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関東大震災の迫りくる炎の中で気象観測

饒村曜気象予報士
日本近海のプレート

大正12年(1923年)9月1日11時58分に相模湾北部で発生したマグニチュード7.9の地震は、昼食時であったために、家屋の倒壊などで多数の場所から出火し、火災による被害がきわだっていました。この大災害は関東大震災と呼ばれ、死者の約90%が焼死者であったといわれています。

強風の原因は日本海にあった台風

図1 神戸の海洋気象台が大正12年9月1日に作成した6時の地上天気図
図1 神戸の海洋気象台が大正12年9月1日に作成した6時の地上天気図

大正12年9月1日の天気図をみると、岐阜県北部(能登半島の南)に中心気圧が997ヘクトパスカル(当時の気圧の単位では、水銀柱748ミリ)の台風があり、関東地方では等圧線の混みぐあいから、毎秒10メートル以上という強風が吹いていることを示しています。この台風は、8月27日に沖縄本島と石垣島の間の海域で確認され、30日夜に九州南部に上陸、瀬戸内海を通ってきたもので、9月2日には北海道東部に達しています。台風の進行に伴って風向が変わり、地震によって発生した火災は、最初は南風にのって北に広がりましたが、のちの北風によって延焼域の広がりが止まっています。この風向の変化により、危うく火災から逃れた地域がでています。中央気象台(現在の気象庁)も、大半が焼けたとはいえ、風向が変わったことにより、気象観測を行う測風塔などが焼け残っています。

図2 関東大震災での東京市区部の火災
図2 関東大震災での東京市区部の火災

火災は宮城の東にあった中央気象台まで延焼

関東大震災当時、中央気象台(現在の気象庁)は、宮城(皇居)の中から宮城の東に移転したばかりでした。関東大震災による火災は、図2のように、東京の下町を焼き尽くし、中央気象台の近くまで燃え広がりました。中央気象台は、測風塔などの一部を残して焼けましたが、焼け残った測風塔では、あの混乱の中でも1時間毎の観測がきちんと行なわれ、その記録が残っています。

東京で公認されない最高気温45.2度

気象官署での日最高気温は、平成25年(2013年)8月12日に高知県の江川崎で観測した41.0度ですが、大正12年9月2日の東京では、表のように、45.2度を観測しています。これは、大火災による特殊事情下の観測ですので、公式の統計記録には入っていません。公認されていませんが、その時の気象観測は事実であり、貴重な記録です。観測当番にあたっていた三浦榮五郎は、のちに富山県の伏木測候所長となっていますが、叩き上げの観測者としては、当時とは珍しい抜擢人事でした。関東大震災時での気象観測の継続を評価してのことと言われています。

表 東京における気象観測記録(大正12年9月1~2日)
表 東京における気象観測記録(大正12年9月1~2日)

気象観測はできるだけ同じ条件で

関東大震災のときの東京の観測値は稀有の例ですが、できるだけ同じ条件で気象観測を行い、その成果を積み重ねるということは、過去の観測値と比較を行ううえで重要なことです。気象庁では、同じ条件で観測が行われていない場合は、その観測値を省いたり、系統的な誤差がある場合は、観測値を補正したりして平年値等を求め、利用者に提供しています。

図1、表の出典:饒村曜(1996)、防災担当者の見た 阪神・淡路大震災、日本気象協会。

図2の出典:饒村曜(2012)、東日本大震災 日本を襲う地震と津波の真相、近代消防社。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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