Yahoo!ニュース

コンフェデ杯敗退は、ザッケローニの無策と臭い物に蓋をするメディアに責任がある

中山淳サッカージャーナリスト/フットボールライフ・ゼロ発行人

確かに、スタンドを埋めていたブラジル人たちも大喜びだった。

我らがセレソン(ブラジル代表)の試合でもないのに、わざわざ市街地から20キロ以上も離れた森林の中にあるスタジアムに足を運んだのだから、4-3というシーソーゲームの価値はプラスアルファのスペクタクルがあったに違いない。

しかし、日本はブラジル人と同じように喜んでいてはいけないはずだ。

間違っても、イタリア相手に善戦、健闘したなどと思ってはいけない。その時点で、今後の伸びしろは失われてしまう。

客観的に言えば、突き付けられた現実は極めて厳しいものだった。

公式大会で2連敗し、グループリーグ敗退が決定した。それが、今回のコンフェデレーションズカップで残された現実だ。

問題視すべきは、ザッケローニ監督の無策ぶり

にもかかわらず、イタリア戦後の記者会見で、ザッケローニ監督の口からグループリーグ敗退という結果に対する反省の弁を聞くことはなかった。

いや、それどころか、聞き方によってはこの試合に満足しているようなコメントが多かったことに失望せざるを得ない。

「今大会は我々にとって、非常に有益だった。コンフェデレーションズカップは国際経験を積める場所であり、これまでの国際経験の差がこの結果だと思う。しかし、今日の試合を見れば、決してイタリアに負けているとは思わない」

この一言だけを取り上げてどうこう言うつもりはないが、少なくとも、このイタリア戦の指揮官の采配には、結果に対するこだわりが、少しもうかがえなかった。

たとえば、前半2-0となった時点で、イタリアのプランデッリ監督はすかさず動きの鈍いアクイラーニを下げて、前線で起点を作るためにテクニックのあるジョビンコを投入し、日本の勢いを食い止めにかかった。

それがデ・ロッシのゴールにそのままつながったわけではなかったが、初戦のメキシコ戦とは別モノのように低調なチームに対して、出来うる対処策を素早く打つことができていた。

さらに、後半立ち上がりで逆転に成功した後は、香川を自由にさせていたマッジョを下げて、アバーテを送り込み、日本の左サイド攻撃に対する処置を施し、守備の再調整を図っている。

対して、ザッケローニは無策だった。

ブラジル戦もそうだったが、ピッチで起こっている現象に対する処置があまりにも無さすぎる。これは選手交代に限ったことではないが、それはまさに選手任せとしか思えないようなベンチワークである。

3-3となった後に、内田に代えて酒井宏樹を投入する意味は何だったのか? そのベンチの意図を感じ取れた選手は本当にいたのか?

中村よりも先にハーフナーを入れる意味は何だったのか? アディショナルタイムにパサーを投入する意図は?

このような場面で、仮にグループリーグ突破に可能性を残すために勝ち点1を取りに行こうとすれば、少なくとも中村ではなかったはずだ。

逆に、勝ち点3にこだわりたかったのであれば、少なくともハーフナーよりも先に中村を投入すべきだった。

それとも、そもそもザッケローニはグループリーグがザロサムゲームであることを忘れてしまっていたのだろうか?

忘れてはいけないのは、コンフェデレーションズカップはワールドカップ同様にグループリーグ3試合の短期決戦がすべてを決する大会だ。

そこで失敗すれば、決勝トーナメントの可能性は消え、成功すればトーナメントで上を目指す権利を手に入れられるという大会である。

しかも、このイタリア戦は、相手が自滅してくれたラッキーチャンスだった。

にもかかわらず、勝つためのゲームプランが“真っ向勝負”という1通りのプランしか用意されていなかったこと自体が大問題だった。

リードした時、リードされた時、あるいはその時間帯によって打つべき手は、こういった大会で勝ち抜くために必ず数パターン用意していなければいけないはずである。

だから今大会がワールドカップのシミュレーションだとすると、あまりにもザッケローニは無策だったと言わざるを得ないのだ。

臭い物には蓋をする日本のメディア体質の責任は重い

結局、相手の自滅に付き合い、自らがそれ以上の自滅をして勝てるゲームをみすみす逃した、というのがイタリア戦の日本だった。

確かにテンポよくパスもつながったし、久しぶりにゴールの匂いを感じさせるチャンスも作ることが出来ていたが、それだけを切り取って称賛するわけにはいかない。

それが、90分のスコアで勝敗が決まるサッカーというスポーツである。

しかも、冷静に振り返れば、日本のゴールは自分たちが思い描いているゴールではなく、あくまでも相手のミスから生まれたものだったし、理想的な攻撃から狙ったシュートはいずれもネットを揺らすには至らなかったという課題は残されたままだ。

また、仮にメキシコ戦と同じ出来のイタリアが相手だったとしたら、この試合と同じように戦えたのかどうかという疑問も考える必要がある。

イタリアという国の歴史からすれば、このような試合は負けてしまうのが通常だ。その試合を落としてしまったことを、もっと日本は真摯に受け止める必要があるだろう。

その国のサッカーのレベルを上げるには、現場だけの力では限界がある。

多くの強豪国が例外なくそうであるように、サッカーを取り巻く環境、とりわけ観戦者である国民と、その国民に伝える役割のメディアの影響力は重要な要素だ。

しかし、きっと多くのメディアでは、イタリア戦を大健闘として紹介し、臭い物には蓋をしてポジティブな部分だけを切り取って国民に伝えることだろう。

まるで幸運なPKにより1-1で終えたオーストラリア戦のように……。あの時、0-0の状況で栗原を投入して失点したことを、敢えて取り上げるメディアは皆無に等しかった。

だから、歴史は繰り返すのだと思う。

あそこでメディアが臭い物に蓋をしなければ、国民に現実を伝えていれば、もしかしたらザッケローニのコンフェデレーションズカップの采配も多少は違ったものになった可能性だってあるのだ。

イタリア戦の後、ほとんどの選手はショックを受けて、負けたことに悔しさをにじませていた。

「でも、この試合で世界との距離が縮まったんじゃないですか?」

ある記者のそんな問いに対しても、今野は一言でそれを打ち消していた。

「いや、でも1試合だけで縮まったとか広がったとか言えるものじゃないですから。今日は勝てる試合を自分たちのミスで落としてしまった。それだけです。だから悔しいっす」

せっかく選手が自覚しているのだから、メディアもファンも、今回の敗戦を称賛することだけは控えた方がいい。

それが、結果的にこの国のサッカーのレベルを上げることに直結するのである。

サッカージャーナリスト/フットボールライフ・ゼロ発行人

1970年生まれ、山梨県甲府市出身。明治学院大学国際学部卒業後、「ワールドサッカーグラフィック」誌編集部に入り、編集長を経て2005年に独立。紙・WEB媒体に寄稿する他、CS放送のサッカー番組に出演する。雑誌、書籍、WEBなどを制作する有限会社アルマンド代表。同社が発行する「フットボールライフ・ゼロ」の編集発行人でもある。

中山淳の最近の記事