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トランプのアメリカ  ラストベルトは80年代、中西部農業地帯で始まった

大野和興ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

アメリカの農業業界はこれから始まる日米FTA交渉に大きな期待を寄せている。首脳会談で決まった日米経済対話は四月のベンツ副大統領の来日を待って始まる。交易分野の対話は実質的な日米FTA(自由貿易交渉)となるが、そこでのアメリカの目論見は、対日貿易赤字の半減と農産物対日輸出額の倍増であるという話が伝わってきている。いずれにしても、農業が大きなイシューであることはまちがいない。では、アメリカ農業とは何者なのか。いくつかの風景を切り取ってみた。

◆レーガンのアメリカで

アメリカ農業と交易について考えるとき、落としてはならないのは、1980年代にアメリカ農業を襲った恐慌である。トランプが尊敬しているというレーガン大統領が行った経済政策、レーガノミックスが引き起こしたものだ。1981年、“強いアメリカ”を掲げて大統領に就任したレーガンは、軍事費増大と強いドルすなわちドル高政策を進めた。減税で企業と個人にカネを使わせることで経済振興を図って税収を上げ、その金を軍事費に回して、ベトナム戦争の敗北で自信を失い、経済も落ち目に陥ったアメリカを再び“強いアメリカ”に再興するという方針を掲げたのである。

その後の動きを追うと、減税で確かに消費は増えたが、すでにアメリカの製造業は外国に移転していて、国内消費が増えれば増えるほど、輸入が増大してドルが流失した。それにドル高が加わり、さらに輸入が増大した。一方でレーガン政権は一方で軍備拡張に走ったため、ベトナム戦費で赤字に陥っていた財政はさらに悪化した。

「強いドル」は輸出産業に大きな影響をあたえた。それは、武器と並ぶ輸出産業だった穀物を直撃、農村地帯を農業恐慌が襲った。ドル高で米国農産物は割高になり、輸出競争力が衰えてしまったのである。1981年度のアメリカ農生産物輸出高は438億ドルだった。それが82年度には391億ドル、86年度には260億五ドルに減った。

売り上げの減少は農場倒産となって現れた。中西部の穀物地帯では、いたるところに「農場売ります」の立て看板がみられた。ハリウッドで農場倒産と農村家庭崩壊の映画が製作され、ロック歌手による「Farm Aid」と銘打った農場を救えのチャリティコンサートがもたれたりした。当時の報道によると、中西部諸州では農民デモがひんぱんに行われ、ミネソタでは町の商店や中小企業主が商店や工場を閉め連帯の意をあらわし、教会でも集会が開かれたりしている。

◆壊れるコミュニティ

-ブルース・スプリングスティーンの世界-

ロックの王様といわれるブルース・スプリングスティーの曲のひとつに「マイ・ホームタウン」がある。彼の代表作品「ボーン・イン・ザ・USA」は、身の内から湧き上がってくる怒りを、世間にたたきつける激しいものだが、「マイ・ホームラウン」はその怒りを腹にため込み、吐き出すように、バラード風にゆっくりと歌われる。聴いているうちに、彼のだみ声が聴き手の腹にまで浸み込み、世間からはじき出され、貧困の中を漂う人々の哀しさにいつの間にか同化してしまう。

八歳のとき、田舎町で幸せだった。父親に膝に乗って、ビュイックでまちを一回りした。

父親が言った。よく見ておくんだ。これがお前のホームタウンだ、と。

1965年、ハイスクールは白人と黒人の間で紛争が絶えなかった。土曜の夜、信号で2台の車が行き合った。

突然ショットガンが火を噴いた。

おれに町に、おれのホームタウンに。

大通りの店はみんな閉じられ、誰もいない。線路の向こうの縫製工場も閉鎖された。

工場長が言う。仕事はどこかに行き、ここには戻ってこない。

お前たちのホームタウンには。

昨夜、妻のケイトとベッドの中で話し合い、この町を出ることにした。南部へでも行こうか。

俺は35歳になった。息子が一人いる。昨夜、息子を車に乗せて町をひとまわりした。

よく見ておくんだ、これがお前のホームタウン。

アメリカが町も人も穏やかだった1950年代。やがて黒人の差別に対するたたかいが始まり、ベトナム戦争があり、工場がつぶれ、人が去り、自分のその街を去らなければならなくなった80年代。その歴史をブルース・スプリングスティーンは怒りを抑え、哀歓を込めて歌いあげた。いま聞き直し、トランプを大統領に押し上げたラストベルトにプアーホワイトの怒りと哀しみが二重写しとなって迫ってきた。

ラストベルト(Rust Belt)とはかつて製造業が栄え、いまやさび付いた地帯といわれるようになったアメリカ中西部地域と大西洋岸中部地域を指す。その中西部はレーガンの時代、農業が疲弊し、農場倒産が続出した地域と重なる。1982年から86年にかけ、アメリカで、販売高25万ドル以下の中小規模の農場が減る一方で、25万ドル以上が増えている(Census of Agriculteue)。『1987年大統領経済諮問委員会年次報告』によると、1985年で全農場数の4・1%を占めるにすぎなかった農産物販売高25万ドル以上の農場が、全農場の総収入の48・8%を稼ぎ出していた。農業経済学者のケネス・L・ロビンソンは次のように書いている。

「一八〇年代中頃農村地域に住む家族で貧困ライン以下の所得水準のものは、全体の四〇%であった。合衆国人口の二五%足らずの人々が都市地域外に住んでいるので、このことは、貧困の割合、すなわち貧困層に区分される人々の比率は、農村のほうが都市より大きいことを意味する」(「アメリカ農業の技術、政策、構造変化」(農政調査委員会発行『のびゆく農業』722号)

中小規模の農場倒産は雇用や購買力など地域経済の大きな影響をあたえていることがわかる。白人貧困層を生んだラストベルトは八〇年代からはじまっていたのである。

◆農業恐慌輸出

ドル高・金利高で競争力を失い、農産物輸出が減って、農場倒産が続出する事態に、レーガン政権はダンピング輸出で対応した。なにしろ、80年代初めから86年にかけ、小麦、トウモロコシ、大豆の価格は国際相場のほぼ半分、コメにいたっては三分の一にまで下がった。たまる一方に在庫に、レーガン政権は莫大な輸出補助金をつけて輸出したのだ。品目はトウモロコシ、大豆、小麦、綿花、コメ。恐慌の輸出である。

コメでは米タイ・コメ戦争が始まった。世界市場でシェアを競い合っていた両国が、国際市場で激突したのだ。値下げ競争が始まり、そのあおりを受けて生産者米価が下落したタイ農村では、農民の出稼ぎが始まった。男は労働力を、女は性を売る農民出稼ぎは、バンコクから東京、台湾、韓国へと広がった。そして日本へは、アメリカによる執拗なコメ市場開放要求として現れた。それはそのまま、いまに引き継がれている。

ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

1940年、愛媛県生まれ。四国山地のまっただ中で育ち、村歩きを仕事として日本とアジアの村を歩く。村の視座からの発信を心掛けてきた。著書に『農と食の政治経済学』(緑風出版)、『百姓の義ームラを守る・ムラを超える』(社会評論社)、『日本の農業を考える』(岩波書店)、『食大乱の時代』(七つ森書館)、『百姓が時代を創る』(七つ森書館)『農と食の戦後史ー敗戦からポスト・コロナまで』(緑風出版)ほか多数。ドキュメンタリー映像監督作品『出稼ぎの時代から』。独立系ニュースサイト日刊ベリタ編集長、NPO法人日本消費消費者連盟顧問 国際有機農業映画祭運営委員会。

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