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日露和親条約と安政東海地震津波(造船大国はここから始まった)

饒村曜気象予報士
マトリョーシカ人形(写真:アフロ)

今から161年前の嘉永7年12月21日(1855年2月7日、以下カッコ内の日付以外は旧歴)に日露和親条約が結ばれます。その直前に発生した安政東海地震による津波は、日本が造船大国になるきっかけを作っています。

鎖国を終わらせたアメリカとの和親条約

アメリカのマシュー・ベリーが開国を求めて江戸に来航し、1年後に再来日するとして引き返した1カ月半後の嘉永6年7月18日、ロシアのエフィム・プチャーチンが開国をもとめて長崎に来航します。プチャーチンも半年にわたって粘ったものの拒絶され、引き上げますが、翌年事態は急変します。第12代将軍の徳川家慶が死去したのです。

徳川家慶死去を香港で聞いたペリーは、国勢の混乱をつき、幕府に開国の決断を迫るために1年後に再来日するという約束を破り、半年後の嘉永7年1月に再来航します。

江戸湾に9隻のアメリカ艦隊が睨みをきかしての交渉です。

その結果、3月3日にペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川の横浜村(現横浜市)に上陸し、日本は下田(現静岡県下田市)と箱館(現北海道函館市)を開港するという日米和親条約(神奈川条約)が締結されました。

ここで徳川家光以来200年以上続いた鎖国が終わっていますが、その4日前の2月29日にイギリスがロシアに戦線布告し、翌30日にはフランスも続きます。ロシアと英仏とのクリミヤ戦争が始まったのです。

その後、ペリーと幕府は下田で交渉を行い、5月25日には、アメリカ人の移動可能範囲は下田より7里、函館より5里など、和親条約の細則を定めた下田条約が締結します。

幾多の困難のなかでのロシアとの和親条約

アメリカに続き、イギリスが8月23日に日英和親条約を結びます。

クルミャ戦争をイギリスと戦っているロシアのプチャーチンもイギリスの目を避けながら交渉を行い、12月21日に伊豆の下田で日露和親条約を結びます。

それも、11月4日の安政東海地震の津波によって下田が大きな被害を出した直後です。

日露和親条約では、千島列島は択捉島以南を日本領、ウルップ島以北はロシア領に、また、樺太については国境線を決めず、両国民の混在地となりました。その後、日本とロシアの国境は幾多の変遷がありますが、最初の合意が、この時の日露和親条約です。

安政東海地震の被害

安政東海地震は嘉永7年11月4日辰下刻(1854年12月23日午前8~9時)に発生したマグニチュード8.4の地震で、被害は関東から近畿地方に及び、全国の死者は2000~3000名と言われています。

震源地は駿河湾から熊野灘で、山梨県西部から静岡県では震度7と推定される激しい揺れで、房総半島から四国まで大きな津波が発生しました。

プチャーチンの乗ってきたディアナ号は、繰り返し襲う最大6メートル以上の津波で大破しています。このため、イギリスの目を避けて伊豆国の君沢郡戸田(へだ)村(現在の沼津市)で修理することになりますが、曳航中の11月27日、暴風雨により宮島村(現在の富士市)沖で座礁、その後沈没しています。

冬に暴風雨ということは、南岸低気圧が発達して通過したのではないかと思います。数日待てば、南岸低気圧は通過して冬型の気圧配置になりますので、遭難せずに戸田村に向かえたと思いますが、プチャーチンは数日を待つ心境にはなかったのではないかと思います。

武力をちらつかせての交渉とは違い、自分たちの乗ってきた船がなくなったなかでの交渉です。徳川幕府のその後の行動をみると、特に感ずるものがあったのではないかと思います。

日本初の本格的な西洋船

戸田村には、幕府の許可のもと船大工等が集められ、ロシア人の指導の下で3ヵ月の突貫工事が行われ、全長25メートルの木造様式の帆船を建造します。

異人とは付き合うなという昔からの幕府の掟はありましたが、異国で地震と嵐の被害を受けた乗組員へ村人の好意があったのではないかと思います。プチャーチンが「へだ号」と名付けたのは、感謝の意味があったのではないでしょうか。

「へだ号」は、ディアナ号よりかなり小さい船でしたが、これが日本初建造の本格的な西洋船です。プチャーチン等はこれに乗って帰国し、後に「へだ号」はロシアから幕府に献上となります。

「へだ号」は堅牢で操船が容易と評判になり、はからずも近代造船技術を身につけた戸田の船大工たちが、戸田村だけでなく、江戸石川島をはじめ、各地で「へだ号」と同様の船、つまり、君沢形と呼ばれる船をつくります。

明治初期の沿岸航路の商船は、君沢形が花形でした。

船大工の棟梁であった上田寅吉は、「へだ号」の功績で名字帯刀を許され、のちに横須賀海軍工廠の初代所長となって数々の軍艦建造に携わります。

現在のディアナ号の錨

ディアナ号は、宮島村沖で沈みましたが、高さ4メートル、重さ3トンという巨大な錨は引き上げられています。

昭和29年(1954年)に引き上げられた錨は、沼津市戸田の造船郷土資料博物館前に、昭和51年に引き上げられた錨は、富土市三四軒屋の緑道公団(通称「錨公園」)に展示されています。

日本開国というとアメリカのペリーの功績が大きく、あまりにも有名ですが、ロシアのプチャーチンも日本へ造船技術の伝承や日露和親条約など、大きな役割をしており、正当な評価が必要と思います。

安政東海地震の次は?

震源地が東海地震より西側の紀伊半島から土佐沖が震源地の南海地震は、東海地震と同時発生、あるいは連動して発生しています。

安政東海地震の32時間後に安政南海地震が発生しています。

浜口義兵衛が積んである稲束に火をつけて村人を助けたとい「稲むらの火」の話で有名になった安政南海地震です。実際の浜口儀兵衛の行動は、「稲むらの火」の話以上に、多くの教訓を含んでいます。

日本周辺では繰り返し巨大地震が発生しています。その繰り返しの周期は、私たちの世の中の変化より、はるかに長いものです。安政東海地震以降、日本の歴史の中ではいろいろなことが起こり、激動の時代が続いて世の中は様変わりしています。

しかし、安政東海地震・南海地震の90年後の昭和19年12月7日に東南海地震が発生しています。震源地は、東海地震の震源地と南海地震の震源地の中間、遠州灘から熊野灘でした。その2年後の昭和21年12月21日、南海地震が発生しましたが、安政南海地震後に浜口儀兵衛が作った堤防は、村の中心部を津波から守っています。

地震に対する警戒は、自分たちの代だけでなく、孫子の代まで続けてゆくかないと、役立たたないのです。浜口儀兵衛の堤防という遺産が生きたのは92年後でした。

津波防災については、気象予報士が5年間行ってきた「津波防災の日のイベント」など、長続きすることを意識した取り組みが必要と思います。

161年後の現在、東海地震は発生していません。

次にくるのは東海地震か、東海地震と南海地震の連動地震かわかりませんが、陸地に近いとところでの地震ですので、密に展開している観測網に地震の前兆現象がかかるのではないかと期待されています。

日頃の備えと常に新しい情報入手が大事なことは言うまでもありません。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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