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「南北電撃接近」の拉致問題再調査への影響は?

辺真一ジャーナリスト・コリア・レポート編集長

仁川アジア大会閉幕の日の10月4日、黄秉西朝鮮人民軍総政治局長が崔竜海党書記と金養建書記ら二人の最高幹部を引き連れて電撃訪韓した。

黄秉西軍総政治局長(65歳)は金正恩第一書記、金永南最高人民会議常任委員長、朴奉柱総理に次ぐ序列4位。軍の序列ではトップにある。また、同行者の崔竜海書記(64歳)も序列は9位だが、今年5月に黄氏に交代するまで軍総政治局長の座にあった実力者の一人である。そして、序列16位の金養権書記(72歳)は、対南(韓国)担当の最高責任者である。ワンランク上の15位が、金第一書記の叔父・張成沢国防副委員長を処刑した国家安全保衛部の金元洪部長であることをみればその実力というものが伺い知れる。

軍を統率する黄氏と党を仕切る崔氏は名実ともに金第一書記の両腕である。北朝鮮はかつて李明博政権時代の2009年8月に死去した金大中元大統領の弔問のため金基南党書記を韓国に派遣したことがある。当時、金基南書記は序列14位であった。特に、軍服を着た軍総政治局長の派遣は2000年10月に訪米し、ホワイトハウスでクリントン大統領を表敬訪問した当時N0.3の故・趙明祿次帥以来である。黄氏もまた、軍の階級は次帥である。金正恩政権が今回の特使派遣をいかに重視しているかが伺い知れる。

金正恩政権が飛車角的存在である黄、崔の両氏をスポーツ行事に出席させるための目的だけで政治、軍事、外交的に対峙している韓国への派遣はありえない。「アジア大会出席」は表向きの理由であって、真の狙いは、韓国との関係改善にあるようだ。案の定、一行は仁川滞在中にそれまで拒んでいた南北高位級会談の受け入れを表明し、与野党の代表らとも短時間であったが対面し、関係改善の意思を伝えている。

それにしても青天霹靂の出来事だ。

北朝鮮は前日まで最高権力機関の国防委員会も、対南機関の祖国平和統一委員会も朴槿恵大統領が国連演説で北朝鮮を「21世紀に核実験を強行した唯一犯罪国家」と糾弾し、さらに北朝鮮の人権問題を取り上げたことに激怒し、「朴槿恵のような逆賊を断固清算する」と人身攻撃していたからだ。黄軍総政治局長は国防委員会副委員長のポストにあり、また金書記は祖国平和統一委員会を統括している身分にある。

特に脱北団体が先月、38度線付近から対北宣伝ビラ風船を飛ばすのを韓国当局が阻止しなかったことを非難し、祖国平和統一委員会の名で「朴槿恵は南北関係を破局に追いやった」と「報復」を示唆したばかりか、仁川アジア大会についても、韓国側の対応を問題にし、美女応援団の派遣を取りやめていた。応援団の派遣を取りやめながら、一転大物代表団を、それも開会式ではなく、閉会式に送るとは、したたかと言うほかない。

さらに驚いたことは、韓国側のカウンターパートナーとして金寛鎮青瓦台(大統領府)国家安保室長と対座したことだ。

金室長は軍歴のない党人の黄総政治局長とは異なり、第3軍司令官から統合参謀本部議長、そして国防長官を歴任した生粋の軍人である。国防長官時代は「北朝鮮が再度砲撃を行えば空爆も辞さない」と発言するなど対北強硬論者として知られ、このため北朝鮮から再三「絶対に生かしてはおかない」と脅されてきた人物である。

それが、北朝鮮の一行は何事もなかったかのように金室長とにこやかに握手し、昼食を共にしながら懇談し、黄軍総政治局長にいたっては「汚物」呼ばりしていた朴大統領宛の金第一書記の挨拶まで伝えている。これぞまさに、北朝鮮が得意とする「手のひらを反す外交」の象徴である。

突発的に決めたのか、それとも以前から計画していたのかは定かではないが、国連総会に出席した李スヨン外相とケリー国務長官の接触が不発に終わったことから米国を6か国協議の場に引っ張り出すため日本に続き、韓国を抱き込む作戦なのかもしれない。あるいは、再三にわたって中止を求めている米韓合同軍事演習と韓国の脱北団体や人権団体らによる宣伝ビラ撒きを封じ込めることに狙いがあるのかもしれない。東倉里のミサイル発射台の拡充工事が完成したタイミングから深読みをすれば、今後有りえる人工衛星と称されるテポドン・ミサイル発射に備えたアリバイ作りの可能性も考えられなくもない。

注目すべきは、北朝鮮が特使を派遣した10月4日が7年前に訪朝した盧武鉉大統領と金正日総書記との間で交わされた南北共同宣言の日にあたることだ。報道では、北朝鮮の一行は韓国側に10年前の南北共同宣言の履行を韓国側に求めたと伝えられている。

「10.4宣言」と呼ばれるこの宣言は、金大中大統領と金正日総書記との2000年6月の共同宣言に沿い▲南北関係を相互尊重と信頼関係に転換させ▲軍事的敵対関係を終息させ、朝鮮半島の緊張緩和と平和を築くため緊密に協力することなどが謳われているが、見逃せないのは、経済協力の活性化が具体的に盛り込まれている点だ。

南北経済協力の事業としては、経済特区(開城工団と海州平和協力特別地帯)と開城~平壌間の道路(162km)、開城~新義州間の鉄道(445km)の補修、連結工事が目玉で、これら事業への韓国の直接投資額だけでも50億ドル、電力支援などを含むと約100億ドルに達する。この他にも江原道の安辺と平安南道の南浦に造船協力団地の建設(建設費2億ドル)や肥料生産や農業開発(9億ドル)なども含まれている。

経済再建に力を入れている金正恩政権としては喉から手が出るほど韓国からの経済協力を熱望しているが、その前に北朝鮮による哨戒艦撃沈や延坪島砲撃への懲罰として2010年に李明博政権が科した▲北朝鮮船舶の韓国領海通過の不許可▲南北貿易の中断▲韓国人の訪朝禁止▲対北新規投資不許可▲対北支援事業の保留など5項目から成る「5.24措置」と呼ばれる制裁措置が解除されなければならない。

韓国頭越しの日朝急接近に苛立っていた韓国政府は、柳佑益統一相が「北朝鮮が韓国との対話再開に応じれば、北朝鮮側が求める経済協力についても議題にする」と公言し、制裁解除を示唆しながら、9月11日に提案した高位級会談を受託するよう迫っていた。北朝鮮が今回、高位級会談に応じたことで、韓国の制裁措置の解除が現実味を帯びるかもしれない。

今後予定とおり10月下旬から11月上旬にかけて第2回南北高位級会談が開催され、離散家族の再会で合意するなど南北関係が進展し、韓国が制裁を解くようなことになれば拉致問題解決のため北朝鮮に迅速な再調査を促すための日本の貴重な「制裁カード」が色褪せてしまう恐れがある。

日本と北朝鮮の貿易量は日本が2006年10月に輸入の全面禁止措置を取るまで1億9千万ドル(2005年)相当。これに対して南北は李明博政権が制裁措置を取るまで約17倍の17億9千万ドル(2007年)の貿易量があった。

日本の制裁解除カードでもある人道支援は食糧支援(3千5百万ドル相当)と医薬品(3百万ドル相当)併せて約3千8百万ドル相当だが、韓国の対北無償援助は中断するまで毎年1億3千5百万ドル(2001年)から2億2千8百万ドル(2005年)相当あった。

仮に南北離散家族再会の見返りとして金剛山観光が再開され、2007年並みの34万人が訪れれば、観光料として年間2千万ドルの外貨が北朝鮮に落ちる。この額は2008年に米国によって一時的に凍結させられたマカオにある銀行口座の預金額に匹敵する。韓国人の金剛山観光客は08年7月に中断するまでの10年間で延べ193万4千人に達していた。

日本にも経済カードとして、万景峰号の入港、航空チャーター便の乗り入れ、貿易の再開などがある。これに朝鮮総連本部の競売や朝鮮学校の無償化を含めるとまだ4~5枚カードがある。中でも最も効果的なのは「万景峰号」と「総連本部」カードである。

北朝鮮による再調査問題は、第一次報告の回答時期をめぐってもめているが「交渉ごとに制裁を解除するかどうかも重要な交渉の力になっていく」と公言している安倍総理が外務省レベルではなく、最高レベルでの南北の「電撃的接近」を目の当たりにした今、平壌への調査団派遣も含めどう対応するのか、今まさにその手腕、決断力が試されようとしている。

ジャーナリスト・コリア・レポート編集長

東京生まれ。明治学院大学英文科卒、新聞記者を経て1982年朝鮮問題専門誌「コリア・レポート」創刊。86年 評論家活動。98年ラジオ「アジアニュース」キャスター。03年 沖縄大学客員教授、海上保安庁政策アドバイザー(~15年3月)を歴任。外国人特派員協会、日本ペンクラブ会員。「もしも南北統一したら」(最新著)をはじめ「表裏の朝鮮半島」「韓国人と上手につきあう法」「韓国経済ハンドブック」「北朝鮮100の新常識」「金正恩の北朝鮮と日本」「世界が一目置く日本人」「大統領を殺す国 韓国」「在日の涙」「北朝鮮と日本人」(アントニオ猪木との共著)「真赤な韓国」(武藤正敏元駐韓日本大使との共著)など著書25冊

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