日本の国際線第一便(日本航空)がサンフランシスコに飛び立ってから63年
国際線第一便
今から63年前の昭和29年(1954年)2月2日、戦後日本の国際線第一便として、日本航空のDC-6「シティ・オブ・トウキョウ」がサンフランシスコに飛び立ちました。
国際線のDC-6の定員36人に対し、乗客は5人と言われていますが、実際は21人です。
有料乗客が5人で、残りが招待客です。その後も、有料客は一便平均わずか8.5人でした。
日本航空では乗客が少なかった理由として、次の2点をあげています。
(1)渡航手続が1、2ヶ月かかるので、1月12日からの予約受付では2、3月の乗客がたいてい外国航空会社に予約してしまったこと
(2)2、3月は旅行の冬枯れ時期であること
そして、当初の3か年計画にあったロンドン等の他都市への展開をやめ、サンフランシスコ線に集中して基礎を固めたいと、方針転換をしています。
料金体系が今とは違っていますが、ツーリスト料金でサンフランシスコまで17万5700円と、物価水準を考えると非常に高い料金です。
表1は、日本航空の広告にあった国際線の運賃ですが、当時の沖縄は外国扱いでした。
そして、2月5日に始まった沖縄線も、招待客を除くと、有料客は一便平均6人と少ない乗客数でした。
米・ダグラス社が作ったDC-6は、4つのエンジンを持つプロペラ機で、速い速度で多くの貨物を運べるジェット機が登場しつつあり、国際線での競争では不利でした。
ただ、優秀機であることにはかわりなく、国際線第一便の10年後の昭和39年10月に開催された東京オリンピックでは、聖火をアテネから日本国内まで空輸する大役を任されています。
早くも気象の影響
東京ーロサンゼルス便は、3機のDC-6を用いて行われましたが、その3機には、東京、京都、奈良という3都市の名前が付けられていました。
乗客が多かった2月14日の東京着便(シティ・オブ・キョート号)では、旅客収入が499万円、貨物収入32万円、郵便収入25万円に対し、かかった費用が750万円と約200万円の赤字でした。ホノルルからの乗客12名が含まれていたため、乗員の割には旅客収入が少なかったためです。シティ・オブ・キョート号 は、2月14日13時30分着の予定でしたが、羽田空港が雪のために降りれず、14時30分に宮
この2月14日の東京着便は、早くも気象の影響を受けています。
城県の松島飛行場に緊急着陸しています。
そして、羽田着は20時51分、約6時間半の遅れでした。
飛行時間が行きと帰りで違う
国際線第一便が始まった頃に比べると、航空運賃がかなり安くなり、多くの人が海外旅行をする時代となっています。
旅客輸送は絶対安全であることが求められますが、経済性・定特性や快適さも求められます。そして、これらは気象に深く関係しているからです。
飛行機が進歩し、ジェット機が主流となってきましたが、絶対安全や経済性、快適性ということが求められていることは、いまでもおなじです。
このため、主な空港には気象台や測候所がなどが設置され、航空機を支援しています。
東西方向の飛行時間が行きと帰りで違うのは、気象を経済性のために使っていることの反映です。
日本・サンフランシスコ便など、中緯度から高緯度の東西方向の空路を飛ぶ飛行機では行きと帰りの飛行時間が大きく異なります。これは、この空路に当たる対流圏上部から成層圏下部にかけて強い西風が吹いているからです。成層圏を飛ぶ飛行機は、この強い西風の影響を大きく受けてしまいます。
西から東へ飛ぶ飛行機では、できるだけ強い西風に乗るような飛行コースをとり、少ない燃料で早く目的地につけるようにします。また、燃料が少ないと、それだけ多くの荷物を詰むこともできます(図)。
逆に、東から西へ飛ぶ飛行機は、西から東へ飛ぶ飛行機に比べて、燃料も時間もかかりますが、できるだけ燃料の消費増加を抑え、飛行時間もあまり延ばさないように、強い西風を避け飛行しています。
強い西風は冬ほど顕著ですので、行きと帰りの飛行時間の差は、夏より冬の方が大きくなります。ただ、海外旅行といっても、成田とオーストラリアのシドニー間といった南北方向の飛行の場合は、行きと帰りの飛行時間はほぼ同じです。また、国際線ほど大きな差ではありませんが、国内線でも同様に差があります。福岡から東京への飛行は、東京から福岡への飛行に比べて20〜30分短いのですが、東京から札幌までの飛行ではそれほど差がありません。
図の出典:饒村曜(2014)、天気と気象100、オーム社。