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真珠湾攻撃時の空母「赤城」における空と海の観測

饒村曜気象予報士
真珠湾攻撃(1941年12月7日)(写真:ロイター/アフロ)

気象庁には、昭和初期から太平洋戦争中に行った高層気象観測をまとめたマイクロフィルムが残っています。

この頃は、高層気象観測が始まったばかりであり、いろいろな現象を解明しようと、高層気象観測資料を特別に集めていたのではないかと思います。それが、戦後になり、多くのデータと一緒にマイクロフィルムという形で残されました。

このマイクロフィルムには、陸上で行った観測だけでなく、数は少ないのですが、海軍艦艇上で行った高層観測が含まれています。

例えば、空母「赤城」については、昭和15年1月から17年4月までのものが残されています。

真珠湾攻撃時に行った高層気象観測

空母「赤城」の昭和16年12月分の記録を見ると、北緯43度線に沿って日付変更線を超えて東へ進み、5日からは図1のような観測をしながらハワイ諸島に向かっています。図1の時刻は日本時間で、19時30分を引くとハワイ時間になります。

空母「赤城」は、第1航空艦隊(指令官:南雲忠一中将)の旗艦として、加賀、飛龍、蒼龍、翔鶴、瑞鶴という5隻の空母とともに真珠湾奇襲作戦行動中であったのです。

図1 真珠湾攻撃時に行われた空母「赤城」の高層気象観測
図1 真珠湾攻撃時に行われた空母「赤城」の高層気象観測

神戸にあった海洋気象台が作っていた10年間の日々の北太平洋天気図から、この季節には波が高いことなどから船舶が通らないことを確認しての隠密行動だったのです。

1ヶ月ほど前に、日米関係悪化を受けて最後の引き揚げ船としてアメリカから日本へ向かった「氷川丸」の航路は、もちろん作戦行動中の「赤城」の航路より南の海上を西に向かっていました。

真珠湾攻撃機発信時の高層観測

空母「赤城」の観測結果によると、北緯30度以北では、2、000メートル付近まで西よりの風が吹いていますが、北緯25度付近の攻撃隊を発進させた海域では、発進の半日前、直前、直後の3回の観測とも、2、000メートルまで、毎秒10メートル以上の東風が吹いています。

図2 真珠湾攻撃直前の空母「赤城」での高層気象観測
図2 真珠湾攻撃直前の空母「赤城」での高層気象観測

つまり、偏東風が吹いている緯度まで南下してから攻撃機を発進させたのです。

陸上の高層気象観測では、高いところまで精度よく風向・風速を求めるために、水素をつめた風船(気球)を飛ばし、遠く離れた2ヶ所から同時に経緯儀で追跡し、方位角と高度角を求めるという方法で行われ、日本上空に非常に強い風が吹いていることなどを発見していました

しかし、軍艦での気象観測は、簡便に大気下層の風を求めれば良いということから、風船につめる水素の量を調整し、風船(気球)の上昇速度を仮定して、1ヶ所の経緯儀で追跡するという方法で行われました。

真珠湾攻撃時の空母「赤城」では、通常使う風船よりやや大きめの85.5グラムの風船を用い、通常の上昇速度よりやや早い1分間に250メートルという上昇速度になるように水素をつめています。

早く観測を終えるための工夫と思います。

陸上でも軍艦でも、これらの方法で観測ができるのは気球が見えなくなるまで(雲に入るまで)です。

12月7日23時05分の空母「赤城」の高層気象観測では、高さが2キロメートルまで観測したあとに雲の中に入り、観測は終わっています。

気球に発信機をつけ、観測データを無線で得るという、現在使われているラジオゾンデという新しい技術は既に完成していました。この新しい方法なら、雲があっても高いところまで観測が可能ですが、アメリカに日本の連合艦隊の所在を知られてしまう可能性があり、あえて新しい技術は使わなかったと思います。

風船をあげているのを見たという証言

平成11年にNHK番組「戦争と気象・真珠湾」に取材協力をしたことがありましたが、このとき、NHKでは真珠湾攻撃に参加した空母「赤城」の乗組員をさがしだしています。真珠湾攻撃の58年後ですから、80歳以上でしょうか、その人が次の証言をしています。

「風船をあげているので、不思議に思って何をしているのかと聞いたら、上空の風を測っていると言っていた。」

よほど印象に残ったできごとだったのではないかと思います。

こうして太平洋戦争が始まっています。

戦争では、気象の観測や予報があらゆるところで必要となってきます。そして、少しでも有利になるよう、気象の観測や予報は隠されます。

太平洋戦争でも、昭和16年12月8日の開戦の日から気象報道管制が始まって天気予報や台風情報は国民に知らされなくなり、天気予報が復活したのは終戦の一週間後、昭和20年8月22日になってからです。

真珠湾攻撃後の空母「赤城」の高層気象観測

空母「赤城」の高層気象観測をみると、真珠湾攻撃では、昭和16年12月1日に日付変更線を超える直前の観測から真珠湾攻撃を終わって24日に安芸灘に戻るまでに33回の観測を行っています。

また、翌年2月15日にパラオを出航し、19日にはオーストラリアのポートダーウインを攻撃、21日にセレベス島のスターリング湾に戻るまで17回の高層気象観測を行い、4月4日にセイロン島攻撃の前後にコロンボの南海上にいたときから横須賀に寄港するまでに12回の高層気象観測を行っています。

しかし、これ以後のものは残されていません。

空母「赤城」は、ミッドウエー海戦によって、「加賀」「蒼龍」「飛龍」という日本の誇る空母とともにアメリカの爆撃機によって沈められたからです。

5月27日の海軍記念日に連合艦隊の泊地となっていた安芸灘を出発してから、6月5日のミッドウエー海戦まで、高層気象観測が行われたと思われますが、行われたとしても、その観測資料は空母「赤城」とともい海の中に沈んでいます。

空母「赤城」の海上気象観測は神戸コレクションに

昭和初期から戦中までの高層気象観測資料については、いずれ詳しい解析が行われるかもしれませんが、その時まで、マイクロフィルムという形で保存されています。

ただ、空母「赤城」における気象観測は、高層気象観測だけではありません。

一般船舶と同様に、海上気象観測や海洋の観測も行われていますが、これは既に利用されています。というのは、日本に無事に寄港するまでの分が神戸コレクションに含まれているからです。

明治23年(1890)からの商船等で観測報告された海上気象観測表約680万通のコレクションは、「神戸コレクション」と呼ばれ、地球温暖化の研究に役立っています。この神戸コレクションには、空母「赤城」だけでなく、日本海軍の艦艇が数多く含まれており、貴重な資料となっています。ただ、日本海軍の艦艇の数は、戦争が進むにつれ急速に減ってゆきますので、ほとんどの資料は昭和17年までのものです。

攻撃機発進時の海洋観測

ハワイ攻撃中の海洋観測の中に、少しおかしな観測があります。

真珠湾攻撃のため、艦載機が飛び立ったころの海水の比重(塩分濃度)の観測です。

9日2時の観測だけ海水の比重が違っています(表)。

海水の比重は、海域によって異なるのですが、短い時間間隔で大きく異なることはありません。観測をまちがえたか、記入を間違えたか、どちらにしても、忙しさに忙殺されていたなかで起こったのではなかと考えています。

表 真珠湾攻撃時の海面水温と海水の比重の観測
表 真珠湾攻撃時の海面水温と海水の比重の観測

このようなことは過去の資料を使うときには避けられない問題ですが、誤りも含まれていることを前提としたデータ処理によって様々なことを推定することができます。

しかし、資料が全く残っていないと、それさえもできないのです。

戦争という不幸な歴史がありましたが、その過程で観測された軍艦の気象観測記録は、貴重な観測資料には変わりがありません。そして、その一部は、人類共通の財産としてよみがえっています。

どんなことであれ、現在のできごとを、現在の最善の技術で記録し、伝えようとする努力が、後世において役立つこととして蘇るひとつの例が、空母「赤城」をはじめとする軍艦の気象観測記録ではないかと思います。

図の出典:饒村曜(1997)、空母「赤城」の高層気象観測、雑誌「気象」、日本気象協会。

表の出典:饒村曜(2010)、海洋気象台と神戸コレクション、成山堂書店。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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