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大日本気象学会初代会長・山田顕義と二代・榎本武揚は函館戦争で敵味方

饒村曜気象予報士
函館・五稜郭タワーからみた五稜郭の全景(ペイレスイメージズ/アフロ)

日本気象学会の秋季大会が10月26日から名古屋で開催され、「航空機が気象学にもたらす科学イノベーション」というシンポジウムなどが行われます。

これは、名古屋大学のチームが来年から積乱雲が集中する台風の中へ飛んでゆき、台風を直接観測して発達の予測を正確にしようとする試みが背景にあると思いますが、航空機の利用は、気象学だけででなく、より広い地球科学へ波及することが期待されています。

日本気象学会の前身である大日本気象学会の初代会長・山田顕義と、二代会長・榎本武揚は函館戦争で敵味方です。そして、明治時代の気象業務の発展は最新技術を学んでいた海軍関係者によってです。

大日本気象学会の誕生

明治8年(1875年)6月1日、内務省地理局に現在の気象庁の前身となる気象係(通称は東京気象台、気象庁の前身)が、H.B.ジョイネルを招聘してできています。

このとき、ジョイネルから指導を受けていた正戸豹之助は、明治15年(1882年)5月に勉強会として東京気象学会を作っています。そして、明治16年2月からは荒井郁之助が会長となり、明治17年12月には山田顕義が名誉会長となっています。

明治20年1月に東京気象台が中央気象台に改称されていますが、その翌21年1月、日本気象学会の前身である大日本気象学会が東京気象学会を母体に誕生しています。

初代会長に山田顕義が就任し、幹事長は荒井郁之助で会員数は約250名でした。

明治23年8月に官制改革により中央気象台に台長を置くことになって初代台長に荒井郁之助が就任します。従って、気象庁の初代長官は、新井郁之助ということになります。

そして、大日本気象学会は、山田顕義の逝去に伴い、明治25年12月から榎本武揚が第2代会長になり、約10年間、会長職を努めます。

明治元年の函館戦争では、北海道・函館市にある五稜郭に立籠る蝦夷共和国軍(旧江戸幕府軍)の総裁・榎本武揚と陸軍奉行・大鳥圭介、海軍奉行・荒井郁之助に対し、官軍(新政府軍)の海陸軍参謀・山田顕義、陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助が攻めています。つまり、函館戦争での敵味方が大日本気象学会の初代会長と二代会長です。

なお、大日本気象学会が日本気象学会になったのは、昭和16年(1941年)7月です。

明治の気象学を発展させたのは海軍の人材

黒船の襲来以降、江戸幕府は海軍を作り、それを強化しようと人材育成に力を入れます。

そして、長崎に海軍伝習所をつくり、勝海舟などの幕臣や、薩摩藩など西国雄藩を中心に諸藩からの研修生と聴講生を集めて教育をします。その後、幕府海軍の人材育成は、勝海舟が中心となって大掛かりとなります。このとき、勝海舟を助けて全国を飛び回ったのが坂本龍馬です。

勝海舟の後をついで幕府海軍の責任者となったのが榎本武揚で、榎本を助けて実際の海軍を指揮したのが荒井郁之助です。

こうして、江戸幕府によって多くの人材が、海軍に必要な欧米の最新知識を取り入れています。海軍に必要な知識はいろいろありますが、その中に航海をするのに不可欠な気象学が含まれています。

明治政府は、榎本武揚を逓信大臣などに抜擢したように、幕府側で敵対した人であっても登用しましたので、明治時代の気象業務の発展は、すでに気象学を学んでいた人々、つまり、主に幕府海軍関係者によっておこなわれました。例えば、荒井郁之助の後を継ぎ、二代目の中央気象台長となった小林一知は、幕府海軍の「咸臨丸」の艦長でした。

山田顕義と大津事件

長州藩士の山田顕義は、官軍の参謀として北越戦争から函館戦争まで転戦し、軍功をあげています。当初は陸軍参謀でしたが、函館戦争から陸海軍参謀となり、青森から陸軍を率いて函館の西にある江差海岸に上陸し、五稜郭を攻撃していますが、実際に軍艦に乗って戦ったという記録は見当たりません。

ただ、山田顕義の父親、山田顕行は、長州藩から長崎伝習所に派遣され、帰ってから長州藩海軍頭取になっていますので、子供の顕義も、海軍については造詣が深かったと思われます。

山田顕義は、明治6年に岩倉具視の欧米視察団に同行し、欧米で司法制度を学び、日本の司法制度に大きな足跡を残していますので、後世に軍人というイメージは残っていないと思います。

そして、明治22年10月に日本法律学校(日本大学の前身)を設立し、明治23年11月に皇典研究所の教育機関として開院した國學院(國學院大学の前身)の設立に関与しています。

その後、司法大臣であった明治24年5月11日、ロシア帝国皇太子(後のニコライ二世)が滋賀県大津町(現在の大津市)で警備中の巡査・津田三蔵に切りつけられたという大津事件がおきます。行政の干渉を受けながら司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた重要な事件です。裁判では津田は死刑をまぬがれ無期徒刑となり、青木周蔵外務大臣と西郷従道内務大臣が責任をとって辞職、山田顕義は病気を理由にして司法大臣を辞職しています。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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