。エバンジェルカルが大統領選挙で見ているのは、「文化戦争(cultural war)」であり、「価値観を巡る戦い」である。こうした価値観を重視する有権者を「バリュー・ボーター(value voter)」という。エバンジェルカルのクリントン候補との戦いは、彼女がファースト・レディーとしてホワイトハウスに入ったときから始まっている。エバンジェリカルの雑誌『Christianity Today』は、「エバンジェリカルはヒラリーの名前を聞くと驚くほどの不快感をもって反応する」と書いている。

もう少し具体的に言えば、第3回の公開討論会でクリントン候補は「ロー対ウエイド最裁判」の最高裁判決を支持し、女性の中絶の選択権を擁護するプロチョイスの立場を繰り返し主張した。エバンジェルカルにとって中絶問題は絶対に譲歩できない問題である。エバンジェルカルにとってクリントン候補は、プロチョイスを代表する人物と見られているのである。クリントン候補は「悪魔の娘」なのである。またトランプ候補が女性問題で批判されているが、エバンジェルカルにとってクリントン候補も夫の不貞に関わり、離婚することもなく、その一方で夫の行動を軽蔑しているのが、多くのエバンジェルカルにとって許容しがたいのである。トランプ候補は皮肉一杯に「夫を満足させることができない女性がアメリカ人をどうして満足させることができるのか」とクリントン候補を批判している。またエバンジェルカルは、クリントン候補はLGBTの権利を擁護することで“宗教的自由”を侵していると考えている。なぜLGBTの権利を擁護することが宗教的自由を侵すことになるのか、日本人にはその発想が理解しにくい。最近、幾つかの州で女性に性転換したトランスジェンダーの人物が女性のロッカールームを使うのを禁止する運動が広がっている。その根拠として、宗教的に相いれない人物を拒否することは“宗教的自由”だと主張している。こうした問題でもクリントン候補はエバンジェリカルの最大の攻撃対象となっている。

また今回の大統領選挙でエバンジェルカルのクリントン候補批判が常軌を逸しているように見えるのは、クリントン候補もエバンジェルカルを無視しているからだとの指摘もある。オバマ大統領は選挙運動中に、それなりにエバンジェリカルの有権者に対する配慮を示していた。クリントン候補には、そうした気配りはあまり見られないのは事実である。クリントン候補を支持する人たちに、「どうしてトランプを支持しないのか」と聞いたところ、3分の1の人は「トランプを大統領にしたくないかれらだ」と答えている。皮肉にも両候補の支持者とも、支持する候補を積極的に支持するというよりも、対立候補が嫌だから支持するというのである。

5.トランプ候補とエバンジェリカルの“野合”

トランプ候補が政治に野心を持ち始めたのは1987年の頃からである。『ユーヨーク・タイムズ』紙にフルに1ページを使って外交政策に関する意見広告を掲載している。2000年の大統領選挙で、実業家で大統領選挙に立候補したロス・ペローが結成した改革党の大統領候補指名を目指したが、評論家で超保守派のパット・ブキャナンが指名された。なお改革党は2016年の大統領選挙ではトランプ候補を支持している。また2012年の大統領選挙でミット・ロムニー候補がオバマ大統領に惨敗した時、トランプ候補は2016年の大統領選挙に向けて準備を始めている。リベラル派を代表する雑誌『The New Republic』の上席編集者のジョン・ジュディスは、もともとトランプ候補は「穏健な東部共和党員」だったと指摘する。1999年には女性の中絶権を支持すると語っている。社会保障制度や高齢者と低所得者に対する公的医療保険制度も擁護する立場を取っていた。だが、ジュディスは「もしトランプが穏健派共和党員の立場を取り続けていれば、おそらく一人も選挙人を獲得することはできなかっただろう」と語っている(『The Populist Explosion』Colombia Global Report刊)。

だが、現在の大統領選挙では中絶問題で明確にプロライフの立場を取っている。言い換えると、党内保守派やエバンジェルカルの支持を得るために、立場を変えたと言える。エバンジェリカルは自分たちの主張を代弁する強力な指導力を持つ政治家を求めている。トランプ候補は共和党の大統領指名を得るために、エバンジェリカルににじり寄った。さらに副大統領候補にマイク・ペンス・インディアナ州知事を選んだ最大の理由は、ペンスはエバンジェリカルの支持を得ているからである。確かにトランプ候補のエバンジェリカル取り込み戦略は成功した。7月13日に発表されたピュー・リサーチの調査結果では、白人エバンジェリカルの78%がトランプ候補に投票すると答えている。

他方、最高裁における同性婚の合憲判決やLGBTの権利の擁護の容認などエバンジェリカルにとって好ましくない社会的状況が進んでいる。そうした動きに歯止めをかける必要を感じているエバンジェリカルは、「強力な指導力」を持つトランプ候補を必要としたのである。『ワシントン・ポスト』紙の記者は「エバンジェリカルはプラグマティク(現実的)になり、自分たちの考え方を最も反映してくれる候補者を選ばなければならない。それは(倫理上の)幾つかの問題で妥協することを意味しても」と書いている(「Why Donald Trump is tearing evangelicals」2016年3月5日)。その妥協が、トランプ候補を支持することである。それはお互いの利益のための“野合”であると言っても間違いではないだろう。

エバンジェリカルの指導者でモラル・マジョリティを組織したジェリー・ファルエルの息子で、リバティ大学の創設者のジェリー・ファルエル・ジュニアは予備選挙が始まる前の2016年1月にトランプ候補支持を明らかにしている。この支持が、敬虔なエバンジェリカルだったテッド・クルーズ候補に致命的な打撃を与えることになった。ファルエルは、「政治はbloody sports(血を流すスポーツ)だ。一種の戦争だ」と語っている。彼は、極めて現実主義的で、政治的な動きをするエバンジェリカルの一人である。2016年7月にニューヨーク市で開催された宗教集会でファルウエルはトランプ候補を「歴史上の岐路に立つ偉大な我が国を指導する神が選んだ人物である」と紹介している。この集会でエバンジェリカルはトランプ支持を決めた。エバンジェリカルの指導者デビッド・レーンは「トランプはアメリカでトップ4人の大統領の一人になれる人物だ」と誇らしげに語っている。だがすべてのエバンジェリカルがトランプ候補支持に同調したわけではない。あるエバンジェリカルの指導者は「この集会はキリスト教右派の終焉を記すものだ」と批判的なコメントをしている。

大統領選挙の結果はまだ予想できない。多くの政治の専門家はクリントン候補が勝利すると予想している。確率的には、その可能性が大きい。ただ選挙は水物である。クリントン候補が勝利するにしても問題は、その勝ち方だ。どの程度の票差で勝利するのか。地滑り的な勝利なのか、薄氷を踏むような勝利なのか。選挙人の数で勝つだけでなく、総得票数でどの程度差をつけることができるのか。そうした結果が、選挙後の政治に大きな影響を与えるだろう。選挙のたびにアメリカ社会は分裂していると指摘される。二つの社会とは、「保守主義者の社会」と「リベラル派の社会」であり、それぞれの間でコミュニケーションは全くと言っていいほど成立していない。今回の選挙でどちらの候補が勝利したにしても、アメリカの政治、社会の亀裂はさらに大きくなることは間違いない。

ジャーナリスト

1971年国際基督教大学卒業、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)、東洋経済新報社編集委員を経て、フリー・ジャーナリスト。アメリカの政治、経済、文化問題について執筆。80~81年のフルブライト・ジャーナリスト。ハーバード大学ケネディ政治大学院研究員、ハワイの東西センター・ジェファーソン・フェロー、ワシントン大学(セントルイス)客員教授。東洋英和女学院大教授、同副学長を経て現職。国際基督教大、日本女子大、武蔵大、成蹊大非常勤講師。アメリカ政治思想、日米経済論、マクロ経済、金融論を担当。著書に『アメリカ保守革命』(中央公論新社)など。contact:nakaoka@pep.ne.jp

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