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科学に成果主義を強いて規則漬けにする愚――理研改革提言書の矛盾

尾関章科学ジャーナリスト

STAP騒動は自殺者まで出て、いよいよ社会事件としての深刻度を増してきた。この問題をめぐって、これまで私は今年1月30日のSTAP第1報に焦点をあてて科学ジャーナリズムの現状を批判的に論じてきたが、科学者のあり方をめぐる論評は避けてきた。まずは自省から、という思いがあったからだ。だが、そろそろ科学界にも目を向けて、ひとこと言っておきたい。それは、いま科学に巣食う成果主義そのものにメスを入れなくては問題の根は絶てないだろうということだ。

ここでとりあげたいのは、STAP研究の主舞台である理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(CDB)に解体論を突きつけた理研第三者委員会の「研究不正再発防止のための提言書」だ。いま疑惑の渦中にいる研究者の採用や実験データの管理をめぐってCDB幹部を実名で厳しく批判、馴れ合いを排した中身になっている。6月半ばに発表されると、歯切れの良さのせいかメディアでは好意的に受けとめる論調が目立った。

だが、私には大いに気になる点がある。それは、提言書の端々に見え隠れする成果主義志向の科学観だ。たとえば、「STAP問題はなぜ起きたか」と題した章は、こんな一文から始まる。「科学研究活動は、その成果が信頼性の高い知識や情報として社会に還元され、社会の発展に寄与する、との社会の信頼に支えられている。この社会の信頼があるからこそ、毎年多額の公費が科学研究予算に投じられている」

耳触りのよい文章だ。さらっと読めば抵抗はない。だが、私が30年間、科学記者として目にしてきた研究の実相は、これとはだいぶ違う。「信頼性の高い知識や情報として社会に還元」される成果は限られている。真面目な科学者たちの真面目な研究が、実らないままに消えていく例は枚挙にいとまがない。さらに、素粒子物理や宇宙論のような純粋科学では、たとえ大成果が得られても、それが「社会の発展」に直結しているとは言いにくい。

提言書では、科学には失敗がつきものだということが忘れられている。科学は、狭い意味で社会を発展させなくとも私たちの世界観を深めてくれるという認識もない。生産活動のイメージで科学をとらえているような感じがする。

理研CDBの解体を迫ったくだりでは、「理研がCDB解体後に、新たに発生・再生科学分野を含む新組織を立ち上げる場合」も想定して、その新組織は「真に国益に合致する組織とすべきである」と言い切っている。

科学の成果が国の利益につながるのはよいことだ。ただ、すべての科学が国の利益のためにある、と決めてかかるのはどうだろうか。科学のなかには、もっと身近なところで一人ひとりを幸せにしてくれるものがある。その一方、人類規模で幸福をもたらすものもある。ここで「幸せ」とか「幸福」というのは「社会の発展」だけではない。ものの見方を豊かにしてくれる、というようなことも含まれる。巨額の公費を投じる科学の恩恵は、個人レベルから人類レベルまで、さまざまな次元の価値を生みだして納税者に還元される。新しい研究所の条件を「国益に合致」としてしまうのは、やせ細った科学観と言えよう。

提言書も、成果主義の問題点は認識している。科学研究の現状について「公的研究資金の獲得、ポストの獲得など、科学研究活動をめぐる競争的環境は、一方で研究不正行為に手を染めてでも、競争に勝ち抜きたい、との誘惑を生む」と分析しているのは、その表れだろう。今回の問題を振り返って「成果主義の負の側面」と断じているのは、STAP論文に名を連ねたCDB幹部が今年2月、論文に画像の流用があったことを知ってからとった対応だ。「一連の行動の背後には、iPS細胞研究を凌駕する画期的な成果を無にしたくない、との動機も考えられる。成果主義に走るあまり、真実の解明を最優先として行動する、という科学者として当然に求められる基本を疎かにした」としている。

成果主義をぶちあげながら、成果主義の「負の側面」を批判する。その「負の側面」を抑える手立てとして、管理を強め、コンプライアンスを徹底させることばかりを強調している――これが、この提言書を読んで私が思った感想だ。

理研に対して、「研究公正推進本部」の新設を提言する。そのもとで実験データの記録や管理の共通手順を定めるよう求める。さらに「研究分野ごとの特性も考慮し、各研究組織ごとに研究データの取り扱いと管理について具体的なルールを定め、ホームページなどで明示化するとともに、その実行について現場レベルで徹底する」と言い添える。規則の網を細部にまで張れ、というのである。

理研では、すでに研究不正を防ぐねらいで管理職研修が義務化されてきたが、提言書は受講率が約4割にとどまることを指摘、「若手からシニアまで理研で研究活動にたずさわるすべての研究者に対して、公正な研究推進のための研究倫理教育の受講を義務とする」よう促している。

一連の提言には、成果主義には「負の側面」があるのだから、成果主義そのものを見直そうという視点が見えない。科学技術に経済成長につながる成果を期待する国の政策を従順に受けとめて、科学者に成果を出すよう督促しつつ、レールだけは踏み外すな、と言っているように見える。

提言書の結語末尾の3行を読んで、私はあっけにとられた。「研究不正行為は科学者コミュニティの自律的な行動により解明され解決される、という社会の信頼の上に、科学者の自由は保障されるものである。自由な発想が許される科学者(研究者)の楽園を構築すべく、理研が日本のリーダーとして範を示すことが期待される」。ここで「楽園」には注が添えられ、「故朝永振一郎博士は理研を評して『科学者の自由な楽園』と述べた」とある。

科学研究を管理するのが政府ではなく理研自身ならば、それは「科学者コミュニティの自律的な行動」と言うのだろうか。だが、科学者を成果主義に追い込み、その副作用として表れる不正を抑えるために研究生活を規則漬けにするという図式に、私は「自律的な行動」に立脚した「自由な楽園」をみることができない。洒脱な物理学者、朝永さんもきっと苦笑しているに違いない。

科学ジャーナリスト

科学ジャーナリスト。1951年東京生まれ。1977年朝日新聞入社、83年科学記者となり、ヨーロッパ総局員、科学医療部長、論説副主幹、編集委員などを務め、2013年に退職。16年3月まで2年間、北海道大学客員教授(電子科学研究所)。関心領域は宇宙、量子、素粒子などの基礎科学と科学思想、生命倫理、科学メディア論。著書に『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代全書)、『量子論の宿題は解けるか』(講談社ブルーバックス)、共著に『量子の新時代』(朝日新書)。1週1回のブログ「めぐりあう書物たち」を継続中。

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