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日本海北部のほうが流氷による海難が多い 女満別空港から流氷観測の一番機は82年前

饒村曜気象予報士
宗谷岬に広がるオホーツクの海(ペイレスイメージズ/アフロ)

日本海北部の流氷による海難

日本海北部の海氷面積は、オホーツク海の海氷面積の4~5%と小さいのですが、この海域は普段は流氷が少ないことから、貨物船や漁船が多く航行しています。

海氷に完全に覆われた海域は、ものもと船が近づかない(出航しない)ので海難はありませんが、普段であれば海氷がこない海域で船舶が航行、或いは漁船が操業しているときに流氷がくると海難が発生しやすくなります。

つまり、流氷に覆われることで船舶がいなくなるオホーツク海では海難は発生しませんが、時折、シベリア大陸やサハリン沿岸の流氷がちぎれて海間を漂う、あるいは、オホーツク海の流氷が宗谷海峡を通って入ってくる日本海北部は、流氷シーズンであっても木材運搬船などの貨物船が多数往来し、タラやニシン漁のために漁船も多く出漁しています。このため、オホーツク海よりも流氷による海難の危険性が高いといえます。

日本が明治38年(1905年)の日露戦争に勝利し、「ポーツマス条約」で樺太南部(現在のサハリン南部)が日本領となってから、太平洋戦争の敗戦を受けて放棄するまで、稚内と大泊(現在のコルサコフ)を結ぶ稚泊(チハク)連絡船など、今よりも船舶の航行が盛んでした。このため、流氷による欠航や遅れ、海難などに悩まされてきました。

日本海北部の流氷被害

宗谷海峡への流氷の進入や稚内沿岸への接岸は、宗谷海峡東口付近までオホーツク海の海氷が迫っているときに、低気圧で東よりの強風が吹いたときに急激におきます。

稚内港を中心とした北海道北部の物流に支障をきたし、利尻島や礼文島は孤立化します。

また、流氷が漂着した場所では、昆布などの沿岸資源や漁網、漁具などに被害は発生します。

ただ、日本海は対馬暖流が北上しており、分散融解作用によって長期間停滞することは少ないので、流氷域といってもびっしりと氷が張っているわけではありませんので、流氷の情報に注意をし、危険な場所から逃げることが可能です。

日本海北部の海氷による海難

海氷に関する情報が充実してきたため、近年は日本海北部での流氷による海難は減っていますが、昭和31年から55年までに、日本海北部の海氷による海難は11例あります(図1)。

図1 北海道北部の流氷による11の海難と流氷の最大域
図1 北海道北部の流氷による11の海難と流氷の最大域

過去に海氷により大きな海難が発止した場所は、流氷の最大域に近い海域とです。

昭和48年3月24日におきた、日本海北部最大の海氷による海難(図1の8番)も、このような場所です。

昭和48年3月24日00時30分、モネロン島(日本統治時代は海馬(トド)島)付近で、基地としていた利尻島の沓形にタラを満載して帰港途中の刺し網漁船(49トン)が流氷と衝突・沈没し、乗員9名全員が行方不明となっています。「流氷に衝突し、浸水はなはだしく、海馬島向け接近中」、「沈没する、沈没する、至急頼む、ボートに移る」というのが最後の通信でした。巡視船や航空機、僚船等の大がかりな捜索がただちに行われましたが、無人のゴムボートが発見されただけで捜索は打ち切りとなっています。

当時、低気圧が積丹半島付近で停滞しながら発達したため、日本海北部では東よりの風が毎秒20メートル以上という大時化となり、多くの漁船が時化をさけてソビエト連邦(現在はロシア)領海内に続々と緊急入域をしていました。

モネロン島付近の流氷は、3月23日11時に宗谷海峡東口の北見枝刺とサハリンの宗仁岬にあった流氷群が低気圧に伴う南東から東の風によってモネロン島付近まで一挙に張り出してきたと考えられています(図2)。

図2 昭和48年3月24日頃の流氷の西端
図2 昭和48年3月24日頃の流氷の西端

この場合の平均漂流速度は時速6キロメートルと、流氷の移動速度としてはかなり早いものでした。

当時、稚内地方気象台はモネロン島近海の予報は行っていなかったものの、次のような流氷についての予報を、23日13時に発表しています。

今夜から明日にかけて、南東のち北よりの風が強まるので、流氷の動きが早く、明日は接近増加してくる見込みなので、船舶は注意。

流氷に関する情報

今年は、1月25日に北海道の稚内地方気象台から稚内での流氷接岸初日が発表されました。昨年より38日、平年より19日も早い流氷接岸でした。

しかし、北海道の網走地方気象台から、網走の流氷接岸初日の発表は2月2日と平年並でした。昨年よりは20日早いのですが、オホーツク海沿岸の流氷は、立春の少し前から始まって3月末まで続きます。

なお、稚内と網走の間のオホーツク海沿岸には、北見枝幸測候所と雄武測候所が平成16年まで、紋別測候所が平成19年まで流氷を観測していましたが、現在は無人化となって流氷の目視観測を行っていません。

流氷の観測は、陸上からの目視観測だけでなく、主たる観測は空からの観測です。

現在は、気象衛星による観測が主たるもので、海上自衛隊や陸上自衛隊等による飛行機による観測も行われています。

気象衛星の利用は最近の話ですが、飛行機による流氷観測は、飛行機がヨチヨチ歩きの時代から行われていました。

飛行機を用いた最初の観測が行われたのは、今から82年も前の昭和10年3月23日のことです。

使用された空港は女満別中央気象台空港、のちの、北海道の代表的な空港である女満別空港です。

昭和9年は、いろいろな気象災害が一度に起きます。関西室戸を襲った室戸台風による風水害、九州を中心とした西日本の干ばつ被害、そして、北日本の大冷害です。北日本は、夏になっても気温が上らず、東北地方の水稲の作況指数は61と大凶作となってます。

当時、オホーツク海及び千島近海の結氷は凶冷の原因ではないかということがいわれ、農林省の委託事業として、オホーツク海及び千島の結氷状態を実用化しはじめた飛行機で観測することになりました。

このため、昭和10年に女満別村の村有競馬場を借りて作られたのが女満別中央気象台空港です。村民総動員の協力による突貫工事で、1週間あまりで女満別気象台空港の滑走路(長さ300メートル、幅50メートル)を作っています。

そして、3月23日に初の流氷観測のために飛行機(10式艦上偵察機)が女満別村始まって以来の人出のなか、大歓声におくられて飛び立っています(本格的な流氷観測は、翌年からです)。

今後ロシアとの交流が盛んになれば、日本海北部はさらに多くの商船、貨物船が往来すると考えられます。

今まで以上に日本海北部の流氷についての警報や情報、低気圧などの気象警報や情報の充実が必要と思います。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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