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勝海舟と五代友厚が一緒に学んだ長崎海軍伝習所

饒村曜気象予報士
観光丸(写真:アフロ)

ペリー来航で黒船の威力を知った江戸幕府、新たな防衛策のため長崎・出島のオランダ商館長にすぐにでもオランダから軍艦を買いたいと相談しています。そして、今から161年前の安政2年(1855年)9月10日、長崎奉行所(現在は長崎県庁の敷地)に海軍伝習所が作られ、ペルス・ライケン以下のオランダ人の指導を受けています。

長崎海軍伝習所

長崎海軍伝習所では、幕臣や長崎の地役人、佐賀、福岡、鹿児島などの雄藩の藩士から選抜して学ばせていますが、航海に関するものだけではなく、医学や気象学など幅広い学問を学ばせています。このため、日本海軍創設に重要な役割をした人物だけでなく、近代医学の発展や気象事業の発展にかかわった多くの人物を排出しています。

練習艦として、オランダから寄贈された「スンピン号(観光丸)」で演習を行い、オランダに委託した新造艦の「咸臨丸」「朝陽丸」も到着後に使用されています。また、造船実習を兼ねて作られた「長崎形」と呼ばれる小型帆船も練習に使われました。

スンピン号は観光丸と名前が変わっていますが、名前の由来は、中国の『易経』の「観国之光(国の光を観る)」からとったといわれています。観光旅行等の「観光」は、この後にここからとった言葉とされていますが、現在、長崎港には復元された観光丸が、長崎観光の一翼をになっています。

長崎伝習所の一期生

長崎海軍伝習所の一期生は、幕臣の勝海舟、薩摩藩の川村純義、五代友厚、津藩の柳楢悦などでしたが、この中に、職人の上田寅吉が含まれています。上田寅吉は伊豆半島・戸田の船大工です。

アメリカに次いで開国交渉にきたロシアのプチャーチンの乗ってきたディアナ号は、安政東海地震の最大6メートル以上の津波で大破し、その後、修理のため伊豆国の君沢郡戸田(へだ)村(現在の沼津市)に向かう途中で暴風雨で沈没しています。このため、戸田村には、幕府の許可のもと船大工等が集められ、ロシア人の指導の下で3ヵ月の突貫工事が行われ、全長25メートルの木造様式の帆船「へだ号」を建造します。これが日本初建造の本格的な西洋船で、プチャーチン等はこれに乗って帰国しますが、船大工の棟梁であった上田寅吉は、この功績で名字帯刀を許され、のちに横須賀海軍工廠の初代所長となって数々の軍艦建造に携わっています

二期生には、勝海舟が継続して学生となり、ジョン万次郎の私塾で英語を学んでいた幕臣の榎本武揚などが学んでいます。

江戸・築地の軍艦操練所

江戸・築地に軍艦操練所が新設されると、安政4年(1857年)3月に多数の幕府伝習生は築地に教官として移動しました。観光丸は江戸に回航され、軍艦操練所の実習に使われます。

江戸から遠い長崎に伝習所を維持する財政負担が大きいことが問題となり、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになり、安政6年(1859年)に長崎海軍伝習所は閉鎖され、オランダ人教官は本国へと引き上げています。

軍艦操練所には、昌平坂学問所で蘭学を学んでいた荒井郁之助(後の初代中央気象台長)が入門します。

長崎海軍伝習所から江戸に帰った榎本武揚は、軍艦操練所の教官となり、同い年の荒井郁之助が生徒となったわけですが、その5年後、榎本武揚がオランダに留学すると、荒井郁之助が教官になり、その後軍艦操練所の頭取に就任しています。

その後の伝習生

咸臨丸は、万延元年(1860)年、日米修好条約の批准書交換のため日本初の太平洋横断をします。

船長の勝海舟は、帰国後、海軍を作らないと諸外国とつきあえない。軍艦は買えても乗員は買えないので、身分に関係なく、人材を大規模に養成すべきと主張し、神戸に海軍操練所と神戸海軍塾を作っています。

勝海舟を助けて動き回ったのが、勝海舟の考えに感銘した坂本龍馬です。

こうして幕府海軍は、勝海舟によって創設され、5年間のオランダ留学から、完成したばかりの軍艦「開陽」で帰国した榎本武揚によって洋式化され、荒井郁之助が榎本武揚を補佐しています。

明治維新後の日本海軍は、幕府海軍を継承し、川村純義と勝海舟が指導して発展させています。柳楢悦は、海軍水路部をつくり、日本近海の測量や海洋観測など、現在の海上保安庁の重要な業務を創設しています。

なお、幕府海軍として咸臨丸の最後の船長・小林一知は、中央気象台長の荒井郁之助を補佐し、第2代の中央気象台長になっています。

五代友厚は、政界よりも経済界で尽力し、大阪経済界の重鎮の一人として、東京に首都が移ったことなどから、崩壊寸前までいった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化などを行っています。

維新前から旧知の佐賀藩・大隈重信、薩摩藩・大久保利道が政界から推進していた殖産興業政策を財界から支えたともいわれています。

平成27年後期のNHK連続テレビ小説「あさが来た」では、ヒロインの加賀屋の白岡あさと夫の新次郎を含めてと心を通じている五代友厚を、ディーン・フジオカが演じ、「五代さま」として有名になっています。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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