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米大統領選挙徹底分析(12):選挙前に知っておきたいクリントン候補の政策--彼女の目指す世界はどこか

中岡望ジャーナリスト
Stronger Togetherはクリントン候補の選挙公約の標語にひとつ(写真:ロイター/アフロ)

内容

1.クリントン候補の政策をどう評価するか、2.TPP(環太平洋パートナーシップ協定)と自由貿易政策、3.外交政策と安全保障政策、4.教育関連予算の提案、5.有給休暇制度と育児手当の拡充、6.道路網の整備などを柱とするインフラ投資の促進、7.移民政策改革、8.最低賃金の引き上げ、9.富裕層と企業に対する増税政策

1. クリントン候補の政策をどう評価するか

投票日も直前に迫っている。FBIのメール事件再捜査の決定が影響を与え、選挙情勢は混迷を深めている。ただ、ギャラップの調査では、再捜査にも拘わらず、クリントン候補に対する見方はあまり変わっていないとの結果もでている。クリントン陣営は巨額のテレビ・コマーシャルを流すなど、攻勢をかけている。ただ、今回の選挙の動向はスキャンダルで左右されてきた。公開討論会も政策論争は影を潜めていた。改めて両候補の政策を分析し、どんな社会を目指しているか明らかにする。

クリントン候補は『ワシントン・ポスト』(2016年7月29日)のインタビューに答えて、「技術の進歩、国際貿易の拡大、アメリカの家族生活と仕事の変化が進歩を促してきた。しかし、その恩恵は企業の経営者は株主など文字通りトップ1%の富裕層のものになっており、貧富の格差が驚くべき水準にまで拡大している」と語っている。また「多くの政府と企業の指導者が選択した道は、この格差を縮小させるのではなく、拡大させることであった。税制は富裕層に有利なように偏っている。労働者の権利は損なわれてきた。私たちは、アメリカの競争力をより高め、アメリカをより豊かにし、アメリカをより強力にする政策を怠ってきた。それはインフラ投資である。私は、アイゼンハワー政権の高速道路建設計画以降で最大のインフラ投資を提案する。また、再生可能なクリーン・エネルギーへの投資も怠り、気候変動の脅威も無視してきた。クリーン・エネルギーへの投資で新しい雇用が生まれる可能性がある。既に失われ、復活することができないと考えられている製造業に対する投資も必要である。今、投資をすれば成果を得ることができる」と、アメリカ社会が抱える経済の問題を指摘している。基本メッセージは「再富裕層のためではなく、すべての人のためになるように経済を機能させる」だと、クリントン候補は言う。具体的には「公平な税制」「雇用創出」「賃金の引き上げ」がクリントン候補の政策の柱となっている。

クリントン候補の政策スローガンは”Make it in America”である。トランプ候補の”Make America Great Again”と比較すると興味深い。クリントン候補の政策を一言で表現すれば、「Put American Workers First(アメリカの労働者を最優先する)」政策であろう。これもトランプ候補の「America First(アメリカ第一)」と比べると、政策意識の違いが出ている。アメリカの雇用を守り、賃金を引き上げることが最優先政策に位置付けられている。”Make it in America”は、文字通り、アメリカで生産をするということを意味している。製造業の復活を図かり、製造業がアメリカの経済の中核にするというのが、クリントン候補の基本的な考え方である。製品を製造することが国内でのイノベーションを生み出し、国を豊かにするというのが、基本的な発想である。そのためにはインフラ投資や研究開発投資を強力に推し進める必要があると主張する。海外に工場を移転する企業に対する税優遇措置の撤廃なども、製造業復活の手段と考えられている。製造業部門でアメリカの指導力を回復することを目指している。その狙いは、単に産業を育成するというよりも、製造業の復活を通して労働者の雇用回復、賃金上昇を実現するところにある。国内で労働者に投資し、高賃金の雇用を創出する企業は支援するが、アウトソーシングによって国外で雇用を流出させる企業は支援しないという明確なメッセージも発している。従来、クリントン候補は中道右派と見られていたが、選挙公約を見る限り、中道左派にシフトしているように思われる。それはベニー・サンダース上院議員やエリザベス・ウォーレン上院議員など党内左派に影響されたものと判断される。

民主党の「政策綱領」の目次を列挙すると、次のようになる。「賃金引上げと中産階級の経済保障」「高賃金労働の創出」「経済的公平の促進と不平等に対する戦い」「国民を結集し、機会の障害を取り除く」「投票権の促進と選挙資金改革、民主主義の回復」「気候変動との戦い、クリーン・エネルギー経済の構築、環境的正義の確保」「質が高い教育の提供」「すべてのアメリカ人の健康と安全の確保」「軍隊を維持し、退役軍人の信頼を確保」「国際的な脅威に対処」「アメリカの価値観を守る」「世界の指導者」である。安全保障問題や軍事問題に関する言及は極めて少ない。政策は内向きで、リベラル派の政策が中心にあるのが特徴である。クリントン候補の政策も当然ながら党の政策綱領と重なり合う。政策綱領の前文に「現在の極端な所得と富の不公平は経済を弱くし、コミュニティをより貧しくし、政治を悪意あるものにする」と書かれている。共和党の政策綱領が極めて思想的かつ宗教的価値観を前面に打ち出しているのとは対照的である。

『ニューヨーク・タイムズ』紙(2016年8月12日)は、「クリントン候補の政策は過激ではなく、漸進的で、政治的な現実に対応している」と評価している。ただ、政策が実現するには議会の支持が必要である。現在の時点での議会選挙の見通しは、下院は民主党が議席を増やすとみられるが、共和党が引き続き過半数を維持するというものである。上院はほぼ民主党と共和党の議席が拮抗するというのが大勢の予想である(上院は議席数100議席で、今回は三分の一が改選される)。

2.TPP(環太平洋パートナーシップ協定)と自由貿易政策

日本の読者にとって一番関心があるのは、TPPに対する政策であろう。クリントン候補は先の『ワシントン・ポスト』紙のインタビューの中で貿易協定に言及している。質問者の「あなたはアメリカの労働者のためにならない貿易協定は再交渉すると言っておられる。それではNAFTA(北米自由貿易協定)やCAFTA(中央アメリカ自由貿易協定)に調印しなければ、現在のアメリカ経済は良くなっていたと考えているのか」という質問に対して、クリントン候補は「それに答えるのは難しい」としたうえで、「私は貿易協定には非常に高いハードルを設定している。貿易協定が賃金引上げ、高賃金労働の創出、安全保障の強化というハードルを越える場合のみ、協定に調印する。貿易協定に関しては、協定の内容にもっと強制力があり、他の国が本当に市場を開放することを求めるように再交渉すると言ってきた。私は既存の貿易協定の一部を変更する必要があると考えている。最大の貿易問題は、わが国が貿易交渉を行っていない中国との貿易である。中国は最大のルール違反国である。私は上院議員の時、アメリカの製造業のために中国の欺瞞的な行為(China’s cheating、具体的には為替相場操作、知的所有権の侵害など)と戦ってきた。インタビューの中では、具体的にTPPのことは出てこなかった。むしろ既存の貿易協定の見直しに重点を置いた説明になっていた。

貿易協定に関する基本的な考えは分かった。ではTPPをどうするのか。政治家の選挙公約は信用できない。2008年の民主党の大統領予備選挙でオバマ候補とクリントン候補は激しい戦いを演じた。その争点のひとつに自由貿易協定があった。両候補ともNAFTA(北米自由貿易協定)などの自由貿易協定に反対する立場を取っていた。民主党を支持する労働組合や環境・市民団体はいずれも自由貿易協定に反対であった。彼らの支持を得るには、自由貿易協定に反対するしかなかったともいえる。両候補はともにNAFTAの見直しを主張し、今後、新たな自由貿易協定は結ばないと断言していた。だがオバマ政権が発足すると、オバマ大統領は2010年の一般教書で貿易を増やすことが雇用を増やす最も簡単な道であると主張し、米韓自由貿易協定の締結に進む。韓国政府と協定の再交渉を行い、米韓自由貿易協定を批准した。クリントン国務長官もオバマ大統領の政策に同調し、米韓自由貿易協定に賛成した。さらにオバマ大統領とクリントン国務長官はTPP交渉に積極的に取り組んでいく。

今回の大統領選挙も2008年の大統領選挙の時と似た状況が見られた。民主党の大統領予備選挙でサンダース候補は強烈に自由貿易協定反対の立場を取った。いわば追い詰められる形でクリントン候補もTPP反対の立場を明確にすることになる。選挙運動の中でクリントン候補はオバマ政権の政策を継承すると語っていたが、TPPの批准に関してオバマ政権の政策に反対することになった。民主党左派を代表するエリザベス・ウォーレン上院議員はテレビ番組で「クリントン候補のTPP反対の姿勢は明確で、それに反することをしないと断言している。その言葉は信用しても良い」と追い打ちをかけた。クリントン候補は「アメリカの職を奪った為替相場操作に対して断固たる態度を取る内容が含まれているか、また製薬会社より患者や消費者を優先する内容が含まれているかがポイントだ。TPPの詳細について引き続き調べている。今まで私が得た情報に基づく限り、この協定を支持することはできない」と語っている。「何度も繰り返し言っているように、この協定は明確なテストに合格しなければならない。それはアメリカで良い仕事を作り出し、賃金を上げ、国家の安全保障を推し進めるものでなければならない」、「私は太平洋における強力で公平な通商協定は広範な戦略の一部でなければならないと信じている。私はオバマ大統領と彼のチームが困難な仕事を軌道に乗せたことを評価している。しかし、TPPを批准するバーは極めて高い。私が知りうる限り、この協定はバーを越えているとは思えない」と語っている。

ここまで明確に反対を表明した限り、選挙で勝利して大統領に就任したとしても、TPP反対の公約を覆すのは難しいだろう。オバマ大統領が任期中に議会での批准にこぎつけることができれば、ジレンマから逃れることができる。しかし、TPP推進派の共和党は現在の議会で急いでTPPを批准する必要はないという立場を取っている。民主党議員の大半はもともとTPP反対であり、オバマ大統領がTPPを批准するには共和党の強力が絶対必要である。通商交渉に関する権限(Trade Promotion Authorization)は民主党議員の反対を押し切り、共和党議員の賛成でかろうじて成立したものである。 そうした状況を勘案すれば、オバマ政権下でのTPPを批准するのはほぼ絶望的と言っていいかもしれない。とすれば、クリントン候補は大統領に就任した場合、最初の大きな決断を迫られることになるだろう。少なくとも大統領に就任してもすぐにTPPを推進するということは考えられない。さらに議会での民主党と共和党の勢力がどうなるかで、TPPの運命が決まることになるだろう。また、日本政府は早く批准することでアメリカに圧力をかけようとしているが、それでアメリカ議会を動かすことはできないだろう。

3.外交政策と安全保障政策

クリントン候補にとって主要な外交課題は3つある。ひとつは対中国政策であり、もうひとつは対ロシア政策、そして最後に中東政策である。トランプ候補は、アメリカ保守派の伝統的な外交政策、すなわち同盟国との安全保障経費の分担(burden sharing)と、海外の問題に干渉するよりも、まず国内問題に対処すべきだという「アメリカ・ファースト」の孤立主義的な政策を代弁している。これに対してクリントン候補は「国際的な出来事で左右される指導力ではなく、国際的な出来事を自ら作り上げていく創造的で自信に満ちた指導力を発揮できるなら、将来、はるかに大きな機会が開けるだろう」と、国際政治、安全保障に積極的にかかわっていくと主張している。国際政治でのアメリカの指導力の拡大を政策の柱に掲げているといってもいいだろう。また同盟国との関係強化がアメリカの“力の源泉”であるとの認識も示している。したがって、クリントン候補は、トランプ候補が恫喝したNATO(北大西洋条約機構)はアメリカにとって最大の資産であると考えている。クリントン候補は外交政策に関して、「ハード・パワー(軍事力)」や「ソフト・パワー(外交力)」だけではだめで、その二つのパワーを組み合わせた「スマート・パワー」が必要だと主張していた。そうした意味で、クリントン候補は極めて弾力的な外交、安全保障政策を追求するものと予想される。

ロシア政策は、NATOとの協力関係を強化するなかで拡張主義を抑制することを目指している。また中国に対しては、国際ルールに従って行動するように求める意向を示している。対立するのではなく、通貨政策、人権問題、領土紛争、気候変動などの諸問題で中国と協力する道を模索するだろう。国務長官時代、クリントン候補は中国との関係で経済関係を重視し、人権問題に直接触れることはしなかった。大統領に就任後も、対立路線と協調路線をバランス良く取りながら、対中国政策を行っていくと予想される。中国と良好な関係を維持することは、アメリカの国益にも叶うと考えているようだ。オバマ大統領は“オバマ・ドクトリン”で、アメリカに直接利害が及ばない限り、海外の出来事に介入しないとの方針を取ってきた。だが、その結果、アメリカの影響力は著しく低下した。そうした現実から、クリントン候補はもっと積極的な外交・安全保障政策を取るのではないかと予想される。日米関係もオバマ政権よりも関係強化を目指すと予想している。

4.教育関連予算の提案

現在のアメリカの最大の問題のひとつは、大学生が授業料を支払うためにローンを借りて、返済の苦慮していることだ。ローンは英語で”student loan”と言い、「学生ローン」あるいは「学資ローン」と訳されている。大学を出ても就職できないか、就職しても給料が安く、ローン返済に窮する人々が急増している。返済を滞れば、信用歴に傷がつき、生涯にわたって大きなハンディキャップを背負うことになる。住宅ローン問題よりも学生ローン問題の方が深刻だとの見方もある。ニューヨーク連邦準備銀行の資料では、学生ローン残高は過去10年間に3倍に増え、2015年第1四半期の時点で1.2兆ドルに達している。家計の債務の中で住宅ローを除けば学生ローン債務が最も大きな比率をしめている。ローンを借りている数は4300万人に達し、返済に遅延する比率も確実に上昇している。民主党の予備選挙でサンダース候補が大学生を含む若者の絶大な支持を得たのは、同候補が学費の無料化を訴えたからである。こうした状況を受けて、クリントン候補も学費軽減策を政策の柱の一つとして打ち出している。その政策は「Debt Free Tuition計画」と呼ばれている。サンダース候補の「Tuition Free計画」は授業料を無料にするのに対して、クリントン候補の政策は債務軽減を目指す政策である。同計画は「College Affordable Plan」と名付けられている。

クリントン候補は、教育・育児関係で10年間に7000億ドル支出すると訴えている。この政策が国内政策の最大の柱のひとつになっている。その項目には4歳児の教育支援、保育費支援、2年生のコミュニティ・カレッジと4年制の州立大学などの公立大学支援が含まれている。「Debt-free tuition計画」は、「新大学契約(New College Compact)」とも呼ばれている。クリントン候補は、その狙いを「働く意欲のあるすべての人が何十年にわたって負債を負うことなく、質の高い教育を受けることができるようにする必要がある」と語っている。内容は次のようなものだ。連邦政府が州政府や地方政府に教育資金を供与する。現在、多くの州地方政府は財政難から教員の解雇や授業料値上げで費用を削減を図っている。連邦資金を受け取った州地方政府は、その資金を州立大学などの公立大学などの高等教育をするための運営資金に充当しなければならない。州政府から資金を得た大学は、その資金を建物の建設などに使うことは禁止されている。その資金は奨学金や授業料免除など学生のために使わなければならない。それによって学生の金銭的な負担を軽減することができる。ただ富裕層の子弟の場合、家族の所得に応じて授業料を払うことになる。授業料が軽減された学生は週10時間労働に従事しなければならない。それに加えて低所得家族の学生は連邦政府の奨学金制度「ペル奨学金(Pell Grants)」から得た奨学金を寮費などに使うことができる。この教育予算額は10年間で2000億ドルが見込まれている。

クリントン候補の教育政策には、これ以外にも黒人大学に対して250億ドルの連邦資金を支出するプランも含まれている。またローンで返済ができず破産した場合、大学に学生を資金的に支援することを義務付けているのも大きな特徴である。この措置は私立大学には適用されない。さらに学生ローン対策として連邦政府の貸出プログラムを改革して、既に学生ローンを抱え、返済を行っている人が低金利で資金を借り換えでことがきるようにし、新規で学生ローンを借りる学生には低利で融資することになっている。さらに返済額を可処分所得の10%を上限に設定している。20年以上にわたって返済を続けた場合、全債務が免除されることも計画も盛り込まれている。

5.有給休暇制度と育児手当などの拡充

クリントン候補の社会政策の柱の一つに、家族や病気を理由に有給休暇がとれる制度の拡充がある。アメリカの有給休暇制度は他の国と比べると遅れている。それは有給休暇を与えるかどうかの判断は企業に委ねられており、強制力のある法整備は行われていないからだ。労働省の統計(Paid Family and Medical Leave, 2015年6月)によれば、育児、介護などの家庭の事情で有給休暇を取ったのは民間企業の労働者の12%に過ぎない。低賃金労働者の場合、その比率は5%に過ぎない。さらに多くの労働者は無給休暇すら取るのも難しい状況にある。その理由は、休暇を取ると収入が減少するからだ。また、無給でも休暇を取ろうとすると職場の圧力で休暇期間を短縮しなければならない労働者が多い。多くの労働者は育児だけでなく、両親の介助も行っており、休暇を取る必要に迫られている。産児休暇に関しても必要性が高まっているにもかかわらず制度の整備が進んでいない。有給の育児休暇制度(paid maternity leave)がないのは、パプアニューギニアとオマーン、アメリカの3カ国に過ぎない。「1993年家族・医療休暇法(FMLA)」が成立し、有資格者は12週間の無給休暇を取った後、職場復帰が保障されるようになった。しかし、妊娠、出産に関する休暇は適用対象外になっている。したがって、アメリカでは妊娠した女性は労働市場から落ちこぼれる傾向が強い。子供を持つ女性の43%は、キャリアの途中で仕事を辞めている。2014年の調査(Kaiser Family Foundation)では、25歳から54歳で仕事をしていない女性の61%は、家事や育児、介護をその理由にあげている。また十分な育児休暇がないために、女性は出産後すぐに職場復帰をしなればならない。出産後、女性の25%は10日以内に職場復帰している。アメリカ国内では、カリフォルニア州、ニュージャージー州、マサチューセッツ州、ロードアイランド州などわずかな州で有給の育児休暇を与えることが法律で義務付けられている。カリフォルニア州では出産した女性は6週間の有給休暇を取る権利があり、給料の55%が支給される。

FMLAが適用される労働者は全体の59%に過ぎない。12週間の無給休暇も1年に1250時間以上働き、50人以上の労働者を雇用する企業にのみ適用される。40%以上の女性はFMLAの対象外に置かれている。同法の適用対象になっている女性で休暇を取った比率は36%に過ぎない。アメリカにとって有給休暇制度の整備は緊急を要する状況にある。クリントン候補は「あまりに多くの女性が出産直後に職場に復帰しなければならない。あまりの多くの両親がまったく有給休暇を取れない状況にある」と、家族の事情や病気で有給休暇を取れる制度の導入を選挙公約に掲げている。公約では、12週間の有給休暇を制度化するとしている。さらに休暇中は上限で給料の3分の2の支給の保障を求めている。

また保育問題に関しては”The Expanded Childcare Plan”が提案されており、保育料を所得の10%を上限とすることで低所得層への支援を訴えている。他方、トランプ候補は保育料を税額控除とする案を提案している。ただ税額控除では富裕層に有利との批判もある。また幼児教育に関しては”the Early Education Plan”によって、4歳から教育を行う政策を主張している。これは現行の”Early Head Start Plan”を拡大したものである。クリントン候補の政策では、保育料補助と早期教育促進で年間275億ドルの支出を見込んでいる。

6.道路網の整備などを柱とするインフラ投資の促進

クリントン候補もトランプ候補も公共投資増加を訴えている。トランプ候補の公共政策は共和党の政策からすると異例な主張である。クリントン候補は「交通費を引き下げ、公共交通を拡大することで雇用機会を増大する」と語っている。クリントン候補が強調するインフラ投資は5年間で2750億ドルを支出するもので、主な対象は交通網の整備プロジェクトである。ちなみにトランプ候補は、その倍の額のインフラ投資を主張している。クリントン候補の提案では、インフラ投資以外では住宅投資に250億ドル、「戦略インフラ銀行(Strategic Infrastructure BankあるいはNational Infrastructure Bank)」を設立し、250億ドルの出資計画も盛り込まれている。同銀行が提供する融資や融資保証を呼び水にインフラ投資に民間資金を呼び込むのが目的である。クリントン候補は「アメリカ人が働けるように道路や橋、空港、鉄道、広範なネットワークを建設するためにインフラ銀行を設立しなければならない」と語っている。2005年に道路などの整備のために「交通整備資金法」が成立している。ただ同法の予算措置は2年ごとに議会の承認が必要で、議会の承認を得るのに時間がかかり、必ずしも機動的に機能しているとはいえない。アメリカではインフラの劣化が激しく、長期間にわたる安定的な投資資金供給が必要となっている。クリントン候補の提案は、こうした状況を踏まえたものである。こうしたクリントン候補の提案に対して、共和党はそうした投資は連邦政府ではなく、州政府主体で行うべきだと慎重な姿勢を見せている。

こうしたインフラ投資銀行案はクリントン候補以外の議員からも提案されている。たとえば、「American Infrastructure Fund」「 American Infrastructure Bank」「National Infrastructure Development Bank」「Infrastructure Financing Authority」どがある。オバマ大統領も2008年の大統領選挙で同様な構想を明らかにしていた。ただ、こうした金融機関構想がうまくいくかどうかは疑問である。既に「Transportation Infrastructure Finance and Innovation Act」などが存在し、屋上屋を重ねることになりかねない。

7. 移民政策改革

クリントン候補にとって移民政策の改革は最重要政策である。クリントン候補は「大統領就任後100日間に包括的な移民改革法を提案する」と語っている。移民問題はトランプ候補との差別化を示すものである。トランプ候補は不法移民の強制送還やメキシコとの国境に壁を建設する案など厳しい移民政策を主張している。それがヒスパニック系アメリカ人の反発を買っているのは周知のことだ。クリントン候補の不法移民に対する基本的な考え方は、コミュニティに貢献した記録のある者は正規の移民として受け入れるといものである。その改革案の詳細は明らかになっていないが、クリントン候補の提案は「Border Security, Economic Opportunity, and Immigration Modernization of 2013」の内容に類似するものと考えられる。同法は上院では可決されたが、下院では採決されておらず、法案としてはまだ成立していない。同法を敷衍しながら、クリントン候補の移民政策を推測してみる。同法の基本は不法移民に法的な地位を与え、最終的に市民権を与えることを目的としている。国境を守るために国境警備隊を4万人増やす提案や専門的なスキルを持っている者に対して特別なビザ発給案も盛り込まれている。クリントン候補が主張する移民法改革は、家族で移民する場合、配偶者や未婚の子供にも労働ビザを発給し、労働ビザ発給の上限は設定しない。これは”family-based immigration”と言われる考え方である。また”employment-based immigration”として、アメリカの大学で学位を取得した者に対する労働ビザの発給制限の廃止する、一時的移民ビザを発給する対象人数の拡大する、高学歴で、英語を流暢に話せる個人に対してビザを発給する内容も盛り込まれている。

クリントン候補は次のような主張もしている。「移民法のもとで家族を守るためにあらゆることをする」、「移民法は人道的に適用する」、「移民を抑留する施設を廃止する」、「移民にも公的医療保険制度を利用できるようにする」、「移民の帰化を促進する」、「移民局(Office of Immigrant Affairs)を新設し、150億ドルの資金を投じて、英語教育、市民教育を実施し、移民のコミュニティとの一体化を進める」などである。

こうした移民法の改革によって、議会予算局は毎年100万人が移民として入って来ると推定している。移民の増加によって10年間で人口は3%増加する。移民の増加は経済発展にも寄与する。議会予算局は、先に指摘した移民改革法が実現すれば、10年間でGDPは3.3%増加すると計算している。移民の増加は人口の増加、消費の増加、労働需要の増加と波及して、10年間で600万人の雇用が創出される。

8.最低賃金の引き上げ

現在、議会には民主党のパティ・マリー上院議員が議会に「賃金引上げ法案(Raise Wage Act)」を提出している。同法には連邦最低賃金を時給7.25ドルから12ドルに引き上げる条文とインフレ上昇に伴って最低賃金を引き上げる条文が含まれている。こうした動きに加え、サンダース候補の強力な要請で民主党の政策綱領の中に連邦最低賃金を15ドルに引き上げる案が盛り込まれている。政策綱領には「現在の最低賃金は飢餓賃金であり、生活できる賃金まで引き上げる必要がある。アメリカの労働者は少なくとも時給15ドルを得るべきであり、組合に加盟する権利を持っている。私たちは、連邦最低賃金を時給15ドルに引き上げるべきである」と書かれている。クリントン候補も同様に時給15ドルの実現を主張している。

アメリカでは、既にカリフォルニア州やニューヨーク州で州の州最低賃金を15ドルに引き上げるところが出てきている。クリントン政権が成立したら最低賃金引上げ問題は大きな政治問題になることは間違いない。共和党や保守派の経済学者は、最低賃金制の引き上げは企業収益を悪化させ、逆に失業を増やすことになると主張している。簡単に議会で法案が通るとは思われない。この政策はサンダース上院議員やウォーレン上院議員など党内左派が積極的に推し進めており、クリントン候補は議会で共和党の反対を押し切って実現できるかどうか大いに疑問視される。

9.富裕層と企業に対する増税政策

インフラ投資をし、教育費の負担を軽減するなどの積極的な政策を実現するためには資金が必要である。そのための租税収入を増やす必要がある。富裕層に対する課税は税収確保だけでなく、貧富の格差を解消するためにも必要である。ではクリントン候補は租税政策をどう考えているのか。先の『ワシントン・ポスト』紙のインタビューの中で、租税政策に関して、次のように語っている。

「私はバフェット・ルール(注:“バフェット・ルール”とは大富豪のウォーレン・バフェットが主張した案で、年収100万ドルを超える層の所得税率を30%に引き上げるというものである)の適用を考えている。すなわち所得税に最低30%の税率を設定し、さらに500万ドルを超える所得層に対して4%の追加税率(surcharge)を課す(クリントン候補はこれを”Fair Share Surcharge「公平な負担のための追加税率」と呼んでいる。高額所得層に対する追加税は所得の額に応じて引き上げられることになる)。さらに最もお金を必要とする人には減税措置を講ずる。また年収25万ドル以下の所得層には増税とならないようにする」と語っている。クリントン候補は高額所得者に対する課税強化を訴えているのに対してトランプ候補は富裕層に対する減税を主張している。これは伝統的な共和党の税制政策である。

また所得税率の引き上げに加えて、福祉事業などに寄付すると“税額控除”を受けることができるが、これに対しても控除の上限を28%とすると提案している。株式投資で得る売買利益であるキャピタル・ゲイン税の引き上げも提案している。現在の制度でも株式の保有期間で税率は異なっている。1年未満の税率は43.4%だが、1年以上の場合、期間に関係なく23.8%の税金がかけられる。これに対してクリントン案は、1年は現行と同率だが、2年保有の税率は43.3%、2~3年保有の税率は39.8%、3~4年保有では35.8%の税率が課されることになる。この狙いは、短期投資な投資は投機を目的するものであるとの判断があると思われる。退職年金勘定についても残高が巨額になっている場合、税優遇措置を廃止するとしている。

企業の利益の増加、労働者の賃金の低下という現実に対応するために、クリントン候補は法人税に関しては企業と労働者の「利益シェア(profit-sharing plan)」を導入する企業に対して減税を行うとしている。逆に生産を海外に移転する企業に対しては課税強化を訴えている。やや専門的だが、ヘッジファンドのマネジャーが資金運用で得る成功報酬(英語で”carried interest”と呼ばれる)に通常の所得と同じ税率を課すことを提案している。海外で得た利益を本国に送金しない場合、その利益に対しても課税するとしている(英語では”exit tax”と表現されている。通常、”exit tax”は資産家などが海外に移住して課税を逃れようとする場合に持ち出す資産にかかる税金のことである)。また金融機関のリスクを軽減するために頻繁に行う取引に対する課税(tax on high-frequency trading)や、大手金融機関に対する“リスク手数料(risk fee)を課す案も含まれている。相続税・贈与税(estate tax)も額が350万ドル(夫婦で70万ドル)を越えた場合、45%の最高税率を課すことを提案している。

ムーディーズ(Moody’s Analytics)は、こうした諸々の増税措置で今後10年間に1兆4600億ドルの税収増が見込まれると計算している。そして「クリントン候補の税制に関する提案によって、アメリカ経済は強くなるだろう」と評価している。

もちろん、この政策を実現するためには、クリントン候補が当選しなければならない。また当選しても、議会による法案の承認が必要である。ただ、どの程度の現実性があるかどうかは別にして、クリントン候補が考える社会のイメージが、この政策の中に反映していることは間違いない。

ジャーナリスト

1971年国際基督教大学卒業、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)、東洋経済新報社編集委員を経て、フリー・ジャーナリスト。アメリカの政治、経済、文化問題について執筆。80~81年のフルブライト・ジャーナリスト。ハーバード大学ケネディ政治大学院研究員、ハワイの東西センター・ジェファーソン・フェロー、ワシントン大学(セントルイス)客員教授。東洋英和女学院大教授、同副学長を経て現職。国際基督教大、日本女子大、武蔵大、成蹊大非常勤講師。アメリカ政治思想、日米経済論、マクロ経済、金融論を担当。著書に『アメリカ保守革命』(中央公論新社)など。contact:nakaoka@pep.ne.jp

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