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阪神・淡路大震災から20年 あの朝、鳴尾浜では…(1)

岡本育子フリーアナウンサー、フリーライター
1994年秋に完成した鳴尾浜球場。あの震災と同じ時を過ごし、20歳になりました。

阪神・淡路大震災から20年。1年前に、こんな記事を出しました。この先を読んでいただく参考にしてくだされば幸いです。

『阪神淡路大震災から19年、阪神鳴尾浜球場の歴史と同じです』

上記の記事と少し重なりますが、現在の阪神タイガース選手寮と球場が完成したのは1994年秋。12月に引っ越しを済ませたばかりの寮生も、翌年1月に入寮したばかりのルーキーも鳴尾浜であの大地震に遭遇しました。その中から何人かに連絡を取って、聞かせてもらった話をご紹介します。その頃20歳前後だった彼らも40歳前後。でもLINEやメールで連絡をすると、速攻で電話がかかってきます。みんな仕事中なのに…。ありがとうございました!

◆井上貴朗さん(39歳)◆

1993年ドラフト5位 千葉・佐倉高出身の投手。同期には藪恵一(恵壹)投手、平尾博司選手、高波文一選手、中里鉄也選手がいました。阪神から2002年にロッテへ移籍、2004年から巨人打撃投手。引退後は4年間の飲食店経営を経て、現在は会社員。兵庫県在住です。

「怖かったですねえ…あれは」

2年目のシーズンを迎え、自主トレのため寮に戻っていた井上さん。2011年には千葉で東日本大震災も体験していますが、20年前のおそらく人生初といっていい衝撃に「怖かったですねえ。あれは」と当時を振り返りました。「隣の部屋が北川さんで、北川さんは埼玉、僕は千葉だったので、これは関東がヤバイんじゃないかって話をしたと思います。寮の公衆電話で家にかけて『大丈夫だよ』と伝えたんですけど、すぐだったからよかった。そのあとはもう電話が全然つながりませんでしたね」

明るくなってから外の様子は見た?「はい。グラウンドは水浸しでグチャグチャ。液状化現象で道路も歩けないくらい。それにトレーニングどころか、水も出ないし。2日間は何とかしのいで、寮長が『家に帰れる人は帰りなさい』と。すぐ飛行機を予約して千葉に帰りました。そのあとはキャンプに行くまで実家ですね。一応、トレーニングはしていたけど、やっぱり足りなかったかな…いま思えば」。そりゃそうですよね。キャンプがあるかどうかさえ、ギリギリまで決まらなかったんですから。とはいえ野球を仕事とする限りは準備しておかなくてはならない。不安だらけだったと察します。

それから、こんな話を。「みんなが2階のロビーへ降りてきて話をしていたのに、大石さんがいなくて。部屋を見にいったら…まだ寝ていました」。あの揺れに気づかないなんて、まさか。「そのまさかです」と思い出し笑い。もちろん、誰も怪我することなく顔を合わせられたからこそです。当時は笑うどころではなかったでしょう。でも大石さんの寝起きの顔を見て、みんなの気持ちが少しは和らいだかもしれません。

ちなみに大石さんとは、大石昌義投手のこと。1991年に広島へ入りますが故障もあって2年で退団、1994年に打撃投手として阪神へ。チームの投手不足からシーズン途中、急きょ現役復帰して話題になりました。彼も移籍して寮に入ったばかりです。

◆北川博敏さん(42歳)◆

1994年ドラフト2位 日大出身。捕手で入団し、のちに内野手。同期は山村宏樹投手、田中秀太選手、川尻哲郎投手、矢野正之投手。2001年に近鉄へ移籍、2005年からオリックス。2012年に現役を引退し、2年間はオリックス2軍打撃コーチ。昨秋よりオリックスの事業本部企画営業部へ移り、トークショーの司会もこなしています。

「湾岸線のライトが消えた」

1月10日に入寮し、新人合同自主トレが始まって1週間。「いや~もう凄すぎて…みんな自然に2階のロビーに集まったんですよ。大石?そうそう、寝てましたね。あのころ携帯電話はそんなに普及していなかったけど、中川(申也投手。秋田経法大付属から入団して4年目)が持ってた。秋田の実家にかけて無事を確認していました」。選手が携帯を持ち始めて、1年生による“電話番”がなくなった頃。こんなところでも時代を感じます。

それからどうしたんですか?「まだ暗かったので、とりあえずもう一回寝ようと部屋へ戻ったんですよ。その日も自主トレがあったから。でも余震もすごかったし、テレビを見たら大変なことになってるって平尾が起こしに来て。それと雨音みたいなのが、ずっと聞こえてた。外を見たら駐車場が泥だらけ。タイヤ半分くらい埋まってたんです。あとで寮長がスコップで泥をかき出してましたね」

グラウンドのレフト側のフェンス。コンクリートがずれたままです。
グラウンドのレフト側のフェンス。コンクリートがずれたままです。

関東にいた北川さんにとっても衝撃だった?「僕は寝坊するのが嫌なんで、いつもカーテンを開けて寝るんです。白い薄いカーテンだけ閉めて。窓から見える湾岸線のオレンジのライトが、あの瞬間にバチッ!と消えたのを覚えています。それから上半身だけ起こして揺れに耐えている時に、買ったばかりの鏡がバーンって倒れて割れたのも。それから寮にいる間は、怖くて部屋のドアを閉めて寝られなかった」。かなり鮮明な記憶です。

北川さんは出身が兵庫県伊丹市。その後、一家は埼玉へ引っ越しますが、家は残ったままでした。親御さんから見に行ってほしいと言われ「川尻さんの車で連れていってもらったんですけど、鳴尾浜から甲子園口まで3時間くらいかかって…(通常なら車で20分程度)」諦めたそうです。寮では「おばちゃんが作ってくれた食事を寮長に運んでもらったけど、水もガスも止まっていたから風呂も入れませんし。トイレも1階だけ使って、風呂の水で流してました。で、寮長がみんな帰れと」

「川尻さんが誘ってくれた」

実家には帰らなかったんですね?「川尻さんに声をかけてもらって、平尾と僕は日産自動車(神奈川)で一緒に泊まって練習させていただきました。なんせ1年目なので、自主トレの流れも何もわからないままだったから」。それはありがたいことですねえ。キャンプのあと、オープン戦が甲子園でなく日生球場で開催されたため、大阪のホテルに宿泊したりしていましたが、それもルーキーにとっては異例であることすらわからなかったと言います。

キャンプは現地集合だと聞きましたが、本当に空港集合とかじゃなくて“現地”だったみたいで「確か高知空港からタクシーに乗ったような。1万円くらいかかったような」と北川さん。あの当時だと、安芸から高知市内で1万円以内なので、そんなにしないでしょう?と言ったら「8000円くらいかなあ。でも大学生にとってはメチャクチャ贅沢なタクシー代ですもん」と。確かに。

とても詳しく思い出してくれて助かりました。いや、思い出させて申し訳なかったかなというくらいですね。目や耳や体が、今も忘れずにいるのでしょうね。まずは2人のコメントをご紹介しました。続く『阪神・淡路大震災から20年 あの朝、鳴尾浜では…(2)』安達智次郎さん米村和樹さん、同級生2人の話を書かせていただいています。

フリーアナウンサー、フリーライター

兵庫県加古川市出身。MBSラジオのプロ野球ナイター中継や『太田幸司のスポーツナウ』など、スポーツ番組にレギュラー出演したことが縁で阪神タイガースと関わって約40年。GAORAのウエスタンリーグ中継では実況にも挑戦。それからタイガースのファームを取材するようになり、はや30年が経ちました。2005年からスポニチのウェブサイトで連載していた『岡本育子の小虎日記』を新装開店。「ファームの母」と言われて数十年、母ではもう厚かましい年齢になってしまいましたが…1軍で活躍する選手の“小虎時代”や、これから1軍を目指す若虎、さらには退団後の元小虎たちの近況などもお伝えします。まだまだ母のつもりで!

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