流氷(海氷)が北海道・襟裳岬の緑化の仕上げ 「なにもない春」から「豊かな春」へ
地球の海のうち、南極や北極に近い極地方を中心に1割の海が凍っています。
陸続きに接岸して動かない海氷を定着氷、岸から離れて漂っている海氷を流氷といいますが、海氷のほとんどは流氷です。
オホーツク海南部は世界で一番低緯度で凍る海
一番低緯度にある流氷は、オホーツク海南部のものです。
11月には北緯55度位に位置するシャンタル諸島周辺から結氷しをはじめ、サハリン島の海岸線に沿って結氷域が拡大、3月にはオホーツク海の8割が凍ります。
また、流氷は宗谷海峡からの日本海北部に流出したり、根室海峡などを通って太平洋に流出することもあります。
オホーツク海は、アムール川から流れ込む大量の淡水が海の表面に塩分の薄い層を作るため生じる現象ですが、同時にアムール川からリンなどが流れ込むために大量のプランクトンが発生し、世界有数の漁場となっています。
流氷に完全に閉ざされた期間は漁が行われませんが、流氷が襲来する直前や流氷が沖合に去った直後も漁業活動が活発であることから、海難の発生も少なくありません。
襟裳岬の流氷の恵み
流氷は災害だけでなく、恵みももたらします。その一つが襟裳岬の恵です。
北海道の襟裳岬の沖合は、津軽海峡を通って東進してきた暖流と、千島列島の東を南下してきた寒流がぶつかることから、そこにある岩礁では良質の昆布がとれ、回遊魚や沿岸魚が多く生息しており、海の幸に恵まれた土地でした。
しかし、明治以降の移住者の増加により襟裳岬に広がっていた原生林の急激な伐採が進み、全国有数の強風によって砂漠化し、沖合までの土砂が流入して、海の恵みまでなくなってしまいました。そして、わずかにとれた昆布も、出荷前に浜で乾かしていると、舞い上がった砂がかぶることが多くなり、結果として商品価値が下がる有様でした。
吉田拓郎が昭和48年12月に書いた名曲「襟裳岬(作詞:岡本おさみ、歌:森進一)」では、サビ部分に「襟裳の春は何もない春です」という歌詞があります。発売当時は、地元から反発があったと言われているサビ部分ですが、「何もないような荒れた土地ではあるが人情がある春です」の意味と思います。
襟裳岬の緑化事業が始まったのは、昭和28年からです。
北海道営林局と地元漁民による緑化事業が始まり、草をはやすだけでも昭和42年までかかっています。
その後、草地に黒松の苗木を植えるという本格的な緑化が始まり、森が増えるにつれ、育まれた腐葉土から栄養分が海に流れ出し、不毛の海は豊な海にゆっくり変わっていゆきます。
昭和59年の流氷
寒気の南下が著しかった昭和59年、流氷は2~3月にかけてオホーツク海から歯舞諸島付近を通って太平洋に流れ出しています。
昭和59年に気象庁が発表した海氷情報を見ると、3月20日はオホーツク海から歯舞諸島付近を通って密集度が1から3の流氷が、北海道沿岸の海面水温が2度の以下の冷たい海を親潮に乗って南下しています(図1)。そして、3月23日には、細長く伸びた流氷がちぎれ、その一部が襟裳岬に漂着しています(図2)。
この漂着した流氷が沖合に去るとき、襟裳岬付近の海底に蓄積していた土砂を沖合いに運び去り、豊かな海が復活する最後の仕上げの大掃除をしています。
こうして、植林事業と流氷によって豊かな土地に変わっています。
時代に合わせれば、「襟裳岬」の歌詞は、書き直しが必要なのかもしれません。
流氷の観測は衛星で
気象衛星が打ち上げられると、すぐに流氷観測にも利用されます。
レーダーを搭載した軌道衛星であれば、雲を通しての流氷の観測が可能ですが、初期段階から使われている、太陽光の反射を観測する可視画像でも十分な流氷観測が可能だからです。
図3は、気象衛星「ひまわり」から見たオホーツク海南部ですが、雲の間から、流氷の細かい模様が見えます。一枚の画像では、流氷か雲か判断が難しいことがありますが、雲であれば、次の時刻の画像で移動しますので、連続する画像があれば、判断は容易です。
雲があると雲の下にある流氷は観測できませんが、雲は動いてくれます。流氷の動きは雲の動きに比べて遅いので、ある程度の時間をかければ、雲のすき間からの観測を積み重ねることで、全貌を十分につかむことができるからです。
私が昭和48年に新採用で勤務した函館海洋気象台では、当時の海上気象課で、アメリカの軌道衛星が撮影した衛星写真を紙に焼いて並べ、手作業で流氷を解析していました。静止気象衛星「ひまわりが打ち上げられる前、コンピュータの能力があがる前の話です。