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「メスを入れる」だけじゃ切れない 外科医の本音

中山祐次郎外科医師・医学博士・作家
最近は、手術で使うメスは使い捨てのものがほとんど(写真:アフロ)

「メスを入れる」という表現。これは「明らかになっていないが、暴かれて根本的に解決されるべき状況を打開するための策を講じる」といった意味の慣用句として、ニュースなどでかなり頻繁に使われています。ところがこの言い方は、外科医にとってはかなり違和感がある表現なのです。その理由を、外科医として日々手術を執刀している立場の筆者がお話しましょう。特に勉強にはなりませんので、日曜午後の思索のお供に、勉強の合間に、休日出勤の一休みにどうぞ。

メスには「背番号」がある

今でも私はほぼ毎日、手術室で「メス」と言っています。手術が始まる時、「直接介助(ちょくせつかいじょ)」のナース、通称「器械(きかい)出し」の看護師さんに言います。そしてこの記事の画像のメスを受け取ります。細かいことを言うと写真のメスは尖刃(せんじん)と呼ばれる先の尖ったメスで、私が主に使うのは円刃(えんじん)と言われる切る部分が緩やかなカーブを描いたメスです。尖刃は主に小さなキズをつけるときに、円刃は大きなキズをつけるときに使います。大きさもさまざまで、それらを識別するために「10番」「11番」などと番号で呼んでいるのです。まるで背番号みたいですね。

「メス」は英語でもドイツ語でもなく、意外な国の言葉だった

この「メス」という言葉は、当たり前ですが日本語ではありません。外来語なのですが、実は英語でもないのです。英語ではscalpel(スカルペル)と言います。私が以前、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の関連病院であるVA medical center, West Los Angelesという病院に手術見学に行った時、外科医は「Can I have a scalpel?」と言っていたように記憶しています。

よく日本の医学はドイツからのもので、医者はドイツ語を話すと思われているようですが、半分はあっています。実際に外科医が使う単語にはドイツ語が多く、「essen」(食べる)や「karte」(カルテ)あたりは有名なところです。ま、医者が使うドイツ語は和製ドイツ語が多く怪しいのですが。

しかし「メス」はドイツ語でもありません。実は、オランダ語なのです。オランダ語と医学といえば、「解体新書」という本が有名ですね。今から約240年前に、まだオランダ語の辞書も無かったころに翻訳をして出版した、「解剖学」の教科書です。その内容は驚くべき正確さで、この本が翻訳された時に「神経」とか「門脈」という単語が作られたと言われています。もしかすると、この頃の「蘭学ブーム」の一部で外科学も入ってきた時に「メス」も輸入したのかもしれませんね。これは医師や看護師もあまり知らない事実なんですよ。

なぜ「メスを入れる」だけじゃ切れないのか?

語源はともかく、ではなぜ「メスを入れる」だけでは切れないのでしょうか?

これをごく正確に言えば、「メスを入れるだけでは、表面は切れるが中のほうまで切って分け入ることは出来ない」となります。

これはあまり知られていませんが、実はほとんどの手術において、メスは人間の皮膚を切るだけのための道具なのです。メスというものは、先にとても薄い包丁の刃のようなものがついていて、かなり研がれていてとても鋭利になっています。ですから、例えばちょっと指で触るだけでも切れて血が出てしまうほどです。ですから、硬く丈夫な人間の皮膚をさっと切るのにはとても使いやすい。しかし、メスという道具は小さいため、基本的に体の中の奥のほうを切ることには敵していません。また、メスで切るためには切られるもの(臓器であったり脂肪であったり)に適切な緊張がかかっていないと切れないのです。このあたりはメスはカッターと似ています。カッターで紙を切る時は、紙を二つに折ってその谷間にカッターを入れるか、平らなところにおいてちょっと押し付けながら切りますよね。折って谷間に入れるということは、両側から引っ張っていることと同じ。平らなところで押し付け切りは、やっぱり両側からピンと張って切っているのと同じことです。

手術中は、体の中というのはそれほど広くなくて自由がきくわけじゃありませんから、そんなにうまいことピンと張れないのです。だから、メスを入れるだけでは切れません。

また、体の中のほうでメスが使われないのは、「出血をさせないため」という理由もあります。ちなみに体の中のほうを切る時には、多くの手術では「電気メス」というものが使われています。これは電気で凝固させながら切るため、出血が減って切りやすいのです。メスはただの刃物ですから、切った分だけ血が出ます。血で真っ赤になるとどこを切っていいかわからなくなり、手術が進みませんから良くありませんし、出血量が増えると患者さんの負担にもなります。

ですから、私が手術中にメスを使うのは一度きり。「一番はじめに皮膚を切る時に使うだけ」です。そういう手術が増えています。

まとめ

つまり以上をまとめると、外科医からすると「メスを入れる」=「表面をさっと切る」というイメージになります。もちろん慣用句ですから、正しいとか間違っているとかそういう話ではないのですが、ともかく現代の外科医はこんなことを考えているのです。ちょっとした雑学でした。

※本記事内での「手術」は主に胸部・腹部の手術をイメージしております。筆者が消化器外科医だからです。その他の外科の領域の医師の先生方、「何言ってるんだ全然違うよ、メスで全部やってるよ」というご意見などありましたらお寄せください。

外科医師・医学博士・作家

外科医・作家。湘南医療大学保健医療学部臨床教授。公衆衛生学修士、医学博士。1980年生。聖光学院中・高卒後2浪を経て、鹿児島大学医学部卒。都立駒込病院で研修後、大腸外科医師として計10年勤務。2017年2月から福島県高野病院院長、総合南東北病院外科医長、2021年10月から神奈川県茅ヶ崎市の湘南東部総合病院で手術の日々を送る。資格は消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医(大腸)、外科専門医など。モットーは「いつ死んでも後悔するように生きる」。著書は「医者の本音」、小説「泣くな研修医」シリーズなど。Yahoo!ニュース個人では計4回のMost Valuable Article賞を受賞。

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