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初代南極観測船「宗谷」のミッドウェー海戦参加時の海上気象観測

饒村曜気象予報士
地球儀、南極(写真:アフロ)

昭和31年11月8日、小雨の降る東京の晴海埠頭を第一次南極観測船「宗谷」が出航しました。乗船していたのは、53名の観測隊に77名の乗組員、そして、のちに越冬して有名となるタローとジローを含む22頭のカラフト犬でした。

敗戦後の日本にとって、まだ知られていないことの多い南極は、魅力的な場所でした。

第一に空腹を癒してくれる鯨の宝庫でした。

この南極で越冬観測をするという夢とロマンにあふれた計画は、全国民的な関心事となり、観測隊に期待が高まっていたなかでの出航だったのですが、この観測船「宗谷」は数奇な運命をたどった船でした。

ソビエトに引き渡す予定の耐氷貨物船

昭和11年12月7日、長崎の河南造船で3隻の耐氷貨物船が同時に起工式を行っています。

昭和7年の満州国建国に際し、ソビエトが支配していた北満鉄道の権益を満州国が買収した時に、その代償の一部として提供するためです。

しかし、この3隻の耐氷貨物船は、完成前にソビエトが権益交渉の不調を理由に一方的な契約解除を申し入れたため、天領丸、民領丸、地領丸と名付けられ、日本で使うことになっています。

太平洋戦争中、民領丸は陸軍に徴用され、昭和19年1月14日にフィリピンのミンドロ島の北海上でアメリカ潜水艦の魚雷攻撃で沈没して8名がなくなっています。

また、天領丸も陸軍に徴用され、昭和20年5月29日に樺太の東海上でアメリカ潜水艦の魚雷攻撃で沈没、乗せていた兵士など856名がなくなっています。

さらに、地領丸は、新しい砕氷艦を必要としていた海軍の目に留まり、昭和15年に海軍が買い取っています。そして、大改造を行い、名前を「宗谷」と変えて測量特務艦としています。これが、初代南極観測船となった「宗谷」です。

ミッドウェー海戦での宗谷は上陸作戦に備えて待機

宗谷は、昭和15年夏に千島列島などの測量を行った後は、南洋方面で海流や気象の調査に専念し、耐氷性能を生かしていません。

これは、当時の日本軍が北方作戦より南方作戦を考えていたためです。

太平洋戦争中の宗谷は、南方への補給船として活動し、ミッドウェー海戦、ガダルカナル作戦といった大きな作戦にも参加しています。

明治23年(1890)からの商船等で観測報告された海上気象観測表約680万通のコレクションは、「神戸コレクション」と呼ばれ、地球温暖化の研究に役立っています。

この神戸コレクションには、日本海軍の艦艇も含まれており、昭和15年から18年までの宗谷の観測が残されています。

ミッドウェー海戦が行われた昭和17年6月5日の宗谷の観測記録(図1)をみると、宗谷はミッドウェーの西海上の東風が強く波が高くて10度以上も揺れるなかで待機し、アメリカ機動部隊の壊滅後に行われる予定のミッドウェー島上陸作戦に備えていました。

しかし、日本は第一機動部隊がアメリカ海軍航空機の奇襲をうけ、空母「赤城」など主力空母4隻などを失って作戦は失敗しています(図2)。このため、宗谷はむなしくポナペ島に向かっています。

図1 宗谷の海上気象報告(昭和17年6月5日)
図1 宗谷の海上気象報告(昭和17年6月5日)
図2 ミッドウェー海戦時の日米両軍の動き(イメージ図)
図2 ミッドウェー海戦時の日米両軍の動き(イメージ図)

その後の宗谷は、ソロモン群島で魚雷にあたったのに不発であったり、トラック島では米軍機の大群の攻撃をさけようとして座礁したものの沈没しなかったりと、僚船がほとんど沈んだ中、結果的に生き残り、運の強い船と言われました。

終戦後は、南洋やソ連、樺太からの引き上げ船として使われ、海上保安庁ができると灯台補給船となって日本各地の灯台をまわっています。

運命が変わった南極観測

宗谷が脚光をあびたのは、南極観測船に選ばれてからです。当時は、南氷洋にゆける可能性のある船は宗谷しかありませんでした。

そこで、宗谷の改造が行われ、約1メートルの氷に対応できる砕氷能力船となっています。

昭和31年11月8日の旅立から5年と6か月、南極観測船として活躍した宗谷は、海上保安庁の警備救難業務をへて、昭和53年3月の退役後は、東京お台場にある船の科学館に係留されています。

そして、栄光の船として保存・公開されています。

日本の割り当ては観測不向きと考えられた場所

国際協力で行う南極観測とはいえ、よりよい成果が期待される場所は、戦勝国で力のある国が独占していました。

敗戦国の日本に割り当てられた場所、それは、観測に不向きと考えられた、南極点から遠く離れた場所、リュツオ・ホルム湾にある東オングル島でした。

そこに昭和基地(図3)が建設されたのです。

図3 昭和基地の位置
図3 昭和基地の位置

しかし、ここは宝の山でした。

南極に落下した隕石が氷河によって流されて、昭和基地近くに集まっていました。また、長期間にわたってオゾン層が観測できたことから、春先にオゾンの量が急激に減る現象(オゾンホールの出現)を発見できました。

南極三大発見と呼ばれるものがあります。

南極隕石の発見、オゾンホールの発見、氷床の下にある2000万年前に閉じ込められたボストーク湖の発見の3つですが、そのうち、最初の2つは日本の成果です。

戦争という不幸な歴史がありましたが、その過程で観測された宗谷の気象観測記録は、人類共通の財産として後世に残されています。また、戦争を生き残った宗谷は、人類共通の財産を作ることに貢献する仕事の礎を作っています。

図1の出典:饒村曜(2010)、海洋気象台と神戸コレクション、成山堂書店。図3の出典:饒村曜(2014)、天気と気象100、オーム社。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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