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「楽しみながら」で効果あり 対策を長続きさせる「ついで防災」のすすめ

饒村曜気象予報士
バーベキューと家族(写真:アフロ)

震度7を2回観測した4月の熊本地震から約3カ月がたちました。災害を教訓とする伝承で「直接の被害者・関係者でない場合は冷める」と指摘される3カ月です。

大きな災害が発生すると、防災に対する意識が高まります。しかし、いざ災害が発生すると、「何も対策をしてこなかった」「対策が全く役立たなかった」などという反省がきかれます。

これは、防災意識を高く保つことはなかなか長く続かないことを示しています。張り切って防災に取り組んでも、時間も費用も手間もかかることから、次第に防災疲れがでてしまうのです。そして、何もしなくなるのです。

寺田寅彦ではありませんが、必ず「災害は忘れた頃にやって」きます

過去の教訓を生かすためには、長続きさせることが大事です。そのために「ついで防災」、防災そのものを目的とせず、何かのついでに楽しみながら、結果として防災になるしくみや行動が有効です。

防災対策よりも減災対策

自然現象は制御できませんが、自然災害による被害は減らすことができるという意味でも、防災は大切です。

ただ、災害を「防ぐ」のは簡単なことではありません。お金と時間がかかります。備えたものを置いておく場所も必要ですし、メンテナンスの手間もかかります。

結果として、あきらめてしまう場合もあるでしょう。やめてしまうのは、災害の対策としては最悪の帰結です。

そこで私は、「減災」という言葉を意識的に使うようにしています。防災を否定しているわけではありません。完璧な防災を目指してやめてしまうよりは、できる範囲での減災をまず考えたほうがよいと思うからです。

たとえば、地震に強い家に改造する防災対策。かなりの費用がかかるからとあきらめてしまうのが、一番避けたい選択です。

一方、家具が倒れないように固定するのに、大した費用はかかりません。家が倒壊することは避けられなくても、家具の直撃から逃れる、壊れた家に隙間ができて脱出できるなどの効果が期待できます。これが減災です。

60年たつと地域が伝承を忘れる

減災対策を長く続けることも簡単ではありません。冒頭でもご紹介した、大きな災害の教訓についての伝承は、一般的に次のように言われています。

3日 直接の被害者・関係者でない場合は飽きる 

3月 直接の被害者・関係者でない場合は冷める

3年 直接の被害者・関係者でない場合は忘れる

30年 組織として伝承が途絶える、伝承が崩れる

60年 地域が伝承を忘れる

300年 社会から伝承が消える

1000年 文化的に災害がおこったことを知らなくなる

平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災。貞観11年5月26日(869年7月13日、グレゴリオ暦による)以来の大津波だと指摘されました。しかし、大津波がおこるまで、1142年前の地震と大津波については、起こったことを知らなくなっていたのです。当時の人々が残した「ここまで津波がきたことを後世に伝えるためにたてた石碑」

などの遺物は、顧みられることはありませんでした。

今年4月の熊本地震でも同じです。

熊本での初めての大地震という受け取り方もされていましたが、明治22年(1889年)7月28日に「不忘に備ふべきの大震災」とまでいわれた熊本地震がおきています。「地域の人々は伝承を忘れる」と言われる60年の2倍が経過していたのです。

だからこそ、防災や減災をできるだけ長く続けるために、特別な仕掛けが必要です。

それが、負担が少なく、無理なくできる「ついで防災」です。そして、その行動に「楽しみながら」という要素が含まれていれば、より長続きすると思います。

楽しみながら防災する「津浪祭」

和歌山県広川町では「津浪祭」が行われています。あえて、「祭」です。

嘉永7年(のちに元号が安政に改元)11月5日(1854年12月23日)に安政南海地震発生しました。このとき、紀州広村(現和歌山県広川町)の7代目浜口儀兵衛(晩年は濱口梧陵と称した)が稲むらに火をつけ、多くの人を救ったという話はデフォルメされ、小泉八雲の「A Living God」や、尋常科用小学校国語読本の「稲むらの火」に取り上げられ、戦前には優れた防災教育が行われていました(図1)。

図1 国語読本「稲むらの火」の1ページ
図1 国語読本「稲むらの火」の1ページ

しかし、真実はもっとドラマチックです(表)。

表 実際の浜口儀兵衛と「生き神様」の設定(気象庁のリーフレットより)
表 実際の浜口儀兵衛と「生き神様」の設定(気象庁のリーフレットより)

「稲むらの火」のモデルとなったのは、和歌山から関東・銚子に進出していたヤマサ醤油の7代目当主・浜口儀兵衛で、正月を故郷ですごすために帰省していた時の地震です。稲むらに火をつけて人々を救っただけでなく、再来するであろう津波に備え、巨額の私財を投じて広村堤防を作りました(写真)。4年の工事期間、女性や子どもを含めた村人を雇用し続け、賃金は日払いにするなど村人を引き留める工夫をして離散を防いだそうです。

写真 現在の広村堤防
写真 現在の広村堤防

堤防には補強のための松の木に加え、ハゼの木が植えられています(図2)。ハゼの木は、ロウソクなどの原料として換金できる植物でした。若者が集まって堤防を補修したら、完成後に楽しく酒を飲むために酒代を用意するというところまで考えていたのです。

図2 広村堤防断面(気象庁のリーフレットより)
図2 広村堤防断面(気象庁のリーフレットより)

広村の津浪祭は、津波による犠牲者を弔い、防災に尽力した先人に感謝し、堤防を補修し(現在は補修したという意味の砂をまく行事に変化)、避難場所となった高台の広八幡神社に移動して楽しく過ごすというものです。これは、楽しみの要素を取り入れたことで長く続いている、いわば「防災訓練」です。

津浪祭で伝えられた教訓は、昭和21年(1946年)の昭和南海地震でも生かされました。地震発生約30分後に高さ4~5メートルの大津波が未明の広村を襲いましたが、浜口儀兵衛の作った堤防は、村の居住地区の大部分を守ったそうです。戦争中から住み始めた新住民の中には津波に巻き込まれた人もいましたが、古くからの住民はすみやかに広八幡神社へ避難して無事でした。

形は少しずつ変わりながら、現在も津浪祭は続いています

キャンプ用品で家庭でも「ついで防災」

長続きさせるための工夫は、家庭での防災対策でも有効です。

多くのキャンプ用品、アウトドアグッズはそのまま災害時に使える防災グッズになります。 今年の熊本地震でもテントが活躍していました。登山家の野口健さんが、益城町にテント村を作ったのです。

野口健 熊本地震合同支援チーム テントプロジェクト

【テント村設置まで】

4月14日に発生した熊本地震は、震度7が2日続けて発生し、その後の相次ぐ余震で多くの家屋が倒壊、破損した。体育館などの避難所に入れない人達の多くが車中泊を余儀なくされた。

その後、痛ましくも車中泊によるエコノミークラス症候群で亡くなる方が出てしまい、車中泊の危険性が問われた。

野口は、昨年起きたネパール大地震でテント支援を行った経験などから、テントの有用性を訴え、テント・タープ(テント用日除け)各156張りを設置した。

それとともに、「熊本地震支援 テント村プロジェクト基金」も立ち上げ、家庭で眠っているテントの寄附や、支援金の協力を訴えた。  

地震発生直後は、個人的にテントを被災地に運ぶことが困難であったため、自らのSNS(ツイッター、フェースブック)にて、テントを被災地に送る方法を訴えたところ、

野口が以前より環境観光大使を務めている岡山県総社市の市長片岡聡一氏よりご連絡いただき、市が行っている益城町への支援物資と一緒にテントの輸送を引き受けてくれた。

出典:野口健 益城町テント村の報告と 今後の避難所の在り方に関しての提言

屋外での「バーベキュー」も防災活動に

道具を持っていて、この夏もバーベキューを楽しむという方もいると思います。

バーベキューを楽しんだら、次回以降のために、網などをきれいに洗い、炭や照明用の電池等の消耗品を補充して保管しておきましょう。これで、常にメンテナンスが行われている防災用品が備蓄されていることになります。災害がおきたとき、バーベキューの道具で火をおこして暖をとったり、煮炊きできるからです。

特に防災用品を備蓄しなくても、家庭内流通備蓄で「ついで防災」という考え方もあります。普段の生活で必要なものを多めに用意し、日常生活で消費したら補充するわけです。これで、自治体等の支援物資が届くまでしのぐことができます。

我が家では、ミネラルウオーター6本入の箱が常に2箱あります。1箱が空になったら、1箱を買うというサイクルです。これで保存期限が十分残っているミネラルウォーターが常に6本以上、家庭内流通備蓄として備えられることになります。

またいつかおこる災害に備えるために

私は気象庁で長く防災に携わってきましたが、個人的には次の大災害を体験しています。

・昭和39年に新潟地震とそれに伴う津波を新潟市で経験しました(中学生でした)

・平成7年に阪神・淡路大震災を神戸市で経験しました(神戸海洋気象台予報課長でした)

・平成16年に福井豪雨を福井市で経験しました(福井地方気象台長でした)

それらの経験から感じることがあります。災害への特別な備えはあまり機能しないことがある一方、普段からやっていることが災害時に意外と役立つのです。

災害がよくおこるこの国で有効なのは、普段からやっていることに含まれている、ちょっとしたこと、つまり「ついで防災」なのではないでしょうか。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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