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天正10年6月2日 「本能寺の変」は信長が主張した暦の通りに日食が起きた翌日

饒村曜気象予報士
織田信長(提供:アフロ)

古代日本の律令制では陰陽寮が置かれていました。

天文、暦数、風雲、気色を扱い、当時の最新の学問(中国からの学問)を使って予測を行い、異常発生時には秘密に上奏し、暦を調進していました。

気象庁長官と天文台長を兼ねたのが陰陽頭で、その下に、天文博士、陰陽博士、陰陽師、暦博士、漏刻博士がいました。気象と天文は一緒に扱われ、朝廷が作った太陽太陰暦が国家機関や貴族の間で使われてきました。

現在、気象と天文は別組織で扱っていますが、気象台の仕事と天文台の仕事を混同している人が多く、気象台に天文の質問が、天文台に気象の質問の電話がよくかかってきます。気象台では、天文の質問がきたときには天文台を紹介するのですが、簡単な質問に対しては答えられるように資料を手元に置いています。天文台でも同様と聞いています。

太陽太陰暦

太陽太陰太陽暦は、太陰暦を基にし、閏月を挿入して実際の季節とのずれを補正した暦です。

月は新月から満月を経て新月に戻るまで約29.5日ですので、29日の小の月と30日の大の月をつかって表現をし、約3年に1回、余分な1ヵ月を閏月として挿入することでずれを解消しました。

同じ太陽太陰暦といっても、閏月の入れ方や、大の月と小の月の入れ方によって、いろいろな違った暦ができます。

そこで、権威のあるところが暦を作り、皆が使うことをしないと混乱がおきます。

織田信長の時代、京都で使われていたのは、日本に中国から伝わり、862年に導入された宣明暦をもとにした京暦です。

これに対し、関東から東海地方で使われていたのが三嶋暦です。鎌倉時代から作られているという伊豆国(現在の静岡県)にある三嶋大社の暦師・河合家が作ったもので、自前の天文台で星や月を正確に観察し、それをもとに暦を作っていました。

このため、京暦とは、何度か日付けが食い違っています。

信長の主張する暦の通りに日食

全国統一を目指していた織田信長は、天正10年(1582)正月に暦がバラバラでは困るとして、三嶋暦に統一するように朝廷へ申し入れるのですが、朝廷の権威を否定するものとして退けられます。

しかし、この年の6月1日に京都では太陽が6割も欠けるという部分日食が起きます。

古代において日食は重大な関心事です。

日食時に国家行事を行うと為政者の威信が傷つくとされてきました。

このため、日食を予想し、この日に国家行事を行わないなどの行動がとられました。また、日食の日光は汚れとされ、天皇の身体を汚れから遮るため御所を菰(こも)で包む習慣がありました。

日食は太陽と地球の間に月が入る現象ですので、月と太陽の運行をもとに作られる太陽太陰歴では日食を予想でき、暦にもその旨が記入されます。

しかし、天正10年6月1月の日食は、京暦では見逃しとなり、御所を菰で包みませんでした。

このため、織田信長は、日食を表現している三嶋暦のほうが正確で、優越性がはっきりしているとして、信長は再度朝廷に暦統一問題を持ち出します。

しかし、翌2日(1582年6月21日)、本能寺の変によって明智光秀に討たれ、三嶋暦による統一はなりませんでした。本能寺の変によって、三嶋暦も運命が大きく変わったのです。

西暦はユリウス暦からグレゴリオ暦へ

天体の運行は変化していないよう見えても、少しずつ変化しています。

過去に正しいものであっても、そのまま使っていると、そのずれが大きくなってゆきます。

西暦は、織田信長が死去から5ヵ月後にユリウス暦から現在使われているグレゴリオ暦に変わります。つまり、実際と暦とでは10日もずれが生じていたため、1582年10月4日(木)まではユリウス暦を使い、翌日はグレゴリオ暦の1582年10月15日(金)となっています。

暦の変更は生活に大きな影響を与えますので、かなり前からら広く周知が行われていたと思われます。グレゴリオ暦の発布は1582年2月24日とされていますが、もっと前から情報は広まっていたと思われます。

日本に渡来した宣教師からいろいろな知識を学んでいた織田信長が、西暦の変更について知っており、暦に強い関心を持っていた可能性は十分あります。

多くの人が意味を理解していなくても、織田信長だけは本質を理解していた可能性があります。

しかし、信長が主張する通りに日食がおきると、朝廷やその周辺の人々、及び、明智光秀らにとって、織田信長は魔王であると実感したのではないでしょうか。

太陽太陰暦の変遷と西暦の采用

本能寺の変の約100年後、貞享2年(1685年)に宣明暦から貞享暦に変わっています。

貞享暦は、初めて日本人の渋川春海によって編纂された日本独自の暦です。

本能寺の変の前日の日食の件がありましたが、800年の長きにわたって調整することなく使うことができた宣明暦は、すごい暦であったということもできます。

その後、宝暦暦(1755年から使用)、寛政暦(1798年から使用)、天保暦(1844年から使用)と暦が変わりました。

日本で西暦(グレゴリオ歴)が採用されたのは明治5年です。

明治5年12月2日(1872年12月31日)の翌日が、明治6年1月1日(1873年1月1日)です。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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