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ニューシネマパラダイスの時代と記憶:20年前をふりかえって今を見つめる

小野昌弘イギリス在住の免疫学者・医師

映画や音楽はしばしば言葉にならない記憶を固定してくれる。

みなさんご存知の映画ニューシネマパラダイスは、56年生まれの監督トルナトーレが、32歳のとき撮った、彼の一番の人気作だ。この映画は、第二次大戦を過去のものとしたイタリアが、将来を夢見ることが誰しにも許された平和な時代への愛情と、そういう明るい空気の中での幼少・青年時代への郷愁を歌いあげた作品だといってもよい。また、過去を省みることでいまの自分をみつめて成長する、芸術家としてのトルナトーレの自立の物語だともいえよう。

私がこの映画を観たのは少し遅れての90年代はじめだが、この映画の音楽はいつも当時の空気を思い出させてくれる。その頃の大学生はまだ人生の先行きに(バブル崩壊後の若干の不安がありながらも)楽観的だった。そして皆が戦争や差別が存在してはいけないのは当たり前のことだと思っていたし、そういう世界がいつまでも続くことを疑っていなかった。

あれから20年、ずいぶん時代が変わった。この変化を、外国のせいにする人と、自分たちの未熟さに帰する人とで、政治に対する姿勢、選挙における選択は大きく分かれるように感じている。

最近多くの人がいう。日本の周りの環境が変わってしまったからね、と。そうだろうか。確かに探し出すと危険はいくらでも見つかるかもしれない。でも、それは今に始まった事ではないし、いつの世も、どんな場所に生きていても、多少の危険など存在する。そもそも、自分がうまくいかないことを外国のせいにするのは情けないことだと思う。

また最近、「平和ボケ」とかいう言葉でごまかして、戦争を辞さないような勇ましいことを言う人が増えたようにも思う。しかし私はこういう人たちこそ腰抜けだと思う。そういう野蛮な行為のせいで外交がうまくいかなくなったときのしわ寄せがどこに来るのかの想像力もなしに、自分の責任がとれないことを口にして社会をかき回すのは卑怯なことだ。本当の危険に満ちている国際社会では、容易に勇ましいことを言うものでは決してない。外交の原義である"diplomatic"という言葉は、もともと、深謀遠慮をもったうえで角が立たないように物事を進める能力を言う。つまり外交とは、勇ましいことを吠えるだけの野蛮さとはおよそ縁のないものである。そういう外交のがの字も分かっていないような輩が国政をかき回すようになったら、たしかに戦争が現実のものになるだろう。しかしそうなったとしても外国のせいではない。日本の自業自得である。

そもそも、周囲の国がどんな振る舞いをしていたって、自分がしっかり自立して周囲の模範となることを目指せば良いではないか、と思う。世界にはそれくらいの余裕はあるし、成熟した国であるはずの日本にはそういう役割が期待されている。もし日本が大人の国であるならば。

だから私は、今日本が直面している困難は、自分たちが未熟だからこそ至ったものだと考える。外国のせいにしたり、自分たちの過去についての言い訳をするのは、恥ずかしいことで、自立していない未熟な証拠だと思う。

人々が自立して、国が自立する。そうしてこそ、今の閉塞した時代の空気が明るいものに変わり、心安らかに自分の生きる時代を愛せるときが、またいつの日か来るものと信じる。

イギリス在住の免疫学者・医師

免疫学者、医師。免疫学の研究・教育を行う。生体内でのT細胞の動態を解析する測定技術Tocky(とき)の開発者。京都大学医学部・大学院医学研究科卒業。京大・阪大で助教を務めたあと英国に移動。2013年に英国でラボを開き、現在インペリアル・カレッジ・ロンドンで主任研究者、Reader in Immunology。がん・感染症(コロナなど)・自己免疫におけるT細胞のはたらきについて研究する傍ら、大学の免疫・感染症コースで教鞭をとる。著書「免疫学者が語る パンデミックの「終わり」と、これからの世界」「コロナ後の世界・今この地点から考える」(筑摩書房)、「現代用語の基礎知識」(自由国民社)などに寄稿。

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