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「防衛」での貸しは「経済」で返してもらう 安倍首相は尖閣と農業を取引した

大野和興ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

トランプ米大統領は就任早々の二〇一七年一月二〇日、公約通りTPP(環太平洋経済連携協定)からの離脱とNAFTA(北米自由貿易協定)の再交渉を表明した。米作地帯である東北と越後で何人かのコメ作り農家に感想を聞いてみた。総じての反応は、「これで一難去った」というものであった。その後の安倍・トランプの日米首脳会談で日米経済対話の開始が号され、実質的な日米FTA(自由貿易協定)交渉が、早ければこの四月から動き出すことになる。「一難去ってまた一難」という図なのだが、あまりに展開が早すぎて、影響をを受ける側の想像力が間に合わない。山形県下で「いったいコメはどうなるのだろう」と真剣に問われて答えに窮してしまった。日米が二国間交渉を始めるにあたって、米国のコメや畜産の生産者組織は早くも未完に終わったTPP交渉の到達点を上回る日本の市場開放をトランプ政権に要求している。

◆TPPと中国包囲網

2月10日に行われた安倍・トランプ会談で日本は日米FTA(自由貿易)交渉を実質的に受け入れた。同会談の主要議題は軍事・防衛と経済であった。安倍首相はトランプ大統領から、尖閣は日米安保条約5条の対象内、という言質を取り付け、「これで会談は成功」と有頂天になった。なんのことはない、前任のオバマ時代の認識を踏襲しただけのことだったのだが、大統領選挙期間中を含め、トランプに日本の「安保ただ乗り」論を猛烈に非難されていただけに、安倍政権にとっては躍り上がるほどうれしかったようだ。「高く吹っかけて適当なところで折り合う」トランプ流の取り引きに乗せられただけなのだが、日本はメディアを含めその術中に陥った。

安倍を相手にしたトランプの取り引きは「防衛」と「経済」をどう天秤にかけるかということであった。尖閣は日米安保の対象地域であるという従来の見解から見れば当たり前のことを推認する代わりに、トランプの米国は投資、金融、交易を含む経済全般について、日米経済対話を始める約束を取り付けた。

米国にとってTPPは単なる通商交渉ではなく、中国包囲網というアジア安保の問題でったことについては、いくつもの証言があるが、ここではヒラリー・クリントンと最後まで民主党大統領候補の座を争ったサンダースの言葉を紹介しておく。トランプと同様、TPPに対する強い反対者であったサンダースは、TPPについてのインタビュアーの質問に対し、「(米国の)企業界は実質的に貿易で負けることはありません」とした上で、オバマ大統領がTPPにこだわる理由について次のように述べている。

「彼はこれを地政学的な問題と見ています。過去の大統領のように、TPPがアメリカにありとあらゆる雇用を創りだすなどと偽ることはしません。彼の論拠は、もしTPPを放棄すればアジアを中国の影響下に置くことになるというものです」(『世界』2016年12月号、サンダースへのインタビュー「サンダースが展望するアメリカの未来」)

軍事だけでなく経済でも中国を封じ込めるTPP、オバマと安倍はこの一点で結びついていた。安倍首相がトランプによる離脱宣言後もTPPをあきらめきれない理由もここにある。そしてそれは、日本政府がTPP交渉参加を口にした当初からはっきりしていたことでもあった。

◆日米安保条約という存在

日本政府がTPP交渉入りを表明したのは、菅直人首相(当時)が行った二〇一〇年一〇月一日、衆議院の所信表明演説においてであった。その翌月の『週刊金曜日』で、筆者は「これは経済の問題ではなく日米同盟の問題だ」という意味のことを、いくつかのエピソードをもとに書いた。(『週刊金曜日』2010年11月26日号、大野「なぜ今、TPPなのか 日本経済救済論の嘘」)。まだTPPは農業の問題だという認識がメディアを含め充満していたときのことである。

筆者がこの時、TPPをこのようにとらえたのは、日米貿易交渉をめぐる長い経過があったからだ。戦後の日米関係は常に日米安全保障条約のよって規定されてきたが、貿易交渉もその例外ではなかった。そのことを通して、日本の農業生産・食糧供給構造もまた、対米関係によって規定されてきたが、ここでは長くなるのでそのことは省く。 

日米貿易交渉の実相について当事者として率直に語った証言がある。オレンジ、牛肉、コメの市場開放を米国に激しく迫られた一九八〇年代、農林水産省国際経済局長として、交渉の最前線の指揮官だった吉岡裕氏は、退官後の昭和63年、農業経済学会で次のように語っている。当時吉岡氏は農水省の外郭団体である(社)国際農業交流基金会長であった。

吉岡氏は戦後日本の経済体制の国際化は、米国政府の市場開放圧力によって推進されてきたこと、日本にとって日米関係は他の外国との関係とは違う特殊な重要性を持っていること、の二点を前置きした上で、その背後に「日米安保条約」があることを率直な語り口で明らかにしている。

「日米安全保障関係を条約化しているのが『日米安保条約』であるが、この条約には同時に『経済条項』が含まれており、自由な経済社会体制の強化をめざして両国は、経済政策上の相違を除去するように努力し、そのために協議を続けることを確認している。この防衛関係と経済関係のリンクは米国側の政治的解釈としては当然視されており、『防衛での貸しは経済で返される』との期待が米国にはある」(昭和六二年度日本農業経済学会報告「日米貿易摩擦とアメリアの農業政策」。『農業経済研究』第59巻第2号、1987年)

安倍現首相の祖父岸信介首相が、サンフランシスコ講和条約とともに結ばれた日米安保条約を改定し、現安保条約を締結したのが一九六〇年。吉岡氏が述べる「経済条項」はその時挿入された。安倍・トランプ会談で行われた「安保」と「経済」の取り引きは、吉岡氏がちょうど三〇年前に語った、「防衛での貸しは経済で返される」というアメリカの主張をそのまま引き継いでいるといってよい。経済分野の課題は日米二国間で片づけるという原型がよみがえり、一二ヵ国の多国間交渉だったTPPは「日米FTAに置き換えられる」ことになった。尖閣をめぐる防衛をアメリカに寄りかかる日本は、経済で強く出られるわけがないことは、これまでの日米通商交渉で証明済みといってよい。

◆韓米FTAの先例

そしてこのことは、日本と同じような安全保障環境にある韓国でもいえる。二〇一三年三月に発効した韓米FTAについて、韓国農漁村社会研究所副理事長のクォン・ニョングンさんは、次のように報告している。

「アメリカは経済問題を(例えば自国のドル防御、WTO、FTA、TPPなど)をいつも軍事力の脅威と絡めて圧力を加えながら解決しようとしてきた歴史があるのは事実である。(中略)韓米FTAの批准及び発効を通じての信頼強化が、韓米戦略同盟の実効的な具現として重要であると考えているわけである。アメリカがアジア太平洋地域での戦略的利益を強固にしてこの地域で強力な国際的リーダーシップを回復するためにも、韓米同盟をしっかりした基礎にしたいのだ。したがって韓米FTAはアメリカのアジア太平洋地域戦略の構築・確立のためのモデルとなっている。(中略)現在の韓米FTAとアメリカが主導するTPPは対中国包囲戦略という点で共通している。問題は国防、外交など国家的戦略を経済的な内容で装ってしまいその内容を全面的には公開していないということである」(季刊『変革のアソシエ』2012年10月「アメリカのアジア太平洋地域戦略構築のためのモデルとしての韓米FTAとTPP」。翻訳:丸山茂樹)

多国間のTPPであろうが二国間FTAであろうが、アメリカの戦略目標である中国封じ込めのねらいは変わらない。むしろ二国間のほうが“強い側”であるアメリカの力を発揮して相手をねじ伏せることができるし、「防衛と経済」の取り引きもスムーズの進むというものだろう。安倍政権はその枠組みに、日本農民を道ずれに自ら飛び込み、飲み込まれたのである。

ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

1940年、愛媛県生まれ。四国山地のまっただ中で育ち、村歩きを仕事として日本とアジアの村を歩く。村の視座からの発信を心掛けてきた。著書に『農と食の政治経済学』(緑風出版)、『百姓の義ームラを守る・ムラを超える』(社会評論社)、『日本の農業を考える』(岩波書店)、『食大乱の時代』(七つ森書館)、『百姓が時代を創る』(七つ森書館)『農と食の戦後史ー敗戦からポスト・コロナまで』(緑風出版)ほか多数。ドキュメンタリー映像監督作品『出稼ぎの時代から』。独立系ニュースサイト日刊ベリタ編集長、NPO法人日本消費消費者連盟顧問 国際有機農業映画祭運営委員会。

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