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クリミア戦争は赤十字、カーディガンだけでなく、天気図を作って警報を発表する業務のルーツ

饒村曜気象予報士
古い世界地図(ペイレスイメージズ/アフロ)

幕末の日本から遠く離れた黒海が戦場となったクルミア戦争は、その後に多くの影響を残しています。

日本の開国はクリミア戦争の最中

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのマシュー・ベリーが開国を求めて江戸に来航し、1年後に再来日するとして引き返しています。

その1カ月半後の7月18日、ロシアのエフィム・プチャーチンが開国をもとめて長崎に来航しますが、拒絶されて引き上げます。

しかし、翌年、第12代将軍の徳川家慶が死去すると、ペリーは、国勢の混乱をつき、幕府に開国の決断を迫るために、一年後という約束を破って嘉永7年1月に再来航します。そして、江戸湾に9隻のアメリカ艦隊が睨みをきかし、日米和親条約(神奈川条約)が嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に締結しています。

これにより、徳川家光以来200年以上続いた鎖国が終わっています。

そして、イギリスも同年8月23日(10月14日)に日英和親条約を結びます。

クリミア戦争は、日米和親条約締結の4日前にイギリスがロシアに戦線布告し、その翌日にはフランスも続いてロシアに戦線布告したことで始まりました。

クルミア戦争をイギリスと戦っているロシアのプチャーチンは、イギリスの目を避けながら平和理に交渉を行い、12月21日(1855年2月7日)に伊豆の下田で日露和親条約を結んでいます。それも、乗ってきた船が11月4日(1854年12月23日)の安政東海地震の津波によって大破してから1ヶ月半のことです

国際赤十字とカーディガン

クリミア戦争では、イギリスの看護師ナイティンゲールが派遣され、病院で献身的に傷病兵の看護にあたり、看護師の地位を高めています。近代看護の創始者といわれるナイティンゲールの活動が刺激となって、スイス人のアンリ=デュナンの提唱で赤十字社を作っています。

また、クリミア戦争は、服飾用語の「カーディガン」「ラグランそで」を残しています。

「カーディガン」は、その形のセーターを愛用し、勇猛さで有名となったイギリス軍の騎兵隊長のカーディガン伯爵からきています。

また、「ラグランそで」は、襟ぐりから袖下にかけて斜めの切り替えがはいった袖で、脱ぎ着のしやすいことから、この袖のオーバーコートを好んで着用したイギリス軍の司令官の ラグラン男爵からきています。

このように、クリミア戦争は、その後の国際社会にいろいろな影響を与えていますが、天気図を毎日作り、暴風警報発表する業務が始まるルーツにもなっています

クリミア戦争中にフランスの軍艦が暴風で沈没

クリミア戦争は、黒海北部のクリミア半島、中でも半島南部にある要塞都市セバストポーリの攻防が焦点でした。

当時の超大国であるイギリスとフランスは、そろって本国から呼んだ陸兵をクリミア半島に上陸させてセバストポーリを囲み、また、地中海から英仏連合艦隊を黒海北部に集結させています。

これに対し、セバストポーリには精強のロシア陸軍が立て籠り、軍港沖には船を沈めて橋を作り、英仏連合艦隊が入れないようにして対抗しました。

その最中の1854年11月14日、黒海の海上にいた英仏連合艦隊を風力階級12の嵐が襲います。この時の英仏連合艦隊の被害について、まとまった資料はのこされていませんが、イギリスのラグラン司令官がイギリス軍事省に提出した公式戦況報告書では、イギリス海軍の沈没・座礁が21隻、大破8隻となっています。また、フランス海軍は、フランスの軍艦「アンリ四世号」が暴風で錨がきかなくなって浅瀬の方に流され、他のフランスのフリーゲート艦1隻とともに座礁・沈没しています。フランスの5隻の輸送船が海岸に漂着しているのを目撃したという記録もあり、フランス海軍もかなりの被害がでています。

膨大な軍需品が海底に沈んだ英米軍を、記録的な寒波が襲います。冬服の支給がない兵士に伝染病が蔓延し、この惨状をありのままに報じたタイムズ紙によって、前述のナイチンゲール等の医療活動が始まります。

嵐はスペインからきた

嵐で沈没した「アンリ四世号」は、歴戦の殊勲艦で、フランス共和国海軍の象徴でした。

このため、フランス朝野に大きな衝撃を与えています。

軍艦が戦闘ではなく、嵐で沈没してしまったことから、フランスのバイヤン国防大臣は、パリ天文台長のルベリエにこの暴風の成因と遭難の原因調査、対策の立案などを依頼しています。

当時、海軍は暦を作ったり測量などを行う業務を通じて天文台と近い関係にあったこともありますが、気象学という分野が確立しておらず、天体観測を行うために気象を扱っていた天文台に頼むしかなかったのです。

しかも、ルベリエの科学者として高い能力を持っていました。

そして、パリ天文台を中心を各地の気象観測データを集めて調査が行われました。

その結果、11月10日にスペインのイベリア半島で発生した低気圧が、12~13日にオーストリアで発達し、14日に黒海を襲ったことが分かりました。

クリミア半島の北部を北西進したため、クリミア半島南部沖に集結していた英仏連合軍は、強い南西の暴風を受けたのです。

図 「アンリ4世号」を沈めた嵐の経路
図 「アンリ4世号」を沈めた嵐の経路

天気図を作り暴風を予測

ルベリエの調査により、定期的に天気図を作って変化を追跡していけば、暴風の襲来を予想できて、被害が防げることが分かっりました。また、有線の電信が実用化し始めていましたので、気象情報がリアルタイムで集めることができる可能性がありました。

ルベリエは、1855年2月16日に、船舶に対し、接近する嵐に対する警報を発表する目的のシステムを作り、天気予報専門の役所を創設することを上申しました。

これを受け、フランス政府は気象庁を創設、1863年からヨーロッパの天気図を毎日刊行しています。このときの天気図(パリ式天気図)は、それまでに作られていた天気図より進歩したもので、今の天気図に近いものでした。

日本の天気図発行は国力に比して比較的早い

フランスで天気図の連続刊行が国営事業として始まった1963年以降、各国政府もこれにならって天気図の刊行を始めます。

日本で天気図連続刊行は、フランスで最初に天気図連続刊行の25年後、明治16年3月1日からです。そして、暴風警報の発表が始まり、翌年には天気予報も始まっています。

表 主な国で天気図を連続して発行した年
表 主な国で天気図を連続して発行した年

表は、おもな国の天気図発行年です。幕末から明治維新という激動の時代を挟んでの、トップのフランスから25年後です。先進各国からはそれほど遅れていません。

最新の事業を急いで取り入れようとする、先人たちの意気込みを感じます。

図の出典:饒村曜(2002)、気象災害の予測と対策、オーム社。

表の出典:倉嶋厚(1975)、天気図、万有百科大辞典、小学館。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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