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日本海海戦で活躍した「信濃丸」が観測した香港台風

饒村曜気象予報士
中国 香港(写真:アフロ)

明治38年5月27日4時45分、対馬海峡を哨戒していた信濃丸は、ロシアのバルチック艦隊を発見し、「敵艦見ユ」との歴史的な電報を打っています。この電報により、東郷平八郎が率いた連合艦隊がバルチック艦隊を急襲、日露戦争の帰趨を決めた日本海海戦に勝利しています。そして、この日が海軍記念日になっていました。

信濃丸という船

明治33年(1900年)にイギリスで欧州航路用に建造された日本郵船の「信濃丸」は、日露戦争が始まると海軍に徴用され、仮装巡洋艦となり、乗組員が海軍の兵士に変わっています。

正規の巡洋艦を作るよりも時間と経費を節約できるのですが、普通の船を改造したものなので攻撃力が弱く、装甲等の防備力も弱く、砲撃で簡単に沈むというのが仮装巡洋艦です。

日本海軍は、三六式無線機(明治36年采用)を開発し、直ちに戦艦「三笠」や巡洋艦などの大型艦艇から搭載をはじめ、明治38年の日本海海戦までには仮装巡洋艦も含む、駆逐艦以上の全艦艇に装備しています。信濃丸にも、このとき三六式無線機が搭載されました。

当時、全艦艇に無線機を搭載していた国はありませんでした。無線においては、世界一の最新鋭装備を持っている海軍となっていました。

そして、この全艦艇に積まれた無線機が、「世界の歴史の中で最も完全な勝利」と言われる日本海海戦の勝利につながったのです。==天気晴朗で波が高いは日本有利==

信濃丸からの通報を受けた東郷平八郎は、次の電文を打って決戦に向かっています。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直チニ出撃コレヲ撃滅セントス

本日天気晴朗ナレドモ波タカシ」

最後の文章は、中央気象台が送った日本海の天気予報「本日天気晴朗ナレドモ波高カカルベシ」の一部を変えたものです。

波が高いと、船が大きく揺れ、威力のある巨砲での命中率が下がります。このため、高速で動き回り、中型砲で速射する艦艇を揃えた日本海軍のほうが有利です。また、天気が晴れて見通しが良いことは、バルト海(一部は黒海)から長旅で疲れているバルチック艦隊が敗走した場合、うち漏らす可能性を減らします。うち漏らせば、補給等を行って、日本の脅威として復活することが見えています。

つまり、日本有利の天気予報だったのです。

明治39年に香港を襲った台風

日本海海戦の一ヶ月後の6月下旬に、信濃丸は徴用解除となって欧州航路に戻っていますので、この時点で三六式無線機は外されたものと思います。一般船舶が無線機を積むようになるのは、もう少しあとのことです。

図1 明治39年の「気象集誌」にある「○香港颶風と信濃丸」の記事
図1 明治39年の「気象集誌」にある「○香港颶風と信濃丸」の記事

日本海海戦の翌年、明治39年の9月18日に香港を襲った台風では、2時間以上にわたる暴風雨で8000人を超える人が亡くなり、港では多くの船が沈没しています。

この台風が香港を直撃する直前、信濃丸は沖合で台風と遭遇し、貴重な気象観測をしていますが、その観測結果は無線で通報されていません。

というのは、大日本気象学会の機関紙「気象集誌」に、信濃丸の観測を無線で通報し、香港でこれを受けていたなら防災効果があったのではないかという記事があるからです(図1)。

当時、信濃丸は香港から台湾の基隆に向かって航行中でした。

図2 信濃丸の観測記事
図2 信濃丸の観測記事

そして、風力12(毎秒32.7メートル以上)という暴風雨の中、9月18日4時に気圧として、727.9ミリ水銀柱(=970ヘクトパスカル)を観測しています(図2)。

当時は、台風という言葉が使われておらず、風向が変化する強い風という意味の「颶風」という言葉で台風を表していました。

また、船舶での気象観測は、航海が終わってからまとめて気象台に提出するという方法で、即時利用は行われていませんでした。

引用:大日本気象学会の機関紙「気象集誌」、1906年11月号

颶心ハ東ヨリ来リテ信濃丸ノ南側ヲ通過シ西進シタルモノノ如ク 而シテ恰モ香港ハ其線路ニ当リシ乎或ハ多少其南或ハ北側ニ在リシヤヲ知ラスト雖モ 兎ニ角ニ既記ノ如キ惨状ヲ極メタル此颶風カ香港ヲ襲撃セル前 少ナクトモ六時間即チ十八日午前二時ニ於テ 信濃丸ハ若シ無線電信機ヲ備ヘアリシナラハ 而シテ香港ニ無線電信ノ受信所アリシナラハ  九十二浬ノ東方ヨリ香港ニ比シテ約十五粍内外低キ気圧及ヒ北北東ノ暴風雨ヲ観測シツツアルコトヲ香港気象台ニ報告シ得タルナルヘシ

出典:大日本気象学会の機関紙「気象集誌」、1906年11月号

神戸コレクションにある信濃丸の観測

欧州航路に戻った信濃丸は、老朽化してくると転売され、蟹工船などに使われています。

太平洋戦争中は輸送船として、戦後は復員船となり、昭和26年(1951年)に廃船になるまで、50年以上も活躍しています。この間、信濃丸が観測した海上気象観測は、神戸コレクションと呼ばれる膨大な資料の中で、全てではありませんが、かなりのものが現在も残されています。

図3 信濃丸の海上気象報告(1910年5月に門司と基隆の往復時のもの)
図3 信濃丸の海上気象報告(1910年5月に門司と基隆の往復時のもの)

「神戸コレクション」は、ファッションの世界での神戸コレクションとは全く違います。神戸にあった海洋気象台(現在の神戸地方気象台)が収集した明治23年(1890)から昭和35年(1960)までの日本の商船等で観測報告された海上気象観測表約680万通と軍艦等からの海上気象観測表のことです。気候変動が人類にとって重大な問題になり、長期間の観測資料、特に海の観測資料が求められるようになったことから注目されているコレクションです。

船舶での気象観測は、航海が終われば必要がなくなることから、使い捨てのものですし、長い問に災害や戦争などで失われています。神戸コレクションのように、まとまって保管されている資料は世界に類をみません。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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