神戸、長崎、横浜にある142年前の金星観測の痕跡
幕末開港の神戸、長崎、横浜には、ビーナス(金星)と名前が付いた場所があります。
そこは、142年前に、フランス、アメリカ、メキシコの「ビーナス(金星)観測隊」が観測を行った場所です。
金星の太陽面通過
金星が太陽を横切る現象は、約8年と約100余年の2つの周期で起きます。
最初に観測されたのが1639年12月4日ですが、当時は単に珍しい現象と言うだけで、特別な意味のある観測とは考えられていませんでした。
しかし、イギリスの天文学者で、ハレ一彗星の軌道決定で有名なエドモンド・ハレーが、金星が太陽面を通過する時間を、緯度が違う2ヶ所で以上で観測すれば太陽までの距離を正確に求めることができると提唱してから、意味ある観測に変わっています。
しかし、1761年6月6日、1769年6月3日と続けて、金星の太陽面通過時間の測定が試みられましたが、うまくゆきませんでした。
1874 年(明治7年)12 月9 日、105 年ぶりに金星が太陽面通過しました。写真技術など、いろいろな技術が格段に向上していることから、こんどこそは太陽までの正確な距離を求めることができるとして注目を集め、先進国の観測隊が太陽面を通過する時間を正確に求めることができる場所を求めて、基地を設営します。
北京にフランス隊とアメリカ隊が、シベリアから「万里の長城」付近にかけてロシア隊が、そして日本ヘフランス隊、アメリカ隊、メキシコ隊が訪れています。
ただ、実際に天気が晴れて観測ができたのは日本へ派遣された隊でした。
もっとも、観測には成功したものの、この観測だけでは望まれていた精度の時刻が得られないことがわかり、金星を使って太陽系の大きさを正確に求めるという試みは成功していません。
科学技術吸収を意識した明治政府
行政機関の骨格が出来つつある段階であった明治新政府は、欧米の進んだ科学技術を実地に吸収できるまたとない機会としてこの観測を捉えています。
そして、海軍水路寮に対して、各国の観測隊に随従して観測の便宜を図りながら、観測技術を学ぶことを命じています。
太政大臣の三条実美、海軍卿の勝安房 (勝海舟)、文部卿の木戸孝允など、明治維新の頃に活躍した重要人物がこの金星観測を推進しました。
少しでも欧米の最新技術を学ぼうとする貪欲な姿勢が、短期間で欧米の科学技術に追いついていった大きな要因を思います。
長崎、神戸、横浜
金星観測は、開港したばかりの長崎、神戸、横浜において、港の近くにある小高い山で行われています。
現在は、その港を中心に都市が発展していますので、金星を観測した場所は町を見下ろせる場所になります。このため、観光スポットになり、そこには金星観測を記念した史跡が残され、付近にはビーナスと名付けられた名称があります。
フランス本隊とアメリカ隊が観測を行った長崎の金比羅山には、フランス隊の一行が観測に成功した喜びを記念して建てた 「長崎金星観測碑」があります。
フランス別動隊が観測を行った神戸の諏訪山には「金星台」という神戸の夜景を見ることが出きる観光スポットがあり、「金星観測記念碑」が建立されています。また、近くの六甲山頂への道路はビーナスラインと名付けられています。
メキシコ隊が行った横浜の野毛山にも「金星太陽面経過観測記念碑」があります。
また、日本独自に水路寮では東京の麻布飯倉で、内務省地理寮では東京の品川御殿山で観測を行っています。
その後の金星の太陽面通過
日本で金星の太陽面通過が観測できる可能性があったのは、明治7年から130年後の2004年(平成16年)6月8日です。しかし、この日は前線の影響で全国的に雨や曇りで観測はできませんでした。
ただ、2012年6月6日のときは、台風3号が関東の南海上にありましたが、晴れて観測ができています。
このように、天体観測には気象の影響を強く受けます。
このため、気象台ができる前から誕生している天文台において、気象観測や天気予報の試みがなされています。
例えば、世界で初めて、毎日天気図を作成し、天気予報や暴風警報を発表する業務がフランスで始まったきっかけは、パリ天文台長のルベリエによるクリミア戦争においてフランスの軍艦・アンリ四世号を沈没させた嵐の調査です。
金星の観測が行われた明治7年は、内務省地理寮に東京気象台(気象庁の前身)ができる2年前になります。