BS12で無料放送中。ショーケンと水谷豊が共演した『傷だらけの天使』は今も色あせない永遠の問題作だ。
2月7日から、BS12で伝説のドラマ『傷だらけの天使』(以下、『傷天』)の再放送が火~金の夜9時から放送されていて、毎日楽しんでいる。
ショーケンこと萩原健一と水谷豊の若き日の代表作として知られるテレビドラマの古典とも言える作品だが、何度見ても新たな発見のある問題作でもある。
とは言え、1974~75年にかけて放送された作品なので、名前は知っているが、どんな内容なのか知らないという若い人も多いのではないかと思う。
今までにもCS等で定期的に再放送されてきたが、今回はBS12という無料で観ることができるBS番組での放送なので、昔見た人はもちろんのこと、一度も見たこともない若い人も含めて、できるだけ多くの人々に見てもらいたいため、あえて紹介したいと思う。
尚、番組の視聴方法は、BS12のホームページで確認することができる。
http://www.twellv.co.jp/index.html
バディモノの傑作『傷だらけの天使』とは?
『傷天』はいわゆるバディモノ、事件モノと言われるジャンルの一話完結ドラマだ。
主人公は小暮修(萩原健一)と乾亨(水谷豊)という20代の青年。
二人は綾部貴子(岸田今日子)が経営する綾部情報社の調査員だ。
学歴がなく貧乏で仕事がないので、毎回、会社からの依頼で様々な事件に挑むのだが、依頼内容の裏には大体、別の事情があり、それを知った修が上司にあたる辰巳五郎(岸田森)と対立し、物語は毎回、思いもよらない方に向かっていく。
大野克之が作曲し、井上堯之バンドが演奏した軽快で哀愁のある音楽、菊池武夫のDCブランド・GIGI協力の衣装など、あえて時代遅れ感を押し出したビジュアルや音楽は、今もまったく色あせていない。
萩原健一の自叙伝「ショーケン」(講談社)によると、中心となるキャラクターや設定は脚本家の市川森一とプロデューサーの清水欣也とショーケンの三人で作っていったという。
ストーリーだけ抜き出すと、ごちゃごちゃしていて、見終わった後で「一体、何が言いたい話だったんだ?」と思うようなエピソードも多い。
これは、スケジュールがギリギリで低予算の中で、ショーケンが台詞を書き足し、現場でも役者や監督がどんどん脚本を変えていったからだが、おそらく本作の魅力はストーリーよりも、亨の「アニキィ~」という呼びかけに象徴されるショーケンと水谷豊の掛け合いや、荒々しい映像がもたらす演技の迫力にあるのではないかと思う。
深作欣二、工藤栄一、恩地日出夫、神代辰巳といった名立たる映画監督が参加しているため映画的な作品とも言えるが、最終的に一番印象に残るのはショーケンが演じる修という人間の魅力なのが、本作の面白いところで、やはり俳優の魅力が全面に打ち出されたドラマだと感じる。
祭りの時間、青春ドラマとしての『傷天』
全体を通してのストーリー性は薄く、主人公はまったく成長しないのだが、キャラクターの魅力と世界観のディテールはどんどん深まっていく。
話が進むにつれ、修には「高倉健と菅原文太の名前から一文字ずつとった健太という子どもがいる」ということや、ショーケンが「たまらん節」という歌を即興で歌うことで、各キャラクターの細かい設定が増えていく。
それらの多くは現場のノリで生まれたものだが、そういったキャラクターの設定が台詞の節々から出てくるごとに、修たちの実在感はどんどん増していくのだ。
修と亨は、綾部から依頼された仕事を解決していくが、本人たちはその日暮らしの貧乏なままで、ダラダラとした日々を延々と繰り返している。
この、同じところをぐるぐる回っている感じが、モラトリアムの楽しい時間にも見える。屋上にあるペントハウスで暮らす修の姿をみて、あんな暮しをしたいと思った人も多かったのではないかと思う。
最終話のタイトルは「祭りのあとにさすらいの日々を」だが、『傷天』自体が、期間限定の「祭り」だったのではないかと思う。その意味で本作は、優れた青春ドラマでもある。
母にして悪女・綾部貴子に翻弄され続ける男たち。
結局、突き詰めていくと『傷天』の中心にあるのは、修、亨、辰巳の三人と、母であり悪女である綾部貴子という4人のキャラクターの魅力なのだが、本作を振り返る時に画期的だったと思うのは綾部という女性ボスの存在だということだろう。
市川森一が書いたエピソードは母が息子を捨てるというモチーフか、男が恋人を捨てるというモチーフが多い。
「ショーケン」を読んでいると萩原健一の人生が母親と恋人に対する記述が多いことに改めて驚くのだが、二人の女性観、特に母親に対するアンビバレントな感情が、『傷天』の言動力となっている。
後世の作品への影響。
最近では羽海野チカの漫画をアニメ化した『3月のライオン』(NHK)で『傷天』オープニングのパロディがおこなわれたことが話題となったが、本作が後世の作品に与えた影響は大きい。
一番有名なのは松田優作が主演を務めた1979~80年の『探偵物語』だろう。
2000年の『池袋ウエストゲートパーク』(TBS系)、2013年の『まほろ駅前番外地』(テレビ東京系)など、近年の作品にも、その影響は生き続けている。
いわゆるアウトロー風の若者が主人公の事件モノを作る際に『傷天』はその元型となっているのだが、これらの作品が面白いのは、同じような設定でも、作られた時代背景が違うため、ちゃんと別の話になっているということだ。
逆に、名前はあえて出さないが、『傷天』にある70年代の空気を再現しようとした作品は、大体、残念な仕上がりになっている。
時代を代表する問題作でありながら、今も古びない理由。
おそらく、未見の若い方が『傷天』を敬遠する理由があるとすれば、あまりにも評価が高すぎることと、1970年代という時代の空気が作品の中に充満しているように見えて、暑苦しくて説教臭い作品なのではないかと、勘違いしてしまうからではないかと思う。
確かに『傷天』は70年代の空気を背負った作品だが、一方で当時の若者向け作品にあるような、反権力的なカウンターカルチャー志向とは、どこか一線を画しているようにみえる。
結論から言うと、ショーケンの野蛮な肉体性が、作品のテーマや物語を食い破ってしまうからという役者の話に集約されてしまうのだが、同時に思うのは修や亨はアウトローではあるが、それは単純に学歴がなくて貧乏だからであって、そこに美学のようなものは見出していないことが一番大きいのではないかと思う。
何かあると修たちは、簡単に金と女に転び、平気で仲間を裏切ろうともする。そのくせ、本当の悪党には成りきれずに、情にほだされてケンカに加勢しては逆にボコボコにされたりと、実に中途半端で見苦しい。
そこにはダンディズムの欠片もなく、ひたすら暑苦しくてみっともないのだが、その人間臭さが、逆にカッコよく見えてくるのだから実に不思議である。
ショーケンと松田優作 生きることへの執着
この見苦しさの根底にあるのは「何がなんでも生きのびたい」という激しい生命力だろう。その意味で昭和の終わりとともに亡くなったことで神格化された松田優作とは真逆である。ショーケンと松田優作の違い、『傷天』と『探偵物語』の違いについては、別の機会に改めて考えたいが、この二人(あるいは二作)を比較した時に大きく違うのは、一方が生きることに対して見苦しいまでに執着し、一方はある種、死すらいとわない美学へと向かったことだろう。
その結果、松田優作と『探偵物語』は昭和のレジェンドとして年々、神格化されているが、ショーケンと『傷天』はどこか死にぞこなってしまったような印象がある。
2004年の恐喝事件以降、若い時に応援していたファンの中には現在のショーケンに対して歯がゆい気持ちでいるのかもしれない。しかし、見苦しい姿をさらしながらも、今も生き続けているショーケンが私は好きだ。
それは『傷天』に対しても同様で、もしもあの作品が、負け犬の美学と甘美な死を追及していたら、時代とともに忘れ去られていただろう。
ショーケンの生き様と『傷天』に込められた、生きることに対するギラギラとした意思。それは時代を超えた普遍的な感情として、今の若者にも響くのではないかと思う。