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新潟地震から52年、熊本地震でも同じことが繰り返されている

饒村曜気象予報士
萬代橋(写真:アフロ)

今から52年前に新潟地震が発生しました。当時、新潟市に住む中学2年生でしたが、その時の記憶が今でも残っています。その後に発生した各地の地震では、今年4月に発生した熊本地震も含めて、いつも似たことが起きていると感じています。同時に、後世で役立つ経験が風化する速さも体験しました。

新潟地震の津波

新潟地震は、昭和39年(1964年)6月16日13時2分に、新潟県沖で発生したマグニチュード7.5の地震です。新潟県と山形県を中心に死者26人、全壊家屋8600棟、浸水家屋1万6000棟などの大きな被害が発生しました。

私は新潟地震のときに、市内の信濃川沿いの中学校の生徒でした。

地震発生直後に校庭に避難したのですが、そこで校庭に吹き出している砂混じりの水を見ました。これがあとで液状化現象(流砂現象)と知りました。

図 新潟地震における新潟市の災害状況
図 新潟地震における新潟市の災害状況

図は新潟地震による新潟市の災害状況です。浸水区域とあるのは、津波による浸水区域で、図中の丸で囲んだ数字の1のところが、当時私がいた宮浦中学校の位置です。また、数字の2は新潟地方気象台の位置で、私の自宅の近くでもあります。

新潟地震発生時には、地震がおきたら高い所へ逃げるという、戦前の「稲むらの火」の教育を受けた大人が大勢いました。子供だったので、訳がわからなかったのですが、先生をはじめ、大人たちが地震発生直後から津波を口にし、高い所へ避難しよう、避難させようとしていたのは記憶に残っています。

津波がくるということで、校庭から屋上に避難しましたが、近所の人たちも、続々と学校の屋上に集まってきました。近くに鉄筋コンクリート製の建物が少なかったためです。

屋上からは、いつもは見えない海が近くの屋根越しに見えました。そして、波が押し寄せ、校舎の1階部分のかなりの高さのところまで洗われるさまを最初から最後まで見ていました。

盛土で高くなっている信濃川沿いを走る白新線の線路上に、多くの人が避難していたというニュースなどがあり、地震が発生したらすぐに高い場所まで逃げるといういうことが徹底して行われていたと思います。東日本大震災の津波に比べれば規模が小さいのですが、巻き込まれでばひとたまりもない津波が県庁所在地の市を襲いました。しかし、高台への避難が素早く行われ、津波による死者はでませんでした。

キノコ雲と東京オリンピック

新潟地震発生直後から、少し遠くの石油タンクが燃え上がって、キノコ雲があがり、その煙のために数日は薄暗く、肌寒い日が続きました。

そして、断水が長期間続き、中学校は休校、その後仮設プレハブ校舎で授業再開となりました。

被災者は、被害をもたらした地震についての記憶は長く残りますが、被災者以外の人の記憶は、時と共に急速に減衰してゆきます。新潟地震の被害は、いっとき、日本中の関心を集めましたが、新潟市付近を除くと、徐々に世間の関心はオリンピックに移っています。

新潟地震の年は、東京オリンピックの年だったのです。

3日後には「飽きる」、3ヶ月後には「冷める」、3年後には「忘れる」といわれていますが、新潟地震の3ヶ月後はオリンピックムード一色となり、記憶の減衰はより大きかったのではないかと思います。

私達はというと、東京オリンピック時はおろか、翌年までプレハブ校舎での授業でした。

新潟地震の活きた教訓と活きなかった教訓

地震によって砂や水が噴出する液状化現象(流砂現象)が注目された最初の地震で、新潟市内にあった1500の鉄筋コンクリートの建物のうち310が被害を受けました。

しかし、その後、液状化対策が進み、液状化現象による被害がほとんど発生しなくなっています。液状化現象によって砂が吹き出ることはあっても、新潟地震のときのように、ビルが傾いたり倒れたりということは、ほとんどなくなっています。

また、新潟地震によって地震保険の必要性が認識され、このことが昭和41年からの地震保険の実用化につながっています。

これらは、新潟地震の活きた教訓と思います。

東日本大震災の時、津波に関しては新潟地震の教訓が活きていないと感じました。

「地震が起きたら、まず高い所へ逃げる」という、新潟地震のときのように、「稲むらの火」の教訓が守られていたら、もう少し犠牲者が減ったのではないかと思います。

車で水平方向に逃げるのではなく、車を捨てて盛土の高速道路の上など小高いところに逃げる選択をしたら助かったのではないかと考えたりします。

仙台空港が津波に襲われたとき、空港が津波で被害を受けたのは初めてという報道がありましたが、新潟空港は新潟地震の津波で大きな被害を受けています。

新潟地震での津波のことが完全に風化していたのです。戦前に行われていた「稲むらの火」という子供たちに対する防災教育を継続して行うということは重要だと思います。

熊本地震も新潟地震と同じことがおきている

新潟地震後、度々、大きな地震が発生していますが、地震被害やその後の復興となると、同じことが起きていると感じました。

今年4月に熊本地震が発生した時も、津波の有無という違いがあっても、災害発生から時間がたつにつれ、同じことが起きている、多分、これからも同じことが起きるだろうと感じました。

(1)首相等の視察

新潟地震のときは、池田首相、田中大蔵大臣、河野建設大臣など政府の要人が視察し、素早い対応を行っています。

熊本地震では、安倍首相が現場に過度の負担をかけないタイミングで素早く視察し、激甚災害指定など具体的な対策を打ち出しています。

(2)自衛隊の派遣

新潟地震のとき、自衛隊が災害出動しています。ただ、戦後まもないということから、国民の中に自衛隊アレルギーをもつ人がいたせいか、自衛隊と目立つ迷彩服ではありませんでした。

熊本地震のときも自衛隊が災害出動していますが、外見から自衛隊とはっきりわかる服装です。これは、助けに来ているという安心感を被災地に与えていると思います。この点は変わってきました。

(3)炊き出し

新潟地震のときの炊き出しは、おにぎりと沢庵だけでした。

熊本地震のときの炊き出しは、質や、量ともに新潟地震のときより、格段に良くなっています。温かいものなど、普段の食事に近いものが提供されていますが、逆に、担当者の負担は急増したのではないかと思います。不公平にならないようにという、膨大な作業に忙殺されている気がします。

(4)学校が避難所

新潟地震のときも学校が主たる避難所でした。プライバシーの問題や、長期間にわたり授業が出来ないという問題が発生しました。

熊本地震でも学校が主たる避難所で、同じ問題が発生しています。学校以外に適当な避難所がない現状では、しかたがないと、ある程度の割り切りが必要なのかもしれません。

(5)救援物資の分配

新潟地震では多くの救援物資が全国から集まりましたが、その配布が問題となっています。善意を公平に分配するというのは難しい作業です。全く同じものが被災者の数だけくるわけではありませんので、担当者は困り、被災者は不公平感が残るという問題が生じました。救援物資は不要なものも含めた組み合わせで受け取りましたが、その時に、現金だったら良かったのにという会話が聞こえてきた記憶があります。

熊本地震の場合も同じと思います。全国から多くの救援物資が届いていますが、それを被災者に平等に、それも被害の程度に応じて分配することは、非常に難しいことと思います。

全国からの善意が溜まっているのに、被災者に届いていないという批判の報道がありましたが、分配の大変さを考えると、簡単には同調できませんでした。

(6)正しい情報

新潟地震の発生後、住民が欲していたのは情報でした。住む家が無くなって路上生活をしていても、まず新聞を入手したりしていました。また、これを機に携帯ラジオが普及しました。

熊本地震でも、欲しいのは情報ということは同じと思います。新潟地震のときと違い、携帯電話の普及など、情報入手手段が多様化していますので情報入手は容易になったと思います。しかし、悪意に満ちたデマが拡散する可能性が高まっており、正しい情報の入手という点では、熊本地震のほうが大変と思います。

(7)欲しいのはトイレの水

新潟地震のとき、飲み水は給水車で来ました。多くはドラム缶を積んだだけの簡易給水車です。この時からポリバケツが使用されはじめました。従って、飲み水には不自由でしたが、それほど困りませんでした。困ったのは、トイレの水など雑用水です。4階に住んでいたので、トイレ用に多くの水を4階まで運ぶ必要があったからです。

熊本地震の少しまえから、飲み水はペットボトルでの提供となり、清潔で労力のかからない方法にかわっています。しかし、高い建物が少なかった新潟地震のときでも問題になった、災害時のトイレの水の問題は、熊本地震でも問題になっています。むしろ、新潟地震の時より高い建物が急増していますので、より深刻になっていると思います。

長く防災に携わり、「災害対策でなにがいちばん重要か」と問われることが多いのですが、そのときには「過去の災害をしつこく思い出すこと」と答えています。

同じようなことが起きるなら、過去の教訓が、そのまま活きるからです。

図の出典:饒村曜(2012)、東日本大震災・日本を襲う地震と津波の真相、近代消防社。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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