死者10万人と書かれた資料もある160年前の安政江戸台風 自然災害が続きすぎて江戸幕府の終焉
昔の改元は1月1日に遡って改元
嘉永7年は6月15 日(1854年7 月9 日)に奈良地震で死者1500 名以上、11月4日(12月23 日)に安政東海地震で死者3000~4000名、11月5 日(12月24 日)に安政南海地震で死者数千名という大きな被害が発生しています。
このため、安政に改元となるのですが、昔の改元は、今のように改元された時から新しい元号を使うのでほなく、改元されると、その年の1月1日に遡って改元となります。
このため、嘉永7年6月15日に起きた東海地震は、安政という新しい元号ができたことにより、安政元年6月15日に起きた東海地震ということになり、安政東海地震と名付けられています。安政南海地震も同様です。
安政2年の地震と安政3年の台風
安政と改元されても災害が相次いでいます。それも、幕府の財政基盤である東日本を中心にです。
安政2年10月2 日(1855年11月11 日)には、相模湾を震源とする南関東直下地震により死者4000 ~1万人という被害が発生しています。安政の大地震、あるいは、単に江戸地震と呼ばれる地震です。被災地は江戸を中心とする関東平野南部の軟弱地盤のところで、深川などの海の埋立地や日比谷から神田の埋立地では大きな被害が発生しました。しかし、江戸城の西側に広がる台地の被害は軽微でした。
そして、今から160年前の安政3 年8 月25 日(1856 年9月23 日)には、台風で関東地方が暴風雨となり、「其惨害、実に乙卯の震災 (江戸地震)に倍する」と称せられるほどの被害が発生しています。
江戸湾の高潮で10万人の死者という記録もある
安政3年の台風は、伊豆半島付近から江戸のすぐ北を通過し、江戸湾では大きな高潮被害が発生しました。しかも、このときに、地震も大火も発生しています。高潮だけでも大変なのに、地震と大火が加わっての災害でした。当時の瓦版には、火災も描かれていますので、かなりの大火であったと思われます。
「近世史略」によると死者10万人余となっています。しかし、「安政風聞集」では、その被害について、「家ごとの損失は地震のときの十倍にもなるが、幸いにして人の死亡は去年の十分の一もなかった。」と記録されています。前年の安政江戸地震の死者が4000~1万人ですから、これの10分の1なら、400~1000人となります。
東京市史稿の2倍なら、8000~2万人となります。
このように死者数には大きな差があり、正しいかどうか確かめるすべはありませんが、かなりの死者がでたことは確かです。
そして、旧暦の25日ということは小潮のときの高潮です。これが一週間前の満月のとき、あるいは、一週間後の新月のときの大潮のときの高潮であったなら、もっと大きな被害になったと思われます。
安政3年は、東北地方で凶作となっでいますが、この凶作は翌年も続き、江戸幕府にとってふんだりけったりの災害が続きました。
幕末の動乱で江戸幕府があっけなく終焉をむかえた理由はいろいろ考えられますが、財政基盤である東日本で、これだけの自然災害が相次げば、幕府の財力がどんどん消耗し、倒幕の動きを阻止できなかった遠因となったことは十分予想できます。