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書籍をPRすることで食っていこう!と決めた女性の話

坂口孝則コメンテーター。調達コンサル、サプライチェーン講師、講演家
人との縁、そしてそれを裏切らない努力こそが、今の私を築いたすべて(写真:アフロ)

初出:「会社を辞めたぼくたちは幸せになったのだろうか」の一部を大幅に加筆して掲載

このところ、第二次、第三次の起業ブームが起きています。個人がサラリーパーソンから独立し、士業やコンサルタント、また個人事業主として食っていくとき、どのような困難が待ち受けているのか。私は一人の独立した人間として、他の先人たちに興味を持ちました。彼らはどのように独立して、食えるにいたったのか。それはきっと起業予備軍にも役立つに違いありません。さきほど、「第三次の起業ブーム」と入力しようとしたら、「大惨事」と変換されました。まさに大惨事にならない起業の秘訣とは。書籍PRを生業とする奥村知花さんにお話を聞きました。

――まずは、起業するまでのお話を教えてください。

私はそもそも「起業したい!」とか全然考えていませんでした。どちらかというと、流れに逆らわず身を任せていたら、独立し、そして14年があっという間に経ってしまっていました。だから、起業を目指し準備している方々にとって参考になるかは、正直なところわかりません。それでも、このインタビューをお受けしたのは「せっかくお声掛けくださったのだから」という、やはり「流れには身を任せる」私の性質と、ただひたすら目前のものをこなし、前のみ見てきた私にとって、過去を振り返る良い機会だと思ったからです。それでも、これから始まる経験談から、なんらかのメッセージやヒントを受け取ってくれる人がいるのであれば、それはとっても素敵なことだと思います。

今から15年前、私は飲食店を複数経営する企業の、たった一人の広報として会社員時代を過ごしていました。もう少しさかのぼると、その企業が経営するイタリアン部門、フレンチ部門の他、新たにチャイニーズ業態をも展開し始めるにあたり、広報部を作るタイミングで採用されたのが、今の私のキャリアの出発点になりました。採用当時、私は飲食業界未経験だったし、広報と言っても、狭義の販促活動しか経験がなかったからです。だから採用されたのは、面接以前に送付した「この店でこんなことしたい」「こんな風に雑誌で取り上げられたら素敵だろう」「こんなことをしたらテレビでとりあげてくれるかも」といった素人ながらも私なりにまとめたレポートを評価してくれた結果だったのではないかと思います。

入社してからは、「レポートで書いてくれたものそうだけど、君がやってみたいと思う広報活動はなんでもやってみて良いよ。ただ、前もって相談だけはしてくれよ」という社長のお墨付きもあり、かなり自由にさせてもらいました。だから現在の私の仕事に活きるパブリシティ活動も、すべてはここから始まっています。

――初めての広報業務は、どのように行っていったのでしょうか。

広報業に関してのビジネス書は読んだものの、広報業務を誰かに教えてもらったわけではありません。先生もいませんでした。ただ、良かれと思ったことをこなしていきました。取材立会いの場での名刺交換をはじめ、マスコミ電話帳や雑誌の背表紙近くにある編集部の番号に突撃挨拶電話などをし、ひたすらアポイントをとって、季節のフェアや映画とのタイアップフェアなど売り込みます。もう少し仲良くなったら、それぞれのフェア自体をもっと取り上げられやすいようにするにはどうしたらいかなどの相談もします。さらに距離が近くなれば、友人になります……。そんなことを繰り返していたら、気がつけば周りには「広報」としてはまだよちよちの私を助け、導いてくれる先生のような友人たちが沢山いました。素人同然の私を拾ってくれた会社や社長に恩義も感じていたし、自由に仕事をできる環境に、私はすっかり満足しきっていました。

――奥村さんの転機についてお話しいただけますか。

はい、そんな年月を幾年か過ごしているときに、突如転機が訪れました。それはフレンチ部門の看板ブランドを3週間後に他社にM&Aをするという話でした。買い先の企業は、オペレーション全体を望んでおり、店舗で働く人間も、本社内でそのブランドに携わる者もすべてという話でした。当然広報も含まれます。社内は、まるで蜂の巣をつついたように慌しくなり、私も当時進めていた案件をすべてまとめなおす必要がありました。

買い先の企業は、誰でも知っているような大きな会社ではあったけれども、私にとっては全くもって良い印象のなかった企業でした。しかしこのときも私は流れに身を任せ、気持ちの上での紆余曲折はあったものの、同僚たちと一緒に、その会社へ行くことにしました。そして2週間後、退職を決意しました。あまりにも文化が違っていたからです。その相違なる文化については、あまり思い出したくないし、私にとってはここで書くのも多大な躊躇を伴うので、割愛します。

資料はすべてすでにまとめていたから、引き継ぎ作業はそれを渡すだけでよかった。そのため、退社までの残り2週間で私がとった行動は、当たり前のことだけども、お世話になったマスコミの方々やタイアップなどでご協力いただいた企業の方々に一人ひとり報告することのみでした。M&Aに伴い転職する旨をすでに一度連絡していたので、この作業はとてもスムーズだったし、それぞれときちんと電話で話すことで、「次決めてるの?」「PR会社紹介しようか?」「うちに来ない?」などのご助言やお誘いなども多々いただき、とにかく感謝ばかりの日々でした。

そんな中、M&Aのタイミングで辞めることを決意した店舗の同僚たちから「独立するんだけど、広報はやっぱり奥村さんにお願いしたい」という誘いがあり「フリーで仕事するのも良いのかもしれない」などと、うっすら思いながら、退社の日を迎えました。焦らず、ゆっくり考えようなどとのんびり実家で過ごしていたら、とある出版エージェントから「今から15分後に目黒の出版社まで来れるか?」という電話を受けました。

――出版社からの電話について、詳しく教えてください。

電話の主は、アップルシード・エージェンシーの社長、鬼塚忠さんでした。当時は空前のカフェブームです。全く「カフェ」とは関係なくとも、人や声の集まるところにはなぜか「なんちゃら・カフェ」と名付けられた時代で、名店カフェのイメージ本が次々と出版されていました。私も担当するフレンチカフェの本をどうにか出せないかと、いろいろと相談にのってもらった人物でした。そんな彼が、私に「奥村さんは本が好きなんだから、本のPRもすると良いよ」と、版元を紹介してくれたのです。当然、ここでも流れには逆らわずの精神でクルマを飛ばして出版社へ向いました。それが私の初めての「書籍広報」としての一歩でした。

私のパブリシティ活動は、あちこち飛び回ってデスク前にいる仕事内容ではないものの、一応デスクとPCをご用意いただき、担当編集からリリース作成指南を受けながら、一歩一歩前に進んでいきました。出版業界のあれやこれやをご教示いただいたり、書籍出版に携わる人たちが集まる飲みの席にもお連れいただいたり、本当に多くのことを教えていただきました。そうこうしているうちに、同じ編集部の他の方から新たな書籍の依頼をいただいたり、売り込みに行った先の雑誌編集部から、書籍紹介の執筆依頼や別の版元から出る書籍のPR依頼をいただいたりといった、幸運にも恵まれていきました。

――初仕事とギャラ、そして安定するまでについて、お話しいただけますでしょうか。

はい、最初の話し合いでは1タイトルにつき15万円という約束だったギャランティも、「それでは暮らせなかろう」と編集担当が親身に考えてくれて、次の月も同じ額をお支払いただいたり、重版のタイミングでプラスアルファいただいたりといった収入もどんどん安定していきました。気がつけば、1タイトル50万円になっていました。実家暮らしだから衣食住に困らなかったとはいえ、収入のある月ない月があるのは不安なことでした。安定して毎月収入をきちんと得られるようになったのは、1年後です。

ある時、実家の父が「そろそろ一人暮らしでもしないか?」と言いました。近所に住む祖母がこのところ痴呆がすすみ、祖母と祖母の荷物、そして動物たちを迎えるにあたって、場所が必要とのことでした。フリーの書籍広報を初めてからやっと1年だけれども、私には当時仕事をくれるクライアントが4社ありました。中でも2社は定期的に仕事を出してくれていました。そこでそれぞれの担当の方に相談したところ「ひとり暮らしを始めるなら、定収入型にするのはどうだろう? 1タイトルの金額ではなく、ならして年間契約で月25万円ではどう?」と契約を切り替えてくれました。もう一社も金額は違えども、年間契約にしてくれました。これで2社が年間契約になり、収入も安定し、私の一番大きな不安も消えました。

一人暮らしをきっかけにした相談以外で、私は「私に仕事をください」という自分の営業を、この14年間、ただの一度もしたことがありません。もちろん、次の年に契約を更新してもらうためには、結果を出す必要があるので、案件によっては結果がなかなか出ない不安もあったりもするが、収入や生活が安定するからこそ、気持ちに余裕を持って仕事に取り組めたのではないかと、振り返ってみると思います。

繰り返すが、大企業に就職し、きちんと「広報とは」といった勉強をした経験はありません。いわゆるセミナーで広報業について学んでも来ませんでした。広報の先輩に手取り足取り指導された経験もありません。これは私にとって、よく口にもするコンプレックスでした。すべては我流でした。けれども、そんな私を雇ってくれたり、公私ともの相談に乗ってくれたり、指導してくれたり、要望を伝えてくれる人たちはみんな、私の先生であり、師匠だったのです。「書籍広報」としての私を、出会った人々が育てていってくれたのです。

――奥村さんから、これから起業を目指す方へのメッセージをお願いします。

これから起業を目指す自分にとって、この経験談のなにが関係あるのか?」と首をかしげる方に、たったひとつ、私が伝えたいことは、月並みな言い方だけども「人との縁、そしてそれを裏切らない努力こそが、今の私を築いたすべて」だということです。与えられた機会に対し、コツコツ励む。それこそが、上手に流れに身をまかせる秘訣であり、14年間営業知らずでいられたことの理由なのではないかと思います。

<プロフィール>

奥村知花(おくむら・ちか)

本しゃべりすと/書籍PR

1973年生まれ。成城大学文芸学部卒。総合アパレル商社、レストラン業界を経て、2002年より書籍専門のフリーランス広報として独立。以後、新刊書籍のパブリシティ活動のほか、「本しゃべりすと」という独自の肩書きのもと、雑誌の特集記事や書評エッセイの連載執筆、ラジオ番組などでの書籍紹介を担当している。

Facebook:https://www.facebook.com/chicachicao

初出:「会社を辞めたぼくたちは幸せになったのだろうか」の一部を大幅に加筆して掲載

コメンテーター。調達コンサル、サプライチェーン講師、講演家

テレビ・ラジオコメンテーター(レギュラーは日テレ「スッキリ!!」等)。大学卒業後、電機メーカー、自動車メーカーで調達・購買業務、原価企画に従事。その後、コンサルタントとしてサプライチェーン革新や小売業改革などに携わる。現在は未来調達研究所株式会社取締役。調達・購買業務コンサルタント、サプライチェーン学講師、講演家。製品原価・コスト分野の専門家。「ほんとうの調達・購買・資材理論」主宰。『調達・購買の教科書』(日刊工業新聞社)、『調達力・購買力の基礎を身につける本』(日刊工業新聞社)、『牛丼一杯の儲けは9円』(幻冬舎新書)、『モチベーションで仕事はできない』(ベスト新書)など著書27作

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