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阪神・淡路大震災から20年 あの朝、鳴尾浜では…(2)

岡本育子フリーアナウンサー、フリーライター
現在の鳴尾浜球場。地震の直後はセカンドあたりに大きなうねりが生じ、液状化現象も。

きょう1月17日、阪神・淡路大震災から20年となりました。阪神タイガースの新しいファーム本拠地である阪神鳴尾浜球場と、選手寮『虎風荘』の完成が1994年秋。新しい施設でスタート、という矢先に起こった未曾有の大惨事です。選手も球団も、さらにプロ野球界全体が不安を抱えながらスタートさせたシーズンでした。あの日、鳴尾浜で朝を迎えた選手たちの中から、今回は同級生だった米村和樹さん安達智次郎さんの話をご紹介します。

◆米村和樹さん (40歳)◆

1992年ドラフト3位で、熊本商科大学付属高(現・熊本学園大学付属高)から入団した投手。同期には安達智次郎投手、竹内昌也投手、片山大樹選手、山本幸正投手、塩谷和彦選手、山下和輝選手、豊原哲也選手がいます。1997年に退団。地元の熊本へ戻り、電機関係の会社で16年勤務。昨年から家業の電気工事店を継ぎました。草野球では3チームを掛け持ち、投手ではなく打ちまくっているそうです。

「成人式の2日後でした」

米村さんはプロ3年目の年でした。鳴尾浜で自主トレを始めますが、15日は熊本で開催された成人式に出席して16日に再び寮へ戻ったそうです。その翌朝のことで「もう何が何だかわからなかった」と言います。そして北川博敏さんも井上貴朗さんも口にした、例の名前がまた出てきました。「とりあえず2階に集合したら、大石さんだけいなくて。もしかして門限破り?なんて言いながら見に行ったら寝てた(笑)」。20年の時を経ても、みんなの記憶に残る大物ぶりです。

豊原選手は2年で退団したため、もう寮にはいませんでしたが、同級生の多かった年。その中で「安達はすぐ帰りましたよ。寮から神戸の方を見たら真っ赤だったんですよ。車で帰ったのかな。いやタクシーで7、8万円かかったと言っていたような気がする」と教えてくれたんですが、この米村さんの記憶は安達さんと少し誤差が生じます。あとで本人の話で確認しましょう。でも間違いではありませんでした。

3日目に帰省する際も米村さんいわく「伊丹空港までタクシーで向かったけど、途中からは車が通れなくて歩いた」とのこと。そういえば北川さんも、上りの新幹線に乗るため京都まで在来線で行ったと話していましたね。「キャンプは現地集合。僕は熊本から伊丹を経由して高知へ行ったはず」と記憶をたどります。最後に「ほんと怖かった…」とつぶやく声は昔と変わりませんが、続けて「20年ですよ、もう。40ですからねえ」と。

現在のスタンド。20年前は一、三塁ベンチ上の席がまだありませんでした。
現在のスタンド。20年前は一、三塁ベンチ上の席がまだありませんでした。

そんな米村さんは昨年末、大阪での『学生野球資格回復制度研修会』に参加して、懐かしいOBの方々に会ったと話していました。合格すれば母校のコーチができる日も近いとのこと。楽しみにしています。

◆安達智次郎さん (40歳)◆

兵庫・村野工高から1992年のドラフト1位で入団した左腕。1998年からは高い身体能力を買われ外野手に転向しました。1999年は投手に再転向するも、結局1軍登板がないまま、この年限りで現役を引退。1年のブランクを経て阪神の打撃投手となり、2002年に退団。直後から神戸・三宮で焼酎バーをオープンして、現在に至ります。

まずは米村さんの話と照らし合わせてみましょう。寮から西の方角を見たら、街が真っ赤になっていた?「いや、まあ神戸の方に煙が上がっているのは見えましたね。その前に、部屋にいたらインターホンで『安達、テレビを見てみろ!』と寮長が教えてくれて。それで見たら火事で真っ赤になってた」。なるほど。安達さんの実家は神戸市長田区ですからね。あの時、確か親戚の方や同級生が亡くなったと言っていました。

「そうです。母の妹が亡くなりました。探しにいったんですけど、タケウチヨシコさんが遺体で見つかりましたと連絡を受けて。父も母も兄も、みんな怖いと言うから一番年下の僕が確認したんですよ。最初は焼死という話やったのが、最終的には圧死でした。古い家やったから。それに同級生とか後輩とか6人亡くなっています」

「自転車とタクシーで往復」

実家付近の状況と、その叔母さんを探すために帰ったわけですね?「最初は自分の車で行きました。でも寮を出てすぐ小さな陸橋があって(鳴尾浜1丁目付近)、そこがズレていて動けんかったんです。だから寮へ戻って自転車に乗り換えて…」。えっ!自転車で神戸まで帰ったの?「そうです。そのチャリンコで叔母を探していました」。なるほど、じゃあタクシーで帰ったというのは米村さんの記憶違いかな。

ところが、この話には続きがあります。「いったん寮に帰ろうと自転車のとこに戻ったら、サドルを盗まれていて、下り坂のとこは立ったままで何とか行けたんですが、さすがにサドルなしでは無理やなあと思って、途中で捨てました。そこからタクシーに乗った。乗ったのはいいけど、今度は30メートル進んで30分止まるの繰り返し。おまけに高速が倒れてたり、道がくぼんでいたりで有馬を回ったから、長田から西宮まで11時間!」。大変でしたねえ。

料金は?「69990円」。えらい細かい数字まで。「それは覚えてます!」。米村さんの話、間違ってはいませんね。ちなみに、このとき梅本寮長が出迎えてくれて「ところで、オレの自転車知らんか?」と聞かれたそうです。「実は乗って帰ったの、寮長の自転車だったんです」と言って、思い出し笑いする安達さん。いやいや、もう時効ってことでいいですけど、このやり取りはネタ?って言われるでしょう。「ほんまですって。それで言いましたよ、捨ててきたこと。そのかわり、ちゃんと自分で新しいのを買って返しましたから」

震災の3日後に、寮生のほとんどは実家へ帰ったのですが、安達さんはしばらく残ります。「米村(熊本)や山本(東京)と比べて、オレは被害の大きいとこへ帰らなあかん。だから寮に置いてくださいって頼みました。電気は使えたので、オーブントースターでパン焼いて食べた。パンだけは山のようにあったし(笑)。ガスと水は出なかったから、サウナに思いきり入って水風呂に入って」。そういう状況で2日くらいはいたそうですが、そのあとは三木市に住む高校時代のキャプテン宅に居候させてもらったと話していました。

ファーム事務所、玄関横の塀は地震で大きく隙間が…。セメントで埋めてあります。
ファーム事務所、玄関横の塀は地震で大きく隙間が…。セメントで埋めてあります。

「忘れたらあかんことです」

「キャンプはそれぞれのとこから安芸に現地集合です。荷物?ユニホームは球団の人が持っていってくれていたし、メーカーから用具は届いたと思います」。でも普段の生活すらままならなかったのですから、自主トレどころではありませんでしたよね?「はい。体ができていないので、そのまま脇腹をやってしもたんです」。3年目、勝負をかけたいシーズンだったはずなのに…。

米村さんもですが、安達さんも成人式に出席して寮に戻ったところ。「あの頃は15日でしたもんね、成人式。2日後ですよ」。2日前に会って話したばかりの同級生たちと、あんな別れが来るとは思ってもみなかったでしょう。最後に安達さんは、こう締めくくりました。

「絶対に忘れたらあかんことやと思います。風化させたらあかん」

毎年、1月17日には神戸市中央区の東遊園地へ行くそうです。「慰霊碑に叔母の名前も刻まれていますからね」と言っていました。ことしも5時から21時まで、阪神淡路大震災1.17のつどいが行われます。

あの時に生まれた子どもが成人し、学生だった人には子どもができ、街も大きく変わりました。何かを学ぶには“重すぎた教材”だったけれど、その何かが後に生かされていると信じます。忘れてしまいたいことと同じくらい、人を思いやり、助け合い、優しさに心から「ありがとう」と言えた瞬間がありました。負けるものかと立ち上がる力も。小虎たちが、そんな力の支えとなれていたら嬉しいですね。

※この記事の前編(北川博敏さんと井上貴朗さんのお話)は、こちらからご覧いただけます。

『阪神・淡路大震災から20年 あの朝、鳴尾浜では…(1)』

フリーアナウンサー、フリーライター

兵庫県加古川市出身。MBSラジオのプロ野球ナイター中継や『太田幸司のスポーツナウ』など、スポーツ番組にレギュラー出演したことが縁で阪神タイガースと関わって約40年。GAORAのウエスタンリーグ中継では実況にも挑戦。それからタイガースのファームを取材するようになり、はや30年が経ちました。2005年からスポニチのウェブサイトで連載していた『岡本育子の小虎日記』を新装開店。「ファームの母」と言われて数十年、母ではもう厚かましい年齢になってしまいましたが…1軍で活躍する選手の“小虎時代”や、これから1軍を目指す若虎、さらには退団後の元小虎たちの近況などもお伝えします。まだまだ母のつもりで!

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