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日本、片目つぶりのpm2.5批判

にしゃんた社会学者/タレント
飲食店・サービス業界のpm2.5[分煙」意味なし(出所:日本禁煙学界)

中国で深刻な大気汚染をもたらしているpm2.5。関連ニュースが日本でも見聞きするようになった。人、物、金が国境を超える今をグローバル時代と言うが、その点、空気は最初からグローバル化している。こればかりは、国境線に塀を建てても防ぎようもない。いつしか、日本にとっての中国による大気汚染問題は、黄砂よりも、pm2.5に摩り替わった。

日本が注意喚起のための暫定指定値として定めている、70マイクログラム立方メートルを超える市町村が次から次に現れた。行政のpm2.5対策は見事なまでに素早く、中央と地方行政および社会機関との連携も見事である。値が高いため屋外に出さず、室内で子どもを待機させる学校なども登場した。機敏で几帳面でそして命・身体の健康を一番大切に考える日本人の国民性がうかがえる。

pm2.5は特に、呼吸器系や循環器系の疾患を持つ子どもや高齢者が影響を受けやすいとされ、日本全域で、濃度の高い地域では「屋外での激しい運動を控えることや、外出時はマスクを着用することを対策として呼びかけている。300マイクログラムを越えたpm2.5を吸うことを余儀なくされている中国国内に住む民衆は、我々と同じ人間だと考えるといたたまれなくなる。

pm2.5被害に関して、日本のメディアと比べて、日本政府から中国への表立った働きかけは見当たらない。相手に求められなくても、人さまに迷惑をかけたならば自ら進んで謝罪するのは人間としてあるべき姿勢だが、「日本自身の大気汚染が原因で、中国のせいではない」と中国環境保護部が言うようでは聞いているこっちまでも情けなくなる。

しかし、日本国内のpm2.5の被害の責任を、全て中国になすりつけたら道理に背いていることになる。私たちの最も身近なpm2.5問題の犯人は煙草である。日本禁煙学会が、昨年からはじまった、中国からのpm2.5の飛来のニュースを受けて、「日本では受動禁煙が最大のpm2.5問題であると」明言した。

つまり写真のように節操のない喫煙放置国家日本の日常において、北京よりもはるかにpm2.5の被害をうけていることである。日本の行政は国内に蔓延している煙草によるpm2.5に関する調査はしていない。または調査はしたことがあっても結果を明らかにしていない。

イスラム国家や仏教などの宗教が根付いたアジアのほとんどの国では、煙草を禁じている法律、規律や道徳が存在している。例えは、母国スリランカの路上での喫煙は、給料の半分ほどを罰金でとられ、おまけにパトカーに乗せられ連行される。スリランカは、外国人に甘いことを逆手に取り、現地の文化に合わせることもなくそこら中で煙草をふかす日本人も少なくない。

スリランカの子どもは、ほとんどが受動喫煙ゼロのまま成人する。その点、日本の子どもはいかがでしょうか。日本ではどこでも煙草を吸える。道を歩いていても、学校へ行く途中も、店に入っても、親が喫煙者なら車の中でも煙を吸わされる。子どもに対する虐待であるとの人権認識が日本社会にはまるでない。もちろん、取り締まる法律もなければ、道徳心もない。それどころか、現在まで職場などにおける受動喫煙防止対策「義務」を「努力」に後退させる労働安全衛生法改正案を今国会に提出される。

pm2.5に関しての日本人はダブルスタンダードもいいところである。つまり、中国から飛んでくるpm2.5はけしからんが、日本国内で作り出し吸わせるなら問題ないという、なんともおかしな論法を展開している。こんな国内事情では中国を攻める資格は日本人にはあるはずもない。

子育て中の親にしてみれば、わが子の体内に入れてしまうものが有害物質pm2.5である以上、中国から飛んできたものであれ、日本の煙草からのものであれ同じである。日本の児童公園は、ほぼ100%が子どもの遊び場と同時に大人の喫煙所として仲よく分かち合っている。こんなおかしな風景は世界でも珍しい。少なくとも先進国ではまずない。

日本は道路は狭く、車道と歩道と店前が数十センチしか離れていないことが多い。そんな中、私有地なら大丈夫ということで、そこら中に灰皿が置いて煙草を吸わせている。店に入りたければ、煙の洗礼を必ず受けることになっているのはもちろんだが、歩道を歩いても十分受動喫煙の被害を受ける。特に急激に増えたコンビニには、ほぼ全ての店前に灰皿が設置してある。

煙草の煙が縦にしか流れないのであれば、私有地でも問題ないが、最も大きな問題は煙は横に広がるのだということの認識が政策を作る人間に欠落していることである。吸う権利はあるにせよ、pm2.5(煙)を吸わせる権利やpm2.5(煙)の共有を強要する権利は誰にもないはずだ。

行政もけしからんが、禁止する法律がないことを良いことに、どこででも喫煙できる権利があると開き直り主張する日本人が多い。あるいは税金を払っていると開き直る日本人が多い。彼らの言動は、「自分さえよければ他人の命に害を与えても関係ないさ」、そして「命よりも金の方が上だろう!」をモットーにして生きているということを自ら表明し恥をさらしているに過ぎない。周囲を構わず煙草を吹かしながら「中国からのpm2.5被害」を熱く批判する日本人がいることが一層おかしい。

日本は公共の場所なども含め、受動喫煙を伴う喫煙を「マナー(違反)」として扱っている。ただし日本の煙草生産者こそが自ら喫煙をマナーとして位置づけ宣伝していることを見落としてはならない。ましてや、煙草を商売にしている会社が禁煙されては困る以上、禁煙という言葉を用いるはずがない。マナーというファジーな言葉を用いて、そこら中に自ら灰皿を配布し、設置を促している。その数は増える一方である。そして一般の民衆も生産者の巧みな宣伝によって、煙草の煙はマナーだと刷り込まれ、無知にされている。

受動喫煙はマナーの問題では決してない。吸殻のポイ捨てと同じ次元で扱ってはならない。受動喫煙は、立派な加害行為であり、立派な暴力行為であり、立派な人権侵害である。子どもに煙を吸わせることは言わずして児童虐待'である。

日本憲法第二十五条において「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と書かれている。「最低限度の生活を営む権利」として「国民がきれいな空気を吸う権利を有し、それを国家として保証する」ことより先にくる権利はありましょうか。

幸福追求権として喫煙を主張する者がいる。おそらく憲法十三条を盾にしようと思っていると思われるが、是非彼らには、十三条の全文を読んでもらいたい。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」となっているのである。

文言として入っている「公共の福祉に反しない限り」を見落としてはなるまい。この国の大多数は非喫煙者であることや、受動喫煙に伴う健康被害の実態を考えると「公共の福祉に反している」ということが明確である。

受動喫煙は日本国憲法にまで違反しているのではないか。

さらには、金(税収)に免じて、企業の肩をもち自ら国民に有害な空気を吸わし、身体を蝕もうとも国民に我慢を強いる、助長罪を日本国政府が自ら担っている。これは紛れもない日本の現実である。

力をもたない日本の子どもと中国の民衆が大企業や政治の力学に翻弄され体を蝕まれている点、同じ被害者である。現状、日本に残されている選択肢は明らかである。

一つは、我々の周りにある有害物質pm2.5の全ての出所を明確にし、先延ばしせず速やかに対策を講じること。中国に対してもしっかり抗議をし、日本国民の生命を守り、中国の民衆を救うために出来ることがあれば進んで行う。むろん中国から飛んでくるpm2.5より遥か以前から、日本国内で煙草によるpm2.5の被害があったのだから、筋を通すなら受動禁煙対策の徹底が最優先である。国境を超えて飛んでくるpm2.5を直ぐに止められなくても、その気あれば、身近で作り出されるpm2.5被害を直ち止められる。

もう一つは、日本国内の煙草などによるpm2.5の被害に対して、中国からのpm2.5と同等の責任を追及し、対策を講じる気がなければ、直ちに中国を攻めることを止める。そして中国からのpm2.5は、日本国民が日常的に慣れ親しんでいる煙草の煙のようなものだからとなだめ、必要なくなるので、日本が設けているpm2.5の注意喚起値などを廃止する。これで日本の子どもはもちろん私たち皆がめんどくさい対策からも解放されて思う存分pm2.5を吸い込みながら生活することが出来る。

さて日本の私たち、どっちを選びましょうか!?

社会学者/タレント

羽衣国際大学 教授。博士(経済学)イギリス連邦の自治領セイロン生まれ。高校生の時に渡日、日本国籍を取得。スリランカ人、教授、タレント、随筆家、落語家、空手家、講演家、子育て父などの顔をもっており、多方面で活動中。「Mr.ダイバーシティ」などと言われることも。現在は主に、大学教授傍ら、メディア出演や講演活動を行う。テレビ•ラジオは情報番組のコメンテーターからバラエティまで幅広く、講演家として全国各地で「違いを楽しみ、力に変える」(多様性と包摂)をテーマとする ダイバーシティ スピーカー (多様性の語り部)として活躍。ボランティアで献血推進活動に積極的である。

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