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共働き家庭の子どもは「かわいそう」ですか?

小川たまかライター

先日、結婚したばかりの友人の男性がこんなことを言った。

「子どもができても奥さんにはずっと働いてほしい。だって、専業主婦の子どもってかわいそうじゃない? 社会を知らない世間知らずな母親に育てられるってことだよ」

ひどい偏見だと感じる人が多いだろう。私もそう思う。配慮がない、決めつけの強い意見だと思う。彼自身、友人である私との1対1の会話だから言ったのであって、きっと実名で行っているSNSでこんなことを発言しないはずだ。

ただ、逆のことを言う人は少なくない。それはずっと当たり前のように言われてきた。

「共働きの家の子って、かわいそうだよね」

「子どもが小さい時にお母さんがそばにいないのって、かわいそうだよね」

■「かわいそう」かどうかを決めるのは子ども自身

先日発表された、マッチアラーム社が行った調査によれば、20~30代の独身男女のうち、約8割が結婚後に共働きを希望しているという。経済的な不安や、「お互いに自立していたい」などの理由がある。ただ、公開されているそれぞれの意見を見てみると、男性は「子どもが生まれるまでは」という期限付きでの共働きを希望している人も多い様子。また、共働きを希望しない男性の意見では、やはり「子どもがかわいそうだから」というものがある。

私は女性の働き方についての記事を書くことが多いが、以前、自分の記事に対してこんな風に言われたことがある。

「子どもの視点が抜けた記事だ」

続けてこんな内容のことを言われた。

「母親が外で働く家庭で育った子どもの情緒的な不安定さを知っているんですか?」

「子どものことを考えたら、親が家にいるのが本来のあり方」

「子どもがかわいそうでしょう?」

軽い衝撃だった。なぜなら、私は共働き家庭で育ったからだ。小学校までは保育園、小学校に上がってからは3年生まで放課後は学童保育に通った。子どもの頃の私は「かわいそう」だったのだろうか? 共働き家庭で育った私は、そうではない家庭で育った人と比べて、どこかおかしいのだろうか? 母が専業主婦だったら、もっと優れた人間に育っていたのだろうか? 

もちろん、こんな疑問に答えはない。

古い記憶を思い起こしてみると、子ども時代の私は母が働いていることについて、「誇り」に近い感情を持っていた。それはおそらく、私の両親が私に対して、「母には仕事があり、それは大事な仕事である」「母は仕事と家庭のことを両立している。我が家にはその必要がある」「忙しいから、他の家と同じようにいかないこともあるけれど、他の家と違うことはおかしなことではない」ということを何かにつけて教えていたからだと思う。保育園時代は、周りの子どもも共働き家庭だったので、特に何も感じることがなかった。

小学校に上がってから、一番印象深いのは、年に1回か2回ぐらいあった避難訓練のときのことだ。ほとんどの子は保護者が迎えに来て一緒に帰る。共働きの家の子は各学年に何人かいて、他の子がみんな帰った後までずっと待って、それから先生と一緒に帰る。年配の女性教師は、別に悪い人ではなかったと思うけれど、残って待っている私たちに向かって「ステゴザウルスの子たち」と言った。そんな時はなんとなく、「親が迎えに来ないことをさみしがっている子ども」「親がいなくていじけている子ども」を演じなくてはいけないような気分になった。

働く母の元で育った子どもで、「さみしかった」という記憶を持つ人はもちろんいるだろう。私の友人でもそういう過去を話す人はいる。私自身のことで言えば、親の不在によるさみしさよりも、働く母を責める周囲からの言葉や、「共働きの子どもはかわいそう」という目線の方が記憶に残っている。冒頭の発言をした男性の友人は専業主婦家庭で育った人だ。共働き家庭で育ったこと、そうではない家庭で育ったことがその人にどんな影響をもたらすか。それは一概には言えない。

言いたいのは、かわいそうかどうかを判断するのは子どもであって、周囲が「この子の境遇はかわいそう」と安易に決めつけるべきではないということだ。子どもがかわいそうと決めつけることは、「子どもの立場に立って考える」こととは全く違う。もしかしたら、他人の子どもに「かわいそう」というレッテルを貼ることで、安心を得たい人たちがいるのかもしれない。

■人の子育てを笑うな

働く母たちを取材していると、子どもを保育園に預けることを「申し訳ない」と思っている人もいるとわかる。私が保育園育ちだということを話し、「母には仕事があって、それが大切な仕事だということを理解していました」という話をすると、お母さんたちがホッとした顔をしたり、その隣にいる同僚の女性から「ほら、大丈夫なんだよ」と励まされたり、ということもある。

そんなお母さんたちの表情を見るたびに切なくなる。どうか自分が働いていることで、「子どもがかわいそう」と思わないでほしいと思う。子どもをしっかりと見てあげること、愛情を注いであげることは大切だけれど、母親が「かわいそうな子ども」だと思ったら、子どもは自分自身を「かわいそうな子ども」だと思ってしまう。自分は家庭を愛しているのと同時に、仕事に誇りを持っているということを、どうか伝えてあげてほしいと思う。

日本では、20歳を過ぎれば大人と言われる。「20歳になったら、自分の責任は自分で取るべき」と言われる。責任を取るとはどういうことだろうか。それは、自分の現在を自分の生まれた境遇のせいにしないということなのではないか。共働きであったとしても、そうでなくても、親が子どもに与える教育は家庭によって差がある。もっと恵まれた教育を受けられれば、もっとお金のある家に生まれれば、もっとまともな親の元に生まれることができれば、もっとまともで優秀な人間になれたかもしれない。そう思いたくなることもある。でも、それを言ってしまったらきりがない。生まれ育った環境のせいにしようと思えば、いくらでも、どんな人でもそれは可能だ。20歳になったときに、これからの自分の道は自分の努力次第ということを自覚できる人間であれば、親の子育てはそこで完了していると私は思う。そこに至るまでの過程でどんな教育をしようと、親がどんな働き方をしようと、それはそれぞれの家庭の自由であるはずだ(養育放棄や虐待の場合をのぞいて)。

「共働きだとかわいそう」

「ひとりっこってかわいそうだから」

「ミルクで育てるなんてかわいそう」

人の家の子育てに、手は出さないけど口を出したがる人というのはいる。『人のセックスを笑うな』という小説があったけれど、「人の子育てを笑うな」と強く思う。専業主婦であれ、共働き家庭であれ、横から手も出さずに「子どもがかわいそう」とだけ言う人の言葉になんて、決して耳を貸してはいけない。

<参考>

3歳児神話を検証する2~育児の現場から~

「保育園に預けられる子どもはかわいそう」? 子育ては家族の責任か

子供にとって「かわいそうなこと」とは

ライター

ライター/主に性暴力の取材・執筆をしているフェミニストです/1980年東京都品川区生まれ/Yahoo!ニュース個人10周年オーサースピリット大賞をいただきました⭐︎ 著書『たまたま生まれてフィメール』(平凡社)、『告発と呼ばれるものの周辺で』(亜紀書房)『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を』(タバブックス)、共著『災害と性暴力』(日本看護協会出版会)『わたしは黙らない 性暴力をなくす30の視点』(合同出版)など

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