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昭和6年の日本初の客室乗務員は近代的天女と呼ばれた

饒村曜気象予報士
三保の松原からの富士山(写真:アフロ)

パイロット養成をしていた日本飛行学校は、サイドビジネスとして東京航空輸送を作り、昭和4年から海軍から払い下げを受けたハンザ・ブランデブルグ機で東京の羽田と伊豆の下田間に定期航空路を開設しています。もともとは、第一次世界大戦末期にドイツで作られた2人乗りの水上戦闘偵察機ですので、パイロットを除くと、乗客は1名しか運べませんでした。

日本初の女性乗務員

東京航空輸送は、愛知航空機が作った6人乗りの水上機である愛知AB型輸送機の貸与を受けると、昭和6年4月1日からエアーガールと呼んだ女性の客室乗務員を乗せ、航空路を海岸沿いに静岡・清水まで延長しています。

これが、日本初の客室乗務員によるサービスです。

世界で初めて客室乗務員を載せてサービスを行ったアメリカのボーイング航空輸送から11ヶ月後のことで、かなり早い段階での試みといえます。

6人乗りといっても、パイロットやエアーガールなどを除くと乗客は3人です。出発から到着まで座席に座っていなければならないという狭いスペースで、サービスと言っても限度があります。

サービスというより、「エアーガールが乗るほど安全です」というPR効果が狙いといわれています。

近代的天女

飛行機によく搭乗したという菊池寛は、「エアーガールは近代的天女である」と表現していますが、清水にある三保の松原の天女伝説を意識してのことかもしれません。

三保の松原は、静岡市清水区の三保半島にある景勝地で、ユネスコの世界文化遺産「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産となっています。

三保半島は江戸幕府の直轄地で、半島全体が松に覆われていました。明治以降開発が進んで半島全体が松林ではありませんが、「羽衣の松」の周辺は景観を残しています。

「羽衣の松」は、御穂神社の御神体で、祭神の三穂津彦命(大国主命)と三穂津姫命が降臨される祭に神霊が寄り付くものとされてきました。三穂津姫命という天女が、着ていた羽のよう軽い衣を枝にかけたというのが、三保の松原の天女伝説です。

最初に乗った女性乗客は小泉元総理大臣の母

黎明期の飛行機は、郵便の輸送に使われました。このため、飛行機を管轄している役所は、郵便を管轄している逓信省でした。

客室乗務員によるサービス開始直前の3月29日の試乗で、小泉又治郎逓信大臣は、愛嬢と一緒に乗り、「この芳江はプロペラの音を大変気にするが、私はプロベラの音があって飛行機に乗った気がする」と言っています。

つまり、最初に乗った女性乗客は、この愛嬢の小泉芳江ということになります。

小泉芳江嬢は、のちに防衛庁長官などを歴任する鮫島純也を婿にとり、小泉純一郎元総理大臣を生んでいます。

厳しい会社経営

乗客に少しでも快適な空の旅を提供しようとする試みが始まったのは静岡県ということになりますが、東京航空輪送による客室乗務員サービスは、1年ほどで中止となります。

厳しい会社経営があったためと思われます。

静岡県は、昭和3年4月から上空から海面付近を群をなしているマグロなどの位置を漁船に知らせる魚群探査事業をしています。この事業は、立ち上がりから鈴木興平(鈴与)の援助をうけ、静岡県三保で飛行場を経営していた根岸錦蔵に委託していました。

しかし、静岡県は、魚群探査事業の委託先を東京航空輸送に突然変更しています。推測ですが、その理由は東京航空輸送の経営を支援するためと思われます。

図は、昭和6年9月23日の魚群探険飛行ですが、駿河湾を飛行中にカッオを6群、黄肌マグロを1群発見し、出漁していた9隻の漁船に対して8個の報告筒を海に投下しています。

漁船は、この報告筒を回収し、魚の群れに急行しました。その後、漁船に無線機が積まれるようになると、無線で漁船に魚群の情報が伝えられますが、魚群探査の方法は同じです。

東京航空輸送の魚群探査事業は、記録的なマグロの豊漁をもたらし、それを使った「ツナ缶」が静岡の重要な輸出品となっています。

図 魚群探検飛行航跡(昭和6年9月23日)
図 魚群探検飛行航跡(昭和6年9月23日)

捨てる神あれば拾う神あり

根岸錦蔵は、東京航空輸送に魚群探検事業を奪われた形になりましたが、同じ頃、急拡大している飛行機へ情報を提供したり、逆に飛行機からの情報を得たいと考えていた中央気象台からの依頼を受けることになります。

中央気象台三保臨時出張所の誕生です。

以後、根岸錦蔵とそのグループは、飛行機を用いた高層気象観測、雲の上からの皆既日食観測、流氷の観測、地震被害の上空からの調査など、中央気象台(気象庁の前身)の画期的な業績に貢献しています。

現在の気象庁と違い、中央気象台は、自由に使える飛行機と空港(三保空港と女満別空港)を持ち、機動的に自然現象を解明していた背景には、今では考えられない航空業界の黎明期の苦労があったのです。

図の出典:饒村曜(2010)、静岡の地震と気象のうんちく、静岡新聞社。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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