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46分で奇跡を起こす、アニメ『言の葉の庭』

斉藤博昭映画ジャーナリスト
『言の葉の庭』 5月31日 新緑の季節ロードショー

スクリーンの中で静かに雨が降っている。

灰色の空を、線のように落ちていく雨粒。

アスファルトに軽やかに着地する雫…。

ここまで美しい雨の風景は見たことがない、と思った。

新海誠監督のアニメ『言の葉の庭』は、そんな心地よい雨の風景に観る者を吸い込んでいくのだが、最大の特徴は上映時間にある。

題材にぴったりの長さが心地よい

基本的に、劇場で上映される映画は、だいたい90分から180分くらいが王道。90分でも限りなく長〜く感じる作品もあれば、180分でもアッという間という作品もある。そもそも映画というものは、題材やストーリーによって的確な長さが決められるべきだ。

この『言の葉の庭』は、上映時間46分。

高校生の主人公タカオが、雨の公園で出会った女性ユキノの存在によって、少しだけ日常に変化が起こり、自分の夢と向き合う物語が、46分という長さにちょうどいい。通常の劇場公開作品に合わせ、もし90分くらいの長さで作られていたら、不要なエピソードが絡んでしまい、おそらく間延びしてしまっただろう。物語と時間の関係を見極めること。そこに本作の作り手の才能が輝いている。

雨が止み、虹が輝くとき…

繊細な光が作り出す空の美しさは、アニメであることを忘れさせる
繊細な光が作り出す空の美しさは、アニメであることを忘れさせる

もちろん、ただ単に物語と時間がマッチしていればいいわけではない。

どれだけ観る人を共感させられるかが問題だ。

雨の匂いさえも漂ってきそうな、妙に居心地のいい空気感は、中盤、徐々に陽の光が射し込み、最後の方には虹も現れる。タカオの心象風景ともとれる、綿密に計算された映像表現もあって、この作品は、多くの人に、大切だった「出会い」を思い起こさせるマジックをかけてしまう。あの時、あの人に出会ったことが、今の自分の一部を作っている…と、忘れていた記憶が掘り起こされるのだ。

ぼく自身、ふと頭をかすめたのは、高校時代の、ある日の記憶だった。

当時から映画が好きだったぼくは、雑誌の試写会プレゼントに当選すると、わざわざ電車で片道1時間をかけて都心の試写会場へ通う、端から見れば“映画オタク”高校生だった

ある日、学校が終わって上映ギリギリに銀座の会場に駆け込んだぼくは、わずかに残った空席のうち、最前列の椅子にすべりこんだ。

「きみ、映画が好きなの?」

間もなく映画が始まるというそのとき、突然、話しかけてきたのは隣の女性だった。

「はい…」

「そう。じゃあ住所教えて。試写状を送ってあげる」

映画関係の執筆をしているというその人は、実際にそれから、さまざまな映画の試写状を郵送してくれた。そしてぼくは映画誌で、その人の名前を発見して、不思議な感覚に浸ることになる。「映画評論家」という職業を頭では理解していたものの、高校生としては別世界の存在。しかし現実でそのような人と出会うことで、手が届く「仕事」として実感できた気がするのだ。そのきっかけを作ったのが、あの一日だった。

偶然の出会い。その記憶がよみがえる幸福

靴職人をめざすタケオは、年上女性ユキノと会える雨の日を心待ちにする
靴職人をめざすタケオは、年上女性ユキノと会える雨の日を心待ちにする

あれから時が流れ、現在、ぼくは映画に関わる執筆を仕事にしている。仕事への道筋に、あの女性は何の関係もない。でもときどき、高校時代の偶然の出会いが頭によぎることがある。仕事を実感させてくれた彼女の存在が、今の自分に、ささやかだけど、じつは核心的な影響を与えた気がしてならないからだ。

もし、もう一度、会う機会があったらお礼を言いたい。あの試写会で声をかけた高校生が、今こうして、あなたと同じ仕事をしています、と…。ただ、残念ながら、その人と再会する機会はこれからもなさそうである。

『言の葉の庭』のタカオも、何年後、あるいは何十年後かに、偶然の出会いを思い出すことだろう。木々を濡らす雨の匂いとともによみがえる記憶は、大人になり、渇いてしまった彼の心に優しく寄り添ってくれるはずだ。

『言の葉の庭』 (c)Makoto Shinkai/CoMix Wave Films

映画ジャーナリスト

1997年にフリーとなり、映画専門のライター、インタビュアーとして活躍。おもな執筆媒体は、シネマトゥデイ、Safari、ヤングマガジン、クーリエ・ジャポン、スクリーン、キネマ旬報、映画秘宝、VOGUE、シネコンウォーカー、MOVIE WALKER PRESS、スカパー!、GQ JAPAN、 CINEMORE、BANGER!!!、劇場用パンフレットなど。日本映画ペンクラブ会員。全米の映画賞、クリティックス・チョイス・アワード(CCA)に投票する同会員。コロンビアのカルタヘナ国際映画祭、釜山国際映画祭では審査員も経験。「リリーのすべて」(早川書房刊)など翻訳も手がける。

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