富士山上空での飛行機事故と雲の伯爵の雲の観測
相次いだ航空機事故
昭和41年3月5日12時43分、羽田空港に英国海外航空(BOAC)の世界就航便の「ボーイング707」が着陸しています。ロンドンを起点とした世界一周の途中で、前日は羽田空港が濃霧で閉鎖となったため、ハワイのホノルル空港から福岡空港にダイバードしてからの飛来ですので、予定より1日遅れていました。
その羽田空港の滑走路脇には、前日の濃霧の中を着陸しようとして失敗、炎上したカナダ太平洋航空のダグラスDC-8の残骸が残っていました(乗員・乗客の死者64名、生存者8名)。
そして、世界周航便のボーイング707は、13時58分に羽田空港から香港の啓徳空港へ向けて出発しましたが、富士山上空で乱気流に巻き込まれて空中分解をし、乗員・乗客124名が亡くなっています。
初代の気象研究所長は伯爵
その原因解明には、この年の1月1日になくなった阿部正直が残した膨大な資料が使われました。
阿部正直は、日米和親条約締結時の筆頭老中・安部正弘(備後の福山藩)を祖先に持ち、東京帝国大学理学部を卒業後、映画を使って富士山を中心とした雲の研究に一生をささげた人です。
非常に高価であったカメラやフイルムを多用し、2台のカメラで雲を立体的に把握、その時間変化を見ることで、雲がどう移動し、どう変化するかということを研究しました。
御殿場市に私設の安部雲気流観測所をつくったり、東京文京区の邸内で風洞実験室を作って雲の再現実験を行ったりしていました。
初代の気象研究所長は伯爵
伯爵であった安部正直は、昭和12年に中央気象台(現在の気象庁)の気象観測事務嘱託となっています。これは、戦争の足音が近づいてくる中、研究が続けられる道を選んだための選択かもしれません。
阿部正直のその業績は国内外から高く評価され、「雲の伯爵」と呼ばれるようになります。
戦後の昭和21年には、中央気象台の研究部長として招かれ、昭和22年4月30日に気象研究所ができると、初代の研究所長となっています。
阿部正直は、「雲の伯爵」と呼ばれることを嫌い、「雲の研究者」と呼ばれることを望んでいましたが、同年5月3日に日本国憲法施行に伴って華族制度が廃止となっていますので、伯爵所長であったのは3日間だけでした。
そして、阿部正直の富士山にかかる雲の研究とその時の資料は、英国海外航空機事故の原因解明だけでなく、今も重要な資料として生きています。
図の出典:饒村曜(2010)、静岡の地震と気象のうんちく、静岡新聞社。