阪神淡路大震災の火災は気象レーダーに映るほど大きかった
平成7年1月17日05時46分の地震が発生した時に、私は神戸市中央区中山手通りにあった神戸海洋気象台(現在は神戸地方気象台となり移転)に隣接する宿舎で寝ていました。
上下動の揺れで目がさめた後、身体が横に叩きつけられる感じの揺れを感じましたが、この地震が阪神淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震です。気象台では「震度6強」、神戸市沿岸部に細長く東西に延びる「震度7」の領域が切れているところにありました。
防災機関や報道対応があると思って職場に
当時、神戸海洋気象台予報課長で、大災害発生時には神戸海洋気象台災害対策副本部長になると決められていました。
地震と同時に停電となりましたが、隣接する気象台がすぐに予備電源に切り変わったので、その光が部屋に射しこんできました。その光でただちに背広を着、ネクタイを掴み、ラジオを聞きながら気象台に駆けつけました。
津波の心配があるにしても、神戸ではこれほど大きな被害を受けるとは思わなかったため、私の職責として防災機関や報道機関等との対応が一日中あると考えたからです。
しかし、ほとんどありませんでした。それどころでない大災害が発生していたのです。
1月17日は満月で、月の入りが6時52分でしたが、地震発生当時は曇でした。また、日の出も7時6分であるため、神戸海洋気象台の灯りを除くと、周囲は真っ暗でした。
地震発生後、「神戸の方向の空が地震の前に明るかった」と地震の予兆をかたる人が多くいましたが、大阪方面から神戸方向を見たとき、雲が薄ければ月明かりでぼんやりと明るくなっていると思いますが、神戸市では厚い雲で覆われていました。
神戸海洋気象台から見た長田区の火災
兵庫県南部地震発生後、6時すぎに高台にある神戸海洋気象台の南西約2~3キロメートル先の長田区付近の真っ暗闇の中にいくつかの火の手が見えました。露場にあって使われていない地震で傾いた百葉箱ごしにです(図1)。
普段なら町の明かりがある長田区付近(2~3キロメートル先)に火災が派生していましたが、消防車のサイレンの音も聞こえず、静寂の暗闇の中、大の勢いが強くなっているという不気味な状況でした。
夜が明けても、長田区付近の火事の勢いは衰えず、火元も増えているように見えました。煙は南から東の風によって左から右へ流れていました(図2)。また、気象台の東側の灘区付近にもいくつかの火事の煙が見えました。
ラジオで火災に注意を呼びかけ
地震発生後、神戸海洋気象台に最初に中継が入ったのは地元のラジオ局であるAM神戸です。女性レポーターと技術スタッフの二人が機材を持って取材にきたのは、多分10時頃だったと思います。
台風時などに気象台から生中継をする場合は、1階の事務室から小型のアンテナを海側(三宮方面)に向けるだけで中継可能でしたが、いつも使う中継装置が故障ということで、六甲山系の麻耶山にアンテナを向けるため、倒れているロッカーを乗り越えて3階の廊下にたどりつき、そこから中継しました。
放送では地震の概況を簡単に説明し、建物が壊れかかっているので弱い余震でも被害が拡大する恐れがあるので注意すること、現在乾燥注意報が発表中であり火災が起き易くなっているので絶対に火を出さないようにと呼びかけました。
気象レーダーでも映った長田区の火災
午後になると、長田区付近の火災の煙の流れは右から左へと変わっています(図3)。
風が北風に変わったことに対応しています。
気象台付近には長田区付近の火災のものと思われる白い燃えかすが雪のように多数降ってきましたが、午前中に一時黒い燃えかすが降っていたときとは、あきらかに火災の状況が変化したと感じました。
図4は当時、気象庁で作成していたレーダーエコー合成図ですが、長田区のすぐ南に1時間に10ミリメートル以上の雨に相当する記号があります。これは、雨が降っているのではなく、主として大火によって生じた煙や巻き上げられたほこりと思われます。
気象台では、予備電源が床にボルト付けしてあり、地震でも機能したため、観測も予報も、情報発表も通常通り行われています。
1月17日の観測原簿(図5)の記事の欄には、「けむり」という珍しい天気記号が記されています。これは、顕著な煙でないと記入しない天気記号で、17日の6時30分から18日2時30分まで観測されています。煙により、視程は8キロメートルに落ちていました。
この顕著な煙で、巻き上げられた煙や燃えかす等が気象レーダーに映ったのです。
風がそれほど強くないのに大火
日本の大火は、これまで、ほとんどといっていいほど強風下での大火です。
阪神淡路大震災の大家は、空気が乾燥しているといっても、風がそれほどでもない(最大風速が毎秒6.8メートル)のに、全国の1年間の火災焼失面積の4割に相当する面積が焼けています。
もし風が強ければ、関東大震災の10分の1程度といわれている延焼速度は、もっと早くなり、神戸の市街地がほとんど丸焼けになった大火の可能性がありました。
全てを失う大火災に備えて資料等の使える形でのバックアップ
言い古されていますが、地震のときに火事を出すと貴重なもの全てが失われます。火事を出さない対策が重要なのは言うまでもありませんが、同時に、貴重な資料等はできる限り使える形でバックアップを考えておく必要があります。
神戸海洋気象台には、「神戸コレクション」と呼ばれる、今から120年以上前の明治23年(1890)から昭和35年(1960)までの日本の商船等で観測報告された海上気象観測表約680万通が保管されていました。
阪神淡路大震災後、今回の地震では無事でしたが、人類の貴重な財産をこのまま眠らせて良いのかという議論がでてきました。このため、日本気象協会が日本財団補助事業として、気象庁の支援を受けて昭和7年以前の海上気象観測資料の観測資料のデジタル化が8年がかりで行われました。
その結果、第一次大戦によって海上気象観測資料が少なくなった大正3年(1914)以降の観測資料がコンピュータで処理しやすい形で複製され、地球温暖化の研究へ多大な貢献をしています。
図4以外の図の出典:饒村曜(1996)、防災担当者の見た阪神淡路大震災、日本気象協会。