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スカーレット・ヨハンソンが離婚申請:フランス人に恋したセレブたち

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
夫婦でパリにポップコーン店も開けたスカーレット・ヨハンソンとロマン・ドリアック(写真:Splash/アフロ)

“パリのアメリカ人”は、ひとときの夢だった。

米東海岸時間7日(火)、スカーレット・ヨハンソンは、2度目の夫でフランス人のロマン・ドリアックに対して、離婚を申請。挙式は2014年10月1日なので、2年半弱の結婚だったことになる。

ふたりが昨年夏から別居しているらしいことはすでに報道されており、離婚は間近だろうと思われていた。実際、ドリアックの離婚弁護士によると、夫婦は、ひとり娘ローズちゃんのことや金銭面などについて、密かに話し合いを行っていたところだったという。それだけに、一方的にヨハンソンがニューヨークの裁判所に離婚申請をしたのは、ドリアック側にとってショックだった。メディアに騒がれるのを避けるべく、水面下で進めてきたのに、突然ヨハンソンがこのような行動に出たのは、親権に関する交渉を有利にするためではないかという見方もある。

ヨハンソンはローズちゃんの共同親権を求めているが、主要の親権は自分で、娘は自分と一緒に住むと要請している。一方で、ドリアックの弁護士は、映画で忙しいヨハンソンではなく、ドリアックがローズちゃんの面倒を見てきているのが実情だと主張。ローズちゃんがパリで父親と一緒に住めるよう、徹底的に裁判で闘うかまえだ。ふたりは結婚前に婚前契約を交わしているが、将来生まれてくる子供の親権について触れられていなかった。

ドリアックは、フランスのアート雑誌の元編集者。現在はアートのキュレーターを務めている。ふたりはタトゥー・アーティストを通じて知り合い、10ヶ月後に婚約。結婚中、ふたりは、ドリアックの出身地パリと、ヨハンソンの出身地ニューヨークを行き来する生活を送っていた。昨年秋には、夫婦でパリにポップコーン専門店をオープンしている。

アメリカ人の目に、ヨーロッパ、とくにフランスは、ロマンチックかつ洗練されて映るのか、ヨハンソン以外にも、フランス人と恋に落ちたハリウッドセレブは多い。それらの恋物語の行く末は、さまざまだ。国際的な親権争いとなりそうなヨハンソンのケースは、中でもかなり複雑なものになりそうな気配だが、ほかの人たちはどうだったのか、振り返ってみる。

ナタリー・ポートマンとベンジャミン・ミルピエ

夫妻の間には、先月、第二子が誕生したばかり。今度は女の子で、アマリアちゃんと名付けられた。長男のアレフ君は、現在5歳だ。

ふたりの出会いは、ポートマンを初のオスカー受賞に導いた「ブラック・スワン」(2010)。バレリーナの世界を描くダークなこの映画で、ミルピエはポートマンにバレエの指導をし、ダンサー役で出演もした。「映画の中で、彼が『君となんか寝たくないよ』と言うシーンがあるけれど、本当は私と寝たかったのよ」と、交際が公になった後、幸せそうにポートマンは語っている。ふたりは2012年8月に結婚した。

ミルピエはフランスのボルドーに生まれ、長年、ニューヨークのバレエ界で活躍してきたダンサー兼コレオグラファー。2013年、パリ・オペラ座バレエ団の芸術監督に就任したのを受けて、一家はパリに移住したが、昨年、L.A.に拠点を移している。

ハル・ベリーとオリヴィエ・マルティネス

パリ生まれのマルティネスは、ベリーの3番目の夫。ふたりは「ダーク・タイド」(2012) の共演で知り合い、2013年7月にフランスで結婚式を挙げた。同年10月には、息子マセオ君が生まれている。

破局宣言は2015年。その後、一向に離婚の手続きを進めないことから、裁判所が「これ以上何もしないならば棄却します」と警告をしたりしていたが、昨年末になって、ベリー側の都合で、どたばたと離婚が成立した(ハリウッド離婚:「今」なのはお金が理由。タイミングで変わる、いくら取れるか、取られるか)。

ふたりの間には婚前契約もあり、子供の親権に関しても、揉めごとはとくになかったようである。このように争いなく物事が片付いたのには、ガブリエル・オーブリーの影響が大きい。

結婚はしていなかったが、長女ナーラちゃんの父親であるオーブリーと、ベリーは長年にわたり親権や養育費をめぐる争いを続けた。マルティネスと交際を始め、ナーラちゃんを連れてパリに引っ越そうとした時も、オーブリーが娘に会いにくくなるという理由で、裁判所に差し止められている。その結果、アメリカに住まざるをえなくなったマルティネスとオーブリーが殴り合いのけんかをして、警察沙汰になってもいる。

ミラ・ジョヴォヴィッチとリュック・ベッソン

フランスの映画監督ベッソンと結婚した時、ジョヴォヴィッチは22歳。ベッソンは38歳だった。16歳で最初の結婚をしたジョヴォヴィッチにとっては2度目、ベッソンにとっては3度目。「フィフス・エレメント」(1997)の撮影中に交際を始めた時、ベッソンはまだ2度目の妻と結婚していた。

結婚後、ジョヴォヴィッチ主演、ベッソン監督で「ジャンヌ・ダルク」(1999) を作るも、夫婦は2年で破局。しかし、その期間について、ジョヴォヴィッチは後に「あれは私のキャリアにおける大きなターニングポイントだった。あの映画で夫に出会い、彼に満足してもらえるよう、私は一生懸命仕事をしたの。私は、女優として成長したのよ」と語っている。

ジョヴォヴィッチはその後、「バイオハザード」のイギリス人監督ポール・W・S・アンダーソン監督と結婚し、ふたりの女児をもうけた。ベッソンは2004年に4度目の妻と結婚している。

グレース・ケリーとレーニエ3世

「喝采」(1954)でオスカー主演女優賞に輝き、「ダイヤルMを廻せ!」(1954)「裏窓」(1954) などヒッチコック映画でも人気を集めたケリーは、1955年4月、カンヌ映画祭でモナコ大公レーニエ3世と出会う。この時、ケリーは、フランス男優ジャン=ピエール・オーモンと交際していた。

同年12月、レーニエはアメリカを訪れ、ケリーと彼女の家族に会い、その3日後にプロポーズ。翌年4月、モナコで結婚式が行われた。同年公開された「上流社会」が、彼女の最後の出演作となっている。1982年に車の事故で亡くなるまで、ケリーはモナコの公妃であり続けた。

レーニエと結婚し、異国で新しい生活を始めた頃のケリーの様子は、ニコール・キッドマン主演の「グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札」(2014)に描かれている。今作の世界プレミアは、ケリーの人生を語るのにふさわしいカンヌ映画祭で行われ、大きな注目を集めた。だが、北米配給権をもつハーベイ・ワインスタインとオリヴィエ・ダアン監督が編集をめぐって大きく揉め、ワインスタインはカンヌ出席をボイコット。当初は、オスカー候補として積極的に押す姿勢であったのに、北米公開を延期するなど確執は衰えず、最終的にアメリカでは劇場未公開のままテレビ放映という扱いを受けている。

ジョニー・デップとヴァネッサ・パラディ

正式に結婚はしなかったが、フランスのミュージシャンで女優のパラディとデップは、14年もカップルとして過ごし、ふたりの子供をもうけている。

出会いは1998年。デップはローマン・ポランスキー監督の「ナインスゲート」(1999)の撮影で、パリにいた。ある夜、ホテルでのディナーパーティに出かけた彼は、そこで見かけたパラディに一目惚れする。「彼女は背中が大きく開いたドレスを着ていた。最初に見たのは背中。次が首。そうしたら彼女が振り向いて、僕は彼女の目を見た。その瞬間、シングル男の人生は終わったんだよ」と、デップは後に語っている。

ふたりは2012年6月に破局を発表。翌年、デップは、「Rolling Stone」へのインタビューで、「僕はいつもいないし、彼らがいないことがある。大変なんだよ。彼女は辛かったし、僕も辛かった。子供たちも。(中略)どんな理由で終わったにせよ、その人を気にかけることに変わりはない。彼女は僕の子供たちの母。子供がいるから、これからもお互いの人生に関わりあい続ける。それならば、できるだけ良い関係であるほうがいいんだ」と語っている。

デップは2015年2月にアンバー・ハードと結婚し、翌年5月に破局した。パラディはフランス人歌手ベンジャミン・ビオレとの交際を経て、最近はフランスの映画監督サミュエル・ベンシェトリとつきあっているようである。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「シュプール」「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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