台風10号が関東から東北に上陸へ 東北に直接上陸した103年前の台風と駒ケ岳遭難(聖職の碑)
大型で非常に強い台風10号は、これから向きを北西に変え、関東地方から東北地方に上陸する可能性が高くなっています(図1)。
台風10号の暴風警戒域
台風10号は、暴風域を伴っており、東京23区では、30日(火)未明から暴風域に入る確率が大きくなり、6時から9時には40%になります(図2)。一日前の予報(図3)に比べ、暴風域に入る確率が高くなり、確率のピークが少し早くなっています。
台風10号が接近する東~北日本では、火曜日の大荒れに備えて、本日中の対策が必須です。
また、高い山では台風から離れていても、ミゾレなどが降り、遭難の危険が高まりますので、早めの下山を心がける必要があります。夏休みは来年もあります。
台風10号が東北地方に直接上陸した場合は、台風の統計をとり始めた昭和26年以降では初めてのケースとなりますが、103年前に東北地方に直接上陸した台風があります。
大正2年8月下旬の台風
今から103年前の大正2年(1913年)8月 27日朝9 時、台風が関東の南海上に達し、その後急速に加速して三陸地方に上陸、北海道南部を通って日本海北部に達しています(図4)。
当時は、現在のように、熱帯低気圧のうち、域内の最大風速が毎秒17.2メートルという基準ではなく、漠然と熱帯で発生した低気圧を台風と称していました。
また、まばらな日本国内の観測値をもとに天気図を描き、解析しているため、台風が海上にある場合の台風中心位置や、中心気圧についてはよく分かっておらず、台風の上陸地点を特定できるだけの観測資料もありませんでした。現在の台風情報とは全く違います。
中央気象台(現在の気象庁)では、8月26日朝6時の観測を基にした天気図に、気象概況と天気予報「東海東山北陸道東北地方ハ北東ノ風曇小雨」を記入し、直に印刷・配布していましたが、これをみると、この段階で台風は北東に進むと考えていたようです。
大正2年の台風被害
大正2年8月下旬の台風被害について、現在のように詳しくまとめられていませんが、中央気象台が毎月刊行していた気象要覧によると、宮城県の松島湾やその周辺で大きな高潮被害があった旨の記述があるなど、関東・東北・北海道で台風被害がでています。
特に北日本では、7月から8月にかけて北日本は冷害であり、この台風による強風等の被害によって決定的なダメージを受けています。青森県では7割、北海道では9割の減収となり、要救済人口が約940万人にも達したため、東北凶作救済会が設立されています。
聖職の碑(いしぶみ)
長野県の駒ケ岳(木曽駒ケ岳)では、大正2年8月下旬の台風により、高等小学校(現在の中学校)の校長と生徒の11名が死亡するという遭難事故が発生しています。
そして、遭難した場所には遭難記念碑が建てられています(図5)。ここで、共殪者とは、共にたおれて死んだ人の意味です。
遭難記念碑
大正二年八月二十六日中箕輪尋常高等
小学校長赤羽長重君為修学旅行引率児
童登山翌二十七日遭暴風雨終死至
共殪者 堀 蜂 唐沢武男
唐沢圭吾 古屋時松
小平芳造 有賀基広
有賀邦美 有賀直治
北川秀吉 平井 実
大正弐年十月一日 上伊那郡教育会
この遭難の直接の原因が、珍しい進路をとった台風のためとはいえ、遭難に対し、各方面から多くの問題点が指摘されました。
高等小学校の生徒と登山するにしては、引率者の数が足りなかったとか、登山装備や食料が不十分であったこと、避難小屋が整備されていないこと、天気が安定して登山に適した7月下旬になぜ計画しなかったのかといった指摘などです。
しかし、批判とともに、このことによって教育としての登山が中止となる弊害を憂える声もあがっています。
事故後、駒ケ岳に当時としては立派な山小屋が建ち、遭難記念碑ができ上がるとともに、上伊那郡の諸校の修学旅行登山が、赤羽校長が身を以て残した遺訓を守り、完壁な準備のもとに盛んにおこなわれています。
気象庁測器課長などに従事し、その後、作家となった新田次郎の小説に「聖職の碑(いしぶみ)」がありますが、このときの遭難をテーマとしています。
遭難慰霊牌でも、殉難碑でもなく、遭難記念碑となっていることについて、新田次郎は、この小説の取材記の中で、「将来ともに、赤羽長重校長等11名の死を、上伊那郡教育会の面目にかけて、無駄にはしないぞと豪語しているようも思われた」と述べています。
大正2年8月下旬の台風と、今年8月下旬の台風は似ているといっても、災害は似て欲しくありません。
当時とは桁違いに防災情報が充実しています。
そして、防災情報を利用し、台風という自然現象があっても、防災対策で災害にはしない、仮に災害があっても軽減したものにするというのが重要と思います。
図の出典:饒村曜(1993)、続・台風物語、日本気象協会。